Any signs of emotion, sometimes touch my heart through the face, action, word, and air.
Even people who is not good at express frankly emotions casually mention honest mind to outside though, people are taking many information by those slight things without realizing as well.

In these days, I'm thinking about human emotion as a routine activity.
People are easy to find simple resolution without pick all emotions I think. Including myself, this is very natural coz nobody want a great amount of info for one answer. Simply and slightly sign brings truly short answer by luck or sense, coz people should take that way in a "limited" life.

On the other hand, some of honestly mind would be in a trash. yes might be.
Something like this can happen in Japan coz people here care about others' feelings and modesty is considered a virtue.

Be honest! This is too easy saying to solve.
When I face such a situation, I usually take a way like being naturally and hide but even at the same time the fact got out without realizing.umm...

I don't know such a contradictory behavior leads a mature personality or heartache.
At least, we are constantly being required manipulating our emotions through all ways.

Don't think. Feeeeel?? :)
・・・ってタイトルの記事は何年か前に書いた様な気がするけど、ま、いっか。

特に書くこともなくて、一年の総括!なんて意気込みもないままにタイピングしてるけれど、年の瀬ですよね。クリスマスですものね。そりゃ街だとかも色づいて、ウキウキしちゃう季節なんでしょうが、まったく関係のないポジションで今年も過ごせそうです。

仏教徒だとかなんだかを建前に死ね死ね団を結成するとか言っちゃうこともなく、素直に、率直に、年の瀬の行事ほど興味がわかないものはないんですよね。
世の中にはホント早く通常営業に戻ってほしいし、どこぞの日付に重きを置くことよりも、平日の何もない日を幸せに思える人生の方が僕は好きなので。
これが人にはなかなか伝わんないんですけどね。ま、この感覚ばかりは仕方ない。

メリハリだとか言うけれど、ほのぼのと同じサイクルを小さな歩幅で前進する方が、なんか着実で安心する自分の存在を見つけてます。
大掃除だなんて、普段からキレイにしてれば必要ないわけだもんね。寒さとともに押し寄せる忙しなさが過ぎ去り、早く普段ってのを取り戻してくれる様この時期は毎年願ってます。

例年になく、この一年はとても長かった。
ホント、それにつきます。
幸いにして海外に多くの友人がいてくれているので、自分のタイムラインだとかには海外からの投稿も、判読不可能なつぶやきも多く投下されています。

僕自身はそういったつぶやき機能をいろんな目的をもって使用しているつもりではいるんですが、日本人に限って言えばやはり食べ物についての投稿が多い様な気がします。
次いで、台湾だとかアジア諸国からは俗にいう「かわいらしいもの」。アクセサリだとか子供だとか、game系のスパム投稿なんかも多いと思うんですけどね。

でも、意外やFBの走り出しであるはずの欧米諸国の方々からは、列挙したような投稿機能を駆使した感じではFBは使われていないんですよね。
特に食べ物だとかそんなものを目にする機会なんてほとんどなくて、おそらくパーティの写真だったりを数ヶ月に一度目にするかしないかの、投稿機能に限定すれば、その程度の使われ方をしていたりするようです。

そんな兆候から見る限りは、FB本来の使い方を日本では知らされていない様な気になるんだなぁ。。。

ただの文化の違い、こういった「つながり」ひとつ、海を隔てた向こう側では、日本とはまったく違う使われ方をしている現状があるとするなら短絡的な理解に収まるだけなのかもしれないけれど、ただ見えていないものがあるような気がして不安です。

株価だとかに現れる様に頭打ちのSNS市場が、本当にこの日記的なサービスだけに終わるのかどうか。コミュニケーションを視覚化するその可能性に急に興味がわいてきたかな。

ただの一方向性メディアにとどまらない、少し新しく、少し元気な使い方が出来る様、ちょいと模索をしてみたいと思います。
なんてことをよく耳にします。
これ怖いですよね。いつの間にかもう一人の自分が一人で歩いていくんだもの。その自分は絶対にオナラをしないのかもしれないし、素手でりんごを潰したりするのかもしれない。もしかしたら、マーティン・スコセッシと友達だったりするかもしれないし、いいともの明日のゲストを毎日決定する権利を持つ人間なのかもしれない。

なこたない。


他人の端的な印象に作られる過大であったり、矮小であったりする自分が、知らされて刺激になったり落胆になったりすることもあるわけだけど、付き合い長くともドンピシャで当てられた人は人生でも極僅かなようにも思います。

かくいう僕も、いろんな人との記憶や印象をもとに、各々の人間像をカタチづくるわけです。こうだろうな、ああだろうなと。それも大概違ってるんですよ?多分。でも、そんな思い違いを解消することって、ただ近くにいればいいとかそう言う問題じゃないような気がします。
どれだけ思いやれるかともまた違う。なんというか、ホント人間らしさ、ひいては自分らしさをどこまで知っているか、知らされているかだけが問われている様な気がするんです。

おそらくにして、世の中は色んな人が色んな多種多様な数値の色でバラ色を配色しているのかもしれない。美談や善行が飛び交う、倫理だらけの社会が目の前にあって、品行方正を全ての人が遵守するかの様な、ルール上の美しいとされる社会。
でも、人間らしさってそういうところにはないんですよね。

108の煩悩に表される様に、人は本能をもつ生物。偉人も然り、誰しもが自分に準えられる様な人間なんだということを見直すと、他人も自分も然程変わることはないと思うんです。
もちろん、時間や環境、いろんなものが影響して派生する表情や性格、感覚はあるものだけれど、根幹は人間、ヒトDNAをもつ人間、自分を知れば他人が分かる様になってると思うんですよね。

おそらく、「自分にも耳が痛い自分のこと」ってあると思うんです。誰しも。欲望だらけだったり、生態的であったり、衝動的であったり。でも、それに対する承知や理解、可能性がひとつあるだけで、他人の印象って少ない情報でもより具体的に、近くなるものだと思うんですよね。

心理学とも宗教とも違う、なにか根幹の部分の共通項、ま、自分自身のことなんですけど、それを深く分析することで他人を描く方法は、ある種の芸術観に近いものだと思います。
ルールを飛び越えた本能の解放を提唱する様なことは全然面白くないので言わないんですが、ま、お互い”人間”、分かってるっしょ?みたいな関係(←雑)をもてるだけで、人は予定以上に近くなれるものだと、経験上感じてます。

脱上っ面宣言。
以上。
判断基準にはいろいろあるんですよね。
僕の場合には、世の中の景況を見抜くような視野もなければ知識もないために株なんかでも売り時を見極められなかったりしてさ。
でも、その道の人にはもちろん当たり前の様に分かることで、今こうやってウジウジやってる間にも損切りして新しい見込みのある株を買うなんて行動に半年前に出ていたりもするのかもしれない。

世の中の咀嚼もそれと同じで、結局経験しなければ持ち得ない視野、判断があるってことです。
恋愛にのめりこむのもいいし、仕事に打ち込む、趣味に没頭するのも全然悪くない。その分の視野はまた他人には出来ない判断を導くかもしれないことを考えれば、遊んでいようがなんであろうが否定しきることも出来ないものなんでしょうね。
そういった経験を重ねて、損をしない判断をやっと選べる様になって、人が安全に進めるのだとすれば、あらゆる経験はかってでるべきだし、カチコチに固めない、常に変容する準備のある自分の基準をもつべきだと僕は思ってます。

分かりきったことをかってでるような復習型の経験を推奨するつもりではなくて、自分の基準の変容値の範囲内に納められるくらいの振り幅を保ちつつ、可能性を補正していく様な視野をもっていると応用力の育成につながる様な気がするし、目の前を流れる日常から何も学ばずに終わることがほとんどなくなる。
それだから新しい経験が楽しくなるような、ポジティブなサイクルが生まれるんだと思ってます。


また違った基準の人たちと話すのもとても楽しいのだけど、キャッチボールしている内に変わっていく自分と変わっていく相手がいる時にはとても気持ちがよくなります。単純w。
どちらかがカチコチだとどうしてもね。教科書と同じで一方通行な眠たい反復になりがちなのは仕方ないとはいえ、相乗効果は生まれ得ない。
自分のかけ算なら一人でいるのと同じなので、やっぱり物足りなさを感じてしまいます。

本能的に気付いてるんだろうな。矛盾かな、変容の中にこそ答えが隠されてる。


倫理やルールはもちろん飛び越えてはいけない境界だけれど、経験もなく刷り込まれた概念への過信が未来を閉ざす前に、思い込みを取っ払うことからはじめてみると、ただ時間をかける以上に数倍イイものが手に入る。
短い人生を自分がどう変わっていけるかを示しながら生きることも、またひとつの意義なんだろうな。

もっともっと変化して、新しい可能性に触れたいです。