(73) 籠神社はスサノオの神社である[2]
前の記事"(72) 籠神社はスサノオの神社である[1]"において
籠神社が元々はスサノオの神社ではないかということを示しましたが
籠神社の現在の主祭神は"彦火明命"となっています。
"(62) 彦火明は伊都之尾羽張である"で示したように
彦火明はスサノオの子だと考えられます。
■籠神社 [玄松子の記憶]
祭神: 彦火明命
配祀: 天照大神 豊受大神 海神 天水分神
豊受大神は、雄略天皇の御代に、伊勢国度会郡山田原へ遷宮した後、
当社は、彦火明命を主祭神として祀られたという。
彦火明命は別名を、天火明命・天照御魂神・
天照国照彦火明命・饒速日命・彦火火出見命などとも呼ばれ、
籠にのって雪の中に現れたという伝承により、籠宮の社号となった。
彦火明命は籠にのって雪の中に現れたという伝承があるようです。
前の記事で"籠"は"竹龍"でスサノオを表すことを示しましたが、
彦火明命は父であるスサノオ(竹龍)にともに現れたという風に解釈できます。
"(61) 浦島太郎はスサノオである"で示したよう
浦嶋神社に祀られている浦嶋子(浦島太郎)はスサノオでした。
■浦嶋神社 - Wikipedia
浦嶋神社(うらしまじんじゃ)は、京都府与謝郡伊根町本庄浜にある神社。
旧社格は郷社。
浦嶋伝説が伝わる。宇良神社(うらじんじゃ)とも呼ばれる。
主祭神
浦嶋子(浦島太郎)
相殿神
月読命(つくよみのみこと)
祓戸大神(はらえどのおおかみ)
歴史
社伝によると、創祀年代は平安時代、
淳和天皇の825年(天長2年)7月22日とされ、
浦嶋子を筒川大明神として祀るのが始めであると伝えられる。
宇良神社とも呼ばれ、延長5年(927年)「延喜式神名帳」所載によると
『宇良神社(うらのかむやしろ)』と記されている。
伝承によると、淳和天皇は、「浦嶋子が、雄略天皇22年(478年)7月7日
美婦に誘われ常世の国へ行き、
347年を経て、天長2年(825年)に戻った」との話を聞き、
浦嶋子を筒川大明神と名付け、
小野篁を勅旨として社殿が造営されたとされる。
伝承によると
「浦嶋子が、雄略天皇22年(478年)7月7日美婦に誘われ常世の国へ行き、
347年を経て、天長2年(825年)に戻った」
となっています。
私はこの伝承が
"籠神社に祀られていたスサノオが雄略天皇22年にどこか別の場所に遷され、
天長2年に浦嶋神社に浦島太郎として戻ってきた。"
ということを表していると思います。
伝承によると浦嶋神社の社殿を造営したのは淳和天皇ですが、
淳和天皇の第四妃となった真井御前は籠神社の宮司家の三十一代当主雄豊の娘です。
■『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』 (宮司 海部光彦 編著、1,800円)
43ページ
空海(弘法大師)は籠神社世襲海部宮司家の三十一代当主
雄豊(おとよ)の娘である厳子姫(いつこひめ)との間に
神秘的な物語が伝えられている。
厳子姫は十歳の時に京都頂法寺の六角堂に入り、
如意輪の教えに帰依し修行を積み、二十歳の時、
まだ皇太子であられた大伴皇子(後の淳和天皇)に天性の美しさを見初められ、
二年後即位された後第四妃として迎えられ、
名前を故郷に因んで真井(まない)御前の名のりを戴き、
淳和天皇の寵愛を一身に集めた。
そのため女官たちの嫉妬に遭い、
宮中を出て西宮の如意輪摩尼峰に神呪寺(かんのうじ)(甲山大師)を建立した。
この年、真井御前は空海を甲山(かぶとやま)に迎え如意輪の秘宝を修し、
二年後の二十八歳の時に如意輪像を造ろうとされた空海が大きな桜の樹を選び、
その生き姿を彫刻された。
真井御前は三十三歳の時に師空海の座す高野山に向かって
如意輪観音の真言を誦しながら遷化(せんげ)した。
その翌日空海は真井御前の後を追うように六十二歳で入定された。
籠神社と浦嶋神社の深い関係が伺われます。
真井御前の別名(諱?)は厳子(いつこ)ですが、
"(57) 大雷神は神大市姫である"で示したように
"いつ"とは"雷"を表し、神大市姫(市杵島姫)の"市"を表していました。
さらに、真井御前の守護神は辨才天(市杵島姫)であったとされています。
■『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』 (宮司 海部光彦 編著、1,800円)
空海と真井御前(如意尼)について 84ページ~85ページ
(前略)
そして尚、神の家から出た姫は、佛道修行の守護神として、
空海の教示に依り辨才天を念持したのであるが、
辨才天女は、和名を市杵嶋姫と申し上げる。
(後略)
浦嶋子が常世の国へ行ったという雄略天皇22年は、
真名井神社の豊受大神が外宮に移されたのと同じ年です。
豊受大神の外宮へ鎮座したときのことは『倭姫命世記』に記述されていますが、
『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』に『倭姫命世記』を引用した記述がありました
のでそちらを引用させて頂きます。
■『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』 (宮司 海部光彦 編著、1,800円)
71ページ
145 外宮御鎮座起源神話
天照大御神が伊勢に御鎮座になってから、遅れること四百七十八年、
第二十一代雄略天皇の御代二十一年、倭姫命は
「私(天照大御神)は一所にのみ居るのでは
大変苦しく食事も安らかに戴くことができません。
丹波の国の与佐の小見の比沼(ひぬ)の魚井原(まないのはら)にいる
道主(丹波道主)の子である八乎止女(やおとめ)のお祀りをする
御饌都神(みけつかみ)・止由気皇太神(とゆけすめのおおかみ)を
自分の許に迎えてほしい」
という天照大御神のお告げを受けられました。
(中略)
「明年の秋七月七日、大佐々命(おおささのみこと)や丹波道主の孫子等
多くの神々が丹波国与謝郡(現・京都市宮津市)までお迎えに見え、
止由気皇太神を伊勢の山田原の新殿にお遷しになりました。」
これが伊勢の外宮の始まりで時は雄略天皇二十二年戊午秋九月望の日のこと
でした。
赤字のところは『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』でも赤字になっていて
『倭姫命世記』を引用した部分になっています。
大佐々命や丹波道主の孫子等多くの神々が豊受大神を迎えに来たのは
"明年の秋七月七日"となっていますが、これは雄略天皇22年7月7日にあたり、
浦嶋子が常世の国へ行ったのと同じ日です。
これはどう考えても偶然の一致とは考えられません。
更に、7月7日というと七夕ですが、
これは天川命と呼ばれたスサノオに因むと考えられます。
参照:
また、大佐々命も本来は大笹命で竹龍であるスサノオに因み、
大佐々命はスサノオの子孫であるのではないでしょうか?