読者の皆様、いつも講読していただきありがとうございます。

今日は日本馬でなく、たまには海外の馬に目を向けて行きたいと思い、サンデーサイレンスに着目しました。

サンデーサイレンスは日本に来て種牡馬で大成功し一気に勢力図を塗り替える偉業を成し遂げました。もしサンデーサイレンスが居なかったとしたら、日本の競馬は世界から立ち遅れていたことでしょう産駒達もキラ星の如く現れました。

ディープインパクト
ダイワメジャー
アグネスタキオン
デュランダル
スペシャルウィーク
サイレンススズカ

など挙げたら切りが有りませんね。

競馬を知っている方ならご承知の筈です。
しかし、サンデーサイレンス現役時代は………と言われると知っている人は少ないと思います。そんな訳でサンデーサイレンスの現役時代を覗いて見ましょう❗

サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。

サンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛 となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている 

幼少期のサンデーサイレンスは体格が貧相で、後脚の飛節が両後脚がくっつきそうなくらいに内側に湾曲(人間で言うX脚であり。そのような体型の馬は下半身の推進力に欠けるとされる)していた。ストーンファームの経営者アーサー・ハンコック3世は幼少期のサンデーサイレンスについて「脚がひょろ長くて、上体は華奢」であったと述べている。さらに幼少期のサンデーサイレンスの馬体はくすんだ鼠色をしており、その容貌は、テッド・キーファーがストーンファームを訪れた際に必ず「あんなひどい当歳(0歳)馬は見たことがない」「目にするのも不愉快」と言うほど見栄えがしなかった。また気性が激しく、扱いの難しい馬であった。

1987年にキーンランド・ジュライセール(ケンタッキー州で行われる、世界的に有名なセリ市)に出品されたが、馬体の見栄えが悪かったサンデーサイレンスはセレクトセール(一定水準以上の血統および馬体をもつと判断された馬が出品される部門)への出品が許可されず、一般部門に出品された。サンデーサイレンスには1万ドルの値がついたが安すぎると感じたハンコックは1万7000ドルで買い戻した。この期、セリ市に出すもののハンコックが納得するような金額ではなかった為何度も買い直し、やがて友達と共同でサンデーサイレンスを持つようになる。

サンデーサイレンスは当歳時(1986年11月)に悪性のウイルスに感染し、数日にわたってひどい下痢を起こして生死の境をさまよった。また、カリフォルニア州のセリからの帰り道ではトラック運転手心臓発作を起こし馬運車が横転する事故に遭い、競走能力こそ失わなかったもののしばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った。このとき馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡したのだった。

サンデーサイレンスは同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。
調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムはハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた。サンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした

翌年の1989年3月2日サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。さらに同月19日、重賞 (G2) のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。この段階で主戦騎手パット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。サンデーサイレンスはケンタッキーダービーの優勝候補として競馬ファンに認識され始めた。

ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービー(日本でいうと弥生賞がG1になった感じですね)が終わるまでは分からない」とも述べていた



サンタアニタダービーぶっちぎりの圧勝
↑タッチして動画

4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明。4月半ばにはケンタッキーダービーに備え同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した。ケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われた。また、発走時の気温は摂氏6.1℃でレース史上最低であった。サンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られた(ヴァレンズエラは馬場の両側から歓声を浴びせられて驚いたからだと、ウィッティンガムは馬場の内側のラチ沿いに並んでいた警備員に驚いたからだとしている)が、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝。レース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した





サンデーサイレンスケンタッキーダービーに優勝↑タッチして動画

ケンタッキーダービーは日本のダービーと同じくらい権威のあるレース、いや❗それ以上だ。かなりのお祭り騒ぎになるらしいですね。


ここでアメリカの三冠について説明します。

まずは、

ケンタッキーダービー
距離2000mダート
賞金(1着)142万5000ドル
チャーチルダウンズ競馬場

次に

プリネークスステークス
距離1900mダート
賞金150万ドル
ピムリコ競馬場

更に

ベルモントステークス
距離2400mダート
賞金80万ドル
ベルモントパーク競馬場

例年5月1週目の土曜に開催されるケンタッキーダービーより始まり2週後のプリークネスステークスが第2戦、その3週後のベルモントステークスが最終戦となる

約1ヶ月で三冠馬を決める為に調整不良や体調不良になれば三冠馬にはなれない、その為近年では1978年のアファームド以来三冠馬はいなかったが、去年の2015年にアメリカンファラオが久しぶりの三冠達成した。

今年ラニが三冠を挑戦しているが善戦を期待したい

本題に戻ります。

ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。まずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。さらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた。ケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。レースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。そのままイージーゴアは先頭に立ったがサンデーサイレンスが猛然と追い上げ、15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した





激闘の末サンデーサイレンスが鼻差勝ち
↑タッチして動画

まるで日本のトウショウボーイとテンポイントの名勝負に似ている。「と、思ったのは私だけかな?」

サンデーサイレンスは勝ちはしたが、イージーゴアもサンデーサイレンスがいなければ三冠馬になれた器の持ち主だったのです。悲運としか言えません。

このマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌『ブラッド・ホース』で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている

ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスはイージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。しかしレースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れ三冠馬の夢は消える事になる。



独走する イージーゴア

ベルモントステークスでサンデーサイレンスはイージーゴアに惨敗する
↑タッチして動画

ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。ウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスの体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとでスワップスステークスに出走した。レースでは逃げの戦法をとったが残り400mの地点で突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。レース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表した。合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている。敗戦を受けて陣営は万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。

9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州ルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した。



スーパーダービー持ったまま楽勝する サンデーサイレンス↑タッチして動画

ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。
しかしサンデーサイレンス陣営は同期のライバルであるイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた。
ベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となった。競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた。
レースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。




イージーゴアの追撃を振り切りBCクラシックをもぎ取る↑タッチして動画


サンデーサイレンスは残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝した。

レース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評している。この年、サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。さらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された。

イージーゴアとの対決



↑左がサンデーサイレンス 右がイージーゴア

三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。血統背景が優れている点、馬体が美しい点などから、イージーゴアはサンデーサイレンスとは対照的な馬とされる。イージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された。前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えたあと、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた。2頭の関係はアファームドアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された。

サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600メートルから2000メートルで、イージーゴアは一流のステイヤーと述べている。レイ・ポーリックはサンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたためカーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するがきついカーブを苦手としていたと分析している。

なお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。
さらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた。


古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった。
ブリーダーズカップ・クラシックのあと、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症したため、骨片の摘出手術を行ったあとで休養に入った。1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。
このレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。2着馬との着差は4分の3馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量を課されないために着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった。なおこのレースでは当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。これによりパット・ヴァレンズエラがふたたび主戦騎手を務めることになった。

続いてサンデーサイレンスは中2週ハリウッドゴールドカップに出走した。レースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れる。敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている。合田直弘とハンコックは、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている。

その後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し対戦が不可能になってからも出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる靱帯(馬の体重を支えるのに不可欠な靱帯といわれている)に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。陣営はそれに従い、サンデーサイレンスは引退をするのだった。

ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。しかしヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった

そんな中、1990年はじめにハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた日本の競走馬生産者吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を打診してきた。当時ハンコックはストーンファームの経営を拡大させるなかでできた負債を抱えており、経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。
吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。吉田善哉の子吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」
照哉はかつてクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であった。しかしながらこの取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。
一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられた。


吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた。

シンジケートは満口となったものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかったうえに種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、もっとも多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在の社台ファーム)に繋養されていた繁殖牝馬であった(吉田善哉の息子で社台ファーム代表の吉田照哉曰く、「最高の繁殖牝馬をすべて交配させた」)が、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価は高くなかった。
しかし1994年6月にデビューした初年度産駒は社台ファームの関係者にとっても予想を上回る活躍をし、約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げた。 サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年リーディングサイアーを獲得。2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは中央競馬史上初の記録である。以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。同じく1995年に種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新。その後もサンデーサイレンスは中央競馬における種牡馬に関する記録を次々と更新し産出された12世代すべてからGI級競走優勝馬が登場し、産駒は日本の中央競馬の24あるGI級競走のうち、20で勝利を収めた。
産駒のうちディープインパクトスティルインラブが中央競馬における三冠を達成しているが、三冠馬を二頭、それも牡牝双方で輩出した種牡馬はサンデーサイレンスただ一頭である。

種付け料は、初年度1100万円でスタートし、3年後800万円まで下がったものの、初年度産駒の活躍以降は高騰を続け、2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで上がった。
そして、生産者の要望に応える形で種付け頭数も年を追うごとに増加し、2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された。それまで日本の競走馬生産者の間には年間100頭を超えて種付けをさせることは種牡馬を酷使しているという認識があったが、サンデーサイレンスの種付け頭数が100頭、200頭を超えるのに伴いほかの種牡馬も200頭を超える種付けを行うことがめずらしくなくなった。ブリーダーズ・スタリオン・ステーションの秋山達也によると、このような種付け頭数の増加は有力種牡馬に交配の申し込みが殺到する現象を生み、成績が優れない種牡馬が以前よりも早く見切られるようになった。種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹によるとサンデーサイレンスは性欲が強く、最大で年間224頭(2001年)の繁殖牝馬と交配したにもかかわらず種付けを嫌がる様子を見せなかった。佐古田はサンデーサイレンスを「まるで種付けマシーンのよう」と形容している。

1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札された。晩年には種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計するとサンデーサイレンスが1年間に動かす金額は100億円を超え、年間150頭の繁殖牝馬に5年間種付けを行った場合、産駒の獲得賞金と種付け料を合計して1500億円の経済効果があるといわれた。

産駒は日本国外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は日本国外でG1を3勝(ステイゴールドハットトリックハーツクライが各1勝)した。さらにオーストラリア生まれ(交配は秋〈南半球は春で繁殖シーズンにあたる〉に日本で行われた)のサンデージョイ (Sunday Joy) がG1のオーストラリアンオークスを優勝するなど、日本国外生産馬および日本国外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。
日本国外で活躍する産駒が出現した影響から日本国外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)。

2002年5月5日、サンデーサイレンスは右前脚に跛行を発症し、この年の春の種付けを中止して休養に入った。一度は快方に向かったものの同月10日に跛行が再発。検査の結果、右前脚にフレグモーネを発症していることが判明した。フレグモーネを引き起こした細菌は血管が少なく抗生物質の効果が現れにくい深屈腱(上腕骨と中節骨をつなぐ腱の外側)に入り込んでいた。
さらに通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するがサンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯が不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった。これらの理由から治療は困難を極めた。
サンデーサイレンスを繋養する社台スタリオンステーションはイギリスからフレグモーネの専門医を招いて治療を行った。3回にわたって患部を切開して洗浄する措置が施された結果、右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症。懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。

サンデーサイレンスは火葬され、社台スタリオンステーションの敷地内に埋葬された。墓の横には吉田善哉の遺品が埋められている。産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。最後に生まれた産駒はハギノプリンセス(母サベージレディ)である。また、中央競馬で最後の登録馬は、2012年に引退したアクシオンであった。

しかし、サンデーサイレンスは種付け名人だけでなく、競走馬としても超一流だった事が分かりましたね
ライバルのイージーゴアは引退後の4年後に亡くなるのですが、G1馬を出していただけに惜しかったです。サンデーサイレンスとイージーゴアの子供達の対決を見たかっただけに残念です。


サンデーサイレンスの産駒(G1馬のみ)

1992年産

フジキセキ(朝日杯3歳ステークス)

ジェニュイン(皐月賞、マイルチャンピオンシップ)

ダンスパートナー(優駿牝馬、エリザベス女王杯)

タヤスツヨシ(東京優駿)

マーベラスサンデー(宝塚記念)


1993年産

バブルガムフェロー(天皇賞〈秋〉、朝日杯3歳ステークス)

イシノサンデー(皐月賞、ダービーグランプリ(統一グレード制前))


ダンスインザダーク(菊花賞)

1994年産

サイレンススズカ(宝塚記念)

ステイゴールド(香港ヴァーズ〈香港〉)

1995年産

スペシャルウィーク(東京優駿、天皇賞〈春〉・〈秋〉、ジャパンカップ)

1996年産

スティンガー(阪神3歳牝馬ステークス)

アドマイヤベガ(東京優駿)


トゥザヴィクトリー(エリザベス女王杯)

1997年産

チアズグレイス(桜花賞)

エアシャカール(皐月賞、菊花賞)

アグネスフライト(東京優駿)

1998年産

メジロベイリー(朝日杯3歳ステークス)

アグネスタキオン(皐月賞)

マンハッタンカフェ(菊花賞、有馬記念、天皇賞〈春〉)

ビリーヴ(スプリンターズステークス、高松宮記念)

1999年産

ゴールドアリュール(ジャパンダートダービー、ダービーグランプリ、東京大賞典、フェブラリーステークス)

デュランダル(スプリンターズステークス、マイルチャンピオンシップ (2003,2004))

アドマイヤマックス(高松宮記念)

2000年産

ピースオブワールド(阪神ジュベナイルフィリーズ)

スティルインラブ(牝馬三冠(桜花賞、優駿牝馬、秋華賞))

ネオユニヴァース(皐月賞、東京優駿)

アドマイヤグルーヴ(エリザベス女王杯 (2003,2004))

ゼンノロブロイ(天皇賞〈秋〉、ジャパンカップ、有馬記念)

ヘヴンリーロマンス(天皇賞〈秋〉)

オレハマッテルゼ(高松宮記念)


2001年産

ダンスインザムード(桜花賞、ヴィクトリアマイル)

ダイワメジャー(皐月賞、天皇賞〈秋〉、マイルチャンピオンシップ (2006,2007)、安田記念)

ダイワエルシエーロ(優駿牝馬)

スズカマンボ(天皇賞〈春〉)

ハットトリック(マイルチャンピオンシップ、香港マイル〈香港〉)

ハーツクライ(有馬記念、ドバイシーマクラシック (UAE))

2002年産

ショウナンパントル(阪神ジュベナイルフィリーズ)

ディープインパクト(牡馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)、天皇賞〈春〉、宝塚記念、ジャパンカップ、有馬記念)

エアメサイア(秋華賞)

スズカフェニックス(高松宮記念)

2003年産

フサイチパンドラ(エリザベス女王杯)

マツリダゴッホ(有馬記念)