部屋は結局「寝るためだけのもの」としての位置づけもあってか、ほとんど掃除をしてないです。

今日はもう一週間分のクタクタが雪崩の様にカラダにきたもので、夕方まで起きられなかったのだけど、ムックリ起きぬけ、おもむろに部屋の掃除に時間を充てるという衝動に駆り立てられました。

かれこれ。。。年末ぶり??
だってモノを動かさないし、部屋でモノ食べるわけでもないし?と思ってみてたものの、やっぱ出ますよねー、ホコリ。

途中でなくした覚えの無いハードコンタクトレンズとか、よくもまぁ机の足下で割れずに落ちてたもんだと感心したりと。
掃除機かけるつもりが急遽水拭きに変更しちゃったものだから、導線の階段とか玄関までついでに水拭きしちゃってた。。。


でも、おかげでスッキリ☆
掃除ってメンタル的にもスッキリさせる効果もあるなーと実感したね。

かといって、ここから毎週掃除する気にはなりゃしないけれど、なんかうやむやな気分とか、停滞するそれを洗い流すような、爽快感が今晩はあるようです。

と、ここまで打ちながら早くも睡魔が。。。
いかんなー。。。体力つけにゃ。
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5月9日「今日のダーリン」より。

なんだか、たくさんの人の、とても多くの時間が、「正解」を探すことに費やされているように思えてなりません。
いや、遠慮なく言えば、「正解」探しばかりで人生終っちゃう人ばかりじゃない?

「正解」じゃないことを選ぶと、損? 悪? 迷惑?
「正解」病ってのが、いまの時代病のような気がする。





・・・たしかにそうだよな。。。と、やっぱり感心。

生活の中、正解であるべきものってのはなんなんでしょね?
比較や信用の投げ合いが「正解」を「求めるべきもの」として成り立ちがちだけれど、
その正解があるからといって、その先はどうだったんだろう。

おそらくにして、今はじまったことじゃないんです。
この「正解」の奪い合いが、歴史を象ってきたことも事実だし、
それなくしての競争の原理は生まれ得ないかもしれない。

でも、個人の視点に立って、「損をしたくない」という具合と「正解」を選ぶというそれは、必ずしも補完し合う関係にはないような気がします。
世の中的な正解と、個人としての本意が同じではないのと一緒。求められるべき状況に「正解」でなく「答え」があるんでしょうね。

答えなんて間違っててもいいでしょ。
「正解」ばかりを突き進んで求めなくとも、それを正解とする努力の方が、よっぽど人間的で、よっぽど魅力的に映るもんじゃないかしらねー。

その時、その場のその表情が、おそらくにして最大のヒントです:)
ま、具体的なことは避けて話しますけれど、人にゃ迷惑はかけてもいいけど、悲しませちゃいかんよなって思います。

人への迷惑って、なにかしら違うカタチで返せるものだと思うんです。どうしても頼らなくちゃいけないことや、結果として避けられない波及を後々フォローすることは、多分がんばれば出来るコト。
でも、人へ与える悲しみへのフォローって後になったところで返せないものが多いよなぁ。。。と思うんです。

身の回りの最近あった話からの感覚なので、遠い記憶や暗意を込めたものではけしてないのだけれど、悲しみを喜びで埋められるかと言えば、ちょっと違うと思うんです。
対極の様で全く違う事象。的確にフォローしあうような相互関係ではない"感情的な側面"であって、理性的に片付くものではけしてないんですよね。

逆に、現代社会が理性上のものである以上、「悲しませるくらいなら迷惑をかけちゃおう、頼っちゃおう」っていうのは、受ける側の立場に立ってみては、悲しみとは逆に少し嬉しいモノだと思うんです。

全てが全てとは言わないけどさ。恩を着せられる故~だとかそういう嫌らしい話ではなくて、それが迷惑を通り越して悲しみに転ぶくらいなら、手を差し伸べる方が受け手側からしてもスッキリする。
頼られる嬉しさと、人を助けられる機会。人が本来、コミュニケーションを欲している、その本能がそこにあるような気さえします。

でも多分、大きく捉えて「人への気遣い」ってそういうところに基本があるんだよなぁ。
大きな落胆が悲しみへと転化してしまう様に、少なくとも人を悲しませないコトを総括的に考えられていると、世の中の物事って基準が取れて、スムーズなものになるんだと思います。

どんどん迷惑かけていくぞー!とは言わないけれどw、頼るべきところを頼る事を恥と思わない事に、ポジティブな光明を見出せるような気がしてます。

さ、明日からは休みでないぞ?
喜ばせられなくとも、まず、悲しませない日常を送れる様に、心から精進します。
なんてんですかね、こう極論的に書いてしまってはいけないことだと思うんですけどね。
人には悩みなんて色々あってさ。その大半は被害者的な立場から生まれるものだと思うんです。

人はされる側の立場に立った時、自己正当のための力を存分に発揮出来る仕様だもんだから、その観点からの物言いって普段のそれより流暢なことも多いような気もします。

でも、ひとつの事象に対して両極の被害者がいたとしたら?
ちょうどそんなことが目の前にあるもので、当然のこと、驚きもしないんですが、そういう事象も人が関わる以上大半を占めるものだと僕は思ってます。


どちらか一方だけが加害的立場にあることの方が結構稀なこと。
事実はひとつしかない中で、被害も加害も一方的なことの方が、振り返ってみて珍しいことと思うので。

人を信用していないとかそういったことではなくて、その事実をどう咀嚼すべきかを当事者意識ばかりの判断に委ねていると、簡単に間違えることが出来る。それを避けたいだけのことなんですけどね。
だから、一方的な話をカンタンに同情するのは返って失礼なこととも考えるし、馴れ合いに映って仕方が無い。冷血だとも言われかねないけれど、その情の背景で、知らないままに傷つく人が増えていくのはやっぱり嫌なので。

小学校の時かな。知らずのうちに傷つく人がいることをなんとなしに理解したのは。
どちらに拠らない事実の咀嚼が、本当の意味でその人をたしなめ、手を差し伸べることにつながることだと、まわりくどいけどそう思うようにしています。

エゴとも泣き虫とも言わないさ。人間には必ず携えられている反応的なことだもの。
誇張や歪曲の無い、そっけないくらいの事実が人の間の問題になることを、どんな局面でも理解して上げられるオトナになりたいです。
人生論者ってのは、この世の中山ほどいてさ。

今日は昼間から酔っぱらったおじさんが、隣のテーブルで地産地消と酒と人間を掛け合わせて声を張り上げている訳です。
ただの酔っぱらいではないところが、やっぱりなんだか的をえているというか、納得する論理だし、全然知らない人だけど、食事を終えるその時には、なんだか好きになってた人でした。

かたや「今でしょ」を台頭するように、今を求める人生。
一度しかない人生を、慎重に大切に選ぶ助走を大きくとる人生。
可能性ばかりを抱えて、決まりの悪い、だけども応用の利く人生。

「あちらをたてればこちらがたたず」なんてことは人生なんて大きなテーマでなくてもそこかしこにあってさ。求めるものの裏側に、捨てるもの、背負うものがあって人は進むんですよね。

進んでいさえすれば、上手く生きようが、下手に生きようが、間違った人生にはならないんだと思います。そもそも人生に間違いなんて~・・・なんてくどいコトを言い始めたりもしませんが、なんというか、人間味ある選択の積み重ねが、人を寄せて、道を開く。
考え無しにも聞こえなくはないけれど、囲まれる人を感じると、ぼんやりと、そんな気もするんだよね。

落ち着いて文章を打つ、この時間のゆるやかさに少しの幸せを感じながら、また一週間。
今日はカレイの煮付けだそうです:)