「うけたもう」の精神とは

テーマ:

「大聖坊 山伏修行ブラジル巡礼の旅」②



山伏修行の基本は「うけたもう」という精神です。 


「うけたまわる」とは


その動作を、恩恵を与えてくれる人(尊者)から受ける、いただくの意を表す。(尊者に)…させていただくことです。



修行中の基本的な返事は「うけたもう」しかありません。


名前を呼ばれても「うけたもう」

食事をするときも「うけたもう」

次の行動を示される時全て「うけたもう」







星野先達はこういいます。





〜〜ここから〜〜


山の思想

「受けたもう」っちゅうのはこれはね、同じ修験道でも羽黒独特の言葉だね。
要するに何言われても、名前呼ばれても、何かこれ頼むって言われても何でももう「受けたもう」なんだね。 

考えてみるとさ、修験道っちゅうのはほら、色んなものが入っているじゃないか。
神様も仏様も、陰陽道も道教も、アニミズムもみんな受けている宗教だよね。
やっぱり、修験道は一神教と違って多神教じゃないですか。
そうするとものすごく受け皿が広くなきゃいけない訳だから、色んな多神教を受けているからそれを象徴するような言葉だよね。
「受けたもう」っていうのは。 

生きていると日々、いや、違うだろうっていうのがあるじゃないか。
そこで対立が起きるんだよ。でも対立の先にはあまりいいことないもんね。
だから、人間が生きていくうえでの、人間社会の中での基本的なことじゃないのかな。
「受けたもう」って。 なんでもありの、まずスタートが「受けたもう」だよね。
そこから入っていくんだから。いい言葉ですよ。羽黒山伏の。 

日本っていう国は本来自然が神様であってさ、
だからまあ、山であり、川であり、海であり、大きい木であり、象徴的なのは磐倉だよね。 
磐倉なんかは神のシンボル的なものとして扱われていた訳だ。だから岩倉神社とかがいまでも残っている。 

そういう自然を拠り所として、そして向かい合って、神様っていうのはごく普通に日々の生活の中にいたんだよね。
自然の神様からいろんな恵みまでいただけるという、非常に分かりやすい世界だと思うんだよ。やっぱり自然の神様っていう
日本の思想って素晴らしいと思うねえ。 

神様に仏様が入ってきて、その神様と仏様を中世で一緒にしていったのが修験道だから。
日本人の精神性の拠り所として修験道っていうのは、ものすごくあるんじゃないのかな。
神様と仏様両方だからね。 

それが近世の江戸時代まで来て、明治政府が日本を早く近代国家にするために、
これはやっぱり天皇や国を神様にしなきゃいけないと、統率しようとした訳だ。
で、神様から仏様を離しちゃった。 
神仏分離令を明治元年に出したのだけれども、ところがやっぱり日本人の精神性を集合化したのが修験道な訳だから、
明治政府は、ああ、これは修験道も潰さない限り、神仏分離はならないなということで、
改めて明治5年に修験道廃止令まで出して日本の修験道を壊しちゃった。
日本の本当の精神性、日本人の本質的に持っていた文化性っていうものをそこで壊しちゃったんだな。

十通りの答え


それから140年になるねえ。
優しさとか清らかさが失われた140年ですよ。だから世の中今こうじゃない。
神様は清らかさでしょ。仏様は慈しみだから優しさでしょ。
清らかさと優しさが一緒になって学んできてたのが、これが離されて別のものになっちゃった。
それが現代の日本人の精神性に変えちゃったってことだと常々思っているけどね。

これはみんな心に響いてるんじゃない? 特に3.11以降は。
ところが、断然として国家は今まで通りのことをやろうとしている。
この総括を全然してないよね。精神性だけじゃなくエネルギー問題にしてもね。
また同じ事の繰り返しですよ。

だからやっぱり、我々はあえて山伏なりのね、 神様と人をつないだり、自然と人をつないだり、
そうすると自然と向き合ってさ、生き方っていうかな、そういうのをつないできたのが、まず山伏じゃない。
そういう意味での山伏がいま、どんどん増えていくことが必要なんじゃないのかな。世直しとして。

私が東京出ていって表参道で話すよというと、2~30人くらい、すっと集まるじゃないですか。
みんな真剣に聞いてるもんね。
あれはお江戸に出て行く羽黒山伏の辻説法だと思っているけど、そういうことをやっぱり我々はどんどんやっていかなければいけない。
自然と関わっていない人たちだから、自然と関わるのが少ない人たちだからね。

今の若い子たちはみんなお利口さんです。
答えを出すことに慣れていて、非常にそういうことが巧み。でもそれがいわゆる、自分自身を狭くしてる、ってことなんですよ。
だから今の子たちは、答え出すのは上手だけども非常に物足りない。答えを一つ出そうとして四苦八苦して、自分を狭めている。
しかし、お利口さんっちゅうのは、あるときガクッと来るんだよ。答えがないってことが、どういうことなのかが分からない。
ちっちゃい時から常にテストで答えを出さなきゃマルもらえないじゃないか。
テストで点数多く取るっていう、そういう環境でそういう育てられ方してるから、
常にひとつの正しい答えを出さなきゃいけないっていう。
1+1=2だって。

ついこの間は東京大学出たヤツが説法に来てね、やっぱり頭いいよ、みんな。
だけどそれだけではいけないんだ、という人たちが集まって来てるね。
分かってきてるんじゃないのかな、頭でっかちではいけない、っていうようなことがね。
当然そうだよ。答えを出すことを小さいときから訓練までさせられてるからね。答えは身体で出せばいいんだ。

自分の気になることを行動して、そこで自分の答えじゃないですか。
でも、そこの所が訓練されてないんだ今。頭で答えを出すのに知識は持ってるよ。
知識は持ってるから、答えは出るんだけども、ところがその答えが世の中で通じる?
通じないから、今こんな世の中になってるんじゃない。世の中には頭の良い人がいっぱいいると思うよ。
でも、こんなに頭の良い人がいっぱいいて、なんで世の中良くならないの? 
今一番大事なのはそういうことじゃないかな。〜〜ここまで〜〜http://www.luxurearth.com/jp/fumihiro-hoshino/

何があって「もうけたもう」は大自然を神としてあらゆる変化に身を委ねて、それでも「畏み」生きてきた、日本人が古来持っていた精神性なのだとおもいます。色々じふんに有利な条件ぱかりを整えて勝とうとするのではなく、あらゆる事を受け入れて、互いを生かして共存して生きて世界です。星野先達のそばにいさせていただとどの時間も学びです。そして仲間たちも、何があっても「うけたもう」精神なのです。お山の巡礼の先達であり、今回の先達助手の丈晴さん、羽黒山伏の晃さん、断食寺の松浦さん、修行者の清水さん。ちょっとづつ知り合いがいてびっくりしました。晃さんは道中の読本に「はじめて読む人の古事記」を持ってきてくださっていました。松浦さんは共通の知り合いがいて「よろしくお伝えください」と伝言を預かったそうです。そして清水さんは、お姉さんが古事記塾の生徒さん、なんと清水さん自身も洗顔洗心塾にさんかしてくださっていました。もう見えない縁で結ばれていました。きょうはリオデジャネイロからゴイアニアへゴイアニアでValerieさん、ブラジル人と結婚しお世話をしてくださるMegumi さんと合流します。本当のお山の修行はこれからです。今日も自分からいい日にします。楽しみです。続く