例えば「食べる」を表すとして、「美食」というのと「食いしん坊」というのでは印象が全く違うんですよね。
言い方一つで違うのは当然として、視覚からはいる場合にはどうなんだろうと思うわけです。
その光景を「美食家」と捉える人間もいれば、ただの「大喰らい」と捉える人間も多分いそうです。

好きの表現というか、自分の思う表現とその欲望に類する行動が、必ずしも他人の視野のそれとは噛み合わないことなんて多くあるんじゃないでしょうかね。

親切をお節介としていたり、気遣いを当然のことと捉えたり、意識しないことを勘ぐった上で皮肉と悟ったり。
人間の感情は常日頃フラットであることが稀である以上は、その波長はあって然りなんですが、その波長だけで物事を捉えきろうとすると、とんでもない方向に事実は曲げられてしまいそうです。

人間は機械ではないもの。その変容を受け入れてはじめて対話の位置に立てることってよくあって、日常で「冷静」とされている人は、言語化しなくともそこへの理解をなんと無しに体得している様な気もします。ただの熱意だけでは事実からは遠のいてしまうことを、およそ理解しているんじゃないでしょうかね。

するかしないかでいえば、人にどう思われたいかを意識することは、社会に関わる身としては最低限必要なことだとは思います。
だからこそ、受ける側の変容の部分、その可能性を視野に入れてあげないことで、その判断がただのエゴに映ってしまうことは仕方の無いことなんだと思います。

黒があれば白がある世の中だから、全てを頷かせることは不可能としても、どうだろう。
面倒くさがらない、おおらかなスタンスで、人の変容を受け入れられると、自分のココロに、言葉に余裕がもてるような気がします。

理解しあいたいと思うのなら尚更。
人はえてして違うものと理解した上で対話を楽しめる様になると、今までより少し進んだ、思い描くものに近いコトが生まれそうです。お互いにね。