東海道57次街道歩き その3 京阪石清水八幡宮駅から京阪牧野駅まで歩く  | Kオジサンの東海道旅日記・中山道旅日記

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2018年2月から2019年3月にかけて、中山道を踏破しました。
2020年1月18日から東海道を歩いています。

2023年3月29日に丹波橋駅から石清水八幡宮駅までを歩きました。
その続きで、石清水八幡宮駅から枚方方面に向かって歩き始めました。
今回歩くコースを事前に下調べしていませんでした。
歩き始めたら、二宮忠八の飛行器工作所跡や橋本遊郭跡。それに楠葉台場跡が有りました。上島町地蔵尊では戊辰戦争で没したと思われる人の名が刻まれた石碑を見かけました。
知らなかったことを知ることが出来ました。
このようなことが街道歩き派の面白さです。

石清水八幡宮駅(スタート)  ― 二宮忠八飛行器工作所跡  ― 石清水八幡宮常夜燈
  ― 大谷川の橋 一 渡し場跡碑 ―  橋本遊郭跡 ― 京阪線踏切 一 
スーパーマツモト くずは北店 ―  楠葉台場跡 一 水道局楠葉取水場 ―  
くずはモール店 ― 樟葉駅西 ― 樋来上公民館 ― 樟葉橋 ― 上島町地蔵尊
 ― 牧野駅(ゴール)




歴史街道推進協議会事務局発行の京街道ウオーキングマップ(東海道五十七次)から引用しました。


(10:07)
京阪石清水八幡宮駅に着きました。
前回の続きです。この駅から歩き始めます。



石清水八幡宮駅から淀川御幸橋の方に向かって歩きました。
ここが曲がり角。
真っ直ぐ進むべきか、左に曲がるべきかと考えました。



(10:19)
曲がり角を左に曲がります。



前から歩いて来た女性に枚方方面はこの道で良いかと尋ねたら、枚方に向っていると言われて安心しました。




歩いていて左側に古そうな家屋を見掛けました。
旧街道の雰囲気が有ります。
歩いている道に間違い無いと確信しました。



何と言う花か判らないですが、花が民家から出ていました。



右側の堤防の上は府道となっている京都守口線です。



二宮忠八の飛行器工作所跡です。




説明板を拡大しました。




(10:40)
大谷川の橋を渡ります。



橋本西山本地内を歩いています。



北ノ町を通りぬけます。
三叉路となりますが、その一角にこの道標がありました。



橋本北ノ町の道標です。

銘文(1819年、つちのと・う)
 東面「文政二巳卯年二月吉日」 
 南面「左 津の国そうじ寺 /大坂下り舩乗場 道」
 西面 (判読不能) 
 北面「右 八まん宮山道 これより(小文字)十六丁」



橋本北ノ町を歩いています。
曲がった道。
街道らしさを感じます。



橋本北ノ町を歩いています。



(10:49)
橋本中ノ町へ来ました。
ここに来て、今までとは違う雰囲気を感じました。
旅館などが立ち並んでいます。
遊郭跡だと直感しました。



美香茶楼は営業しています。
そして「営業中」の札も下がっているが錠が掛かっている。
内部を見学できるのだろうか。



橋本中ノ町を歩きます。




旅館 橋本の香 旧三桝楼の看板が上がっています。



歩いてきたら鍾馗様が上がっているのを見かけました。
守り神なのでしょう。



下の道を歩いて来ました。
上の道。
府道、京都守口線で、大阪府との境界の標識が見えました。
この先へ進めないので引き返しました。




引き換えしてきて京阪の踏切を渡ります。
前方の踏切。
特急が通過して行きました。




踏切を渡って、どちらに進んで良いのか判らなかったです。
前方に見えたマツモトくずは北店です。
店内で昼飯を買いました。



昼飯として買ったのが爆弾お握りとコロッケです。



(11:35)
楠葉台場が見えるところまで来ました。
右側は京阪本線です。




竹藪を後ろにした楠葉台場です。
広い土地。
ここを通過して行くのに楠葉台場が見えたが、この場所がどんな場所なのか知らなかったです。



広い楠葉台場ですが、杭が打たれロープが張って有って、横からは入れない状態でした。
南の方へ来ると入口が有り入ることが出来ました。
この場所、楠葉台場史跡公園となっています。




戊辰役橋本砲臺場跡と刻まれた石柱です。



石柱横に2枚の説明板が有ります。



国史跡楠葉台場跡の解説です。
異国船が淀川を遡り京へ進入するのを防ぐ目的が有ったと有りますが、尊王攘夷派の京都への進入を防ぐ目的が有ったと書かれています。




(11:56)
楠葉台場の構造で、放生川を付け替えたり京街道を迂回させたりしています。
幕末の時期。
官軍と幕府軍の衝突。
急いで築造したに違いありません。




京阪本線沿い、楠葉中之芝を歩きます。



枚方市町楠葉地内を歩いています。



民家の庭先です。
ツル状の綺麗な花が垂れ下がっていました。
デュランタタカラヅカ と言う花です。



町楠葉を歩いています。



(12:23)
くすはモールへ来て、右へ道を取りました。
京阪本線の下をくぐり抜けて府道13号線に出ました。



大阪府道13号線。京都守口線です。
この道。旧国道1号線です。
かつては交通量が多かった道なのでしょう。



大阪府道13号線。
大阪まで25Kmとなっています。



府道の西側に広大なゴルフ場が有ります。
くずはゴルフ場です。



枚方市樋之上です。
府道から分かれる道。
街道らしい形をしています。



枚方市樋之上地内を歩いています。



樋之上地内を歩いて来て土手に付き当たりました。
どの方向に進んで良いのか判らなかったです。
ジョギングスタイルの男性に進む道を教えて貰いました。



突き当たって右に来ました。
出た処が府道で、先に橋が架かっています。

樟葉橋です。



樟葉橋の上から見えた船橋川です。
先に見えるのが京阪本線です。




(12:48)
橋を渡り東へ進み、坂道を下りました。
祠が有ります。
上島町地蔵尊です。
右の八幡宮と刻まれた道標は一里塚のようです。




お地蔵さんの横に石碑が在りました。
人物の名が刻まれています。

こんなサイトを見かけました。

◆会報第108号より—04 墓石をたどる⑫ より引用しました。Y-rekitan 八幡


3.七人力士供養塔

枚方市上島町の船橋川堤下
棹石:(正面)若線清兵衛 線松惣七 浪介小八    
       吉野川藤蔵 靏川新兵衛 駒若乙松   
       生駒山惣吉 十方施主二世安楽
   (右面)右 山城志水 すぐ下京道 
   (左面)すく大坂道 七ツ松門弟中
 左面に七ツ松門弟中とある事から河内相撲の力士達の供養塔であることが分かる。
 「山城志水」とは八幡宮参詣道の志水道をさす。
 「十方施主安楽」とはこの世とあの世を含め、十方とはあらゆる方向の意味で、何処にいても安楽に、往生できますようにと祈る、ことでしょう。
 「鳥羽伏見の戦い」で敗れた兵士の墓ではなく、幕府軍に協力して働いた力士達が官軍の猛攻に巻き込まれたものと思われます。と書かれています。


戊辰戦争で亡くなった幕府軍の兵士の名が刻まれていると思われたのだが、幕府軍に協力して亡くなった相撲取りたちと言うのが真相だろうか。
歴史を伝え、文化財となる石碑。
市が解説板を設置すべきではなかろうか。


 



(13:01)
前方に牧野駅が見えます。
今回の街道歩きは、ここまでに止め様と思いました。



(13:09)
牧野駅です。
特急電車が通過します。



(13:19)
出町柳行きの準急列車です。
樟葉駅で停車し特急列車の通過を待ちます。



街道歩きを始めたのが10時過ぎでした。そして歩くのを止めたのが13時過ぎでした。
歩数のカウントは14,000歩余りでした。
時間的には、まだ早かったのですが、暑さがキツカッタです。


最後に
冒頭でも述べたように、今回の街道歩き。何も下調べをしないで歩き始めました。
思わぬところで遊郭跡に直面しました。
かつては男女で賑わった場所です。
艶やっぽい嬌声が聞こえる。
そんな場面が想像で来ます。
広い芝生の場所が見えてきました。楠葉台場跡史跡公園でした。
ここでの新政府軍と幕府軍との戦。
どんなものだったのだろう。
枚方市上島町の船橋川堤下の石碑に人名が刻まれていました。
幕府軍の兵隊と思われていたものが、幕府軍に協力した相撲取り達らしい。

街道を歩いていて、色々と発見がある。
それが面白い。

前回歩いた時に京都競馬場の東に戊辰役東軍戦死者歿埋骨地の碑が立っていました。
そして、今回歩いた地。楠葉台場でも戦闘が有ったようだと石碑に刻まれた名から推測できます。幕末の戊辰戦争で鳥羽伏見の戦いは有名であるが、淀から楠葉にかけての地帯でも戦が繰り広げられた。
関ケ原の合戦は有名だが、戊辰戦争の淀の戦いは余り知られていない。ここへも歴史の光を当てなければならない。
想像だが、関ヶ原の合戦時代は鎗や刀で切り合った。
この幕末の時代。大砲の砲弾が飛ぶ。そして火縄銃でなくウィンチェスター銃、ヘンリー銃やスペンサー銃の時代となり、格段に進歩した銃が現れた時代なのだろう。
凄惨な戦場の場面を思います。