申し訳ありません。実は昨日の記事と今日の記事は、あらか
じめ下書きをしていたものでして、前編・後編のような形なの
であります。ところがです。何とまあ、こちらが前編なのに昨日、
後編の方を投稿してしまっておりました。気づいたのが、かな
り後の時刻になってからなのです。
というわけで、昨日お詫びを申し上げた通りでございます。昨日
の記事の中でやや文脈の辻褄が合わない部分がありますが、
そういうことなのです。まずは、この前編を読んで頂きたく存じま
す。そして昨日の後編と、照らし合わせてみてください。よろしく
お願いします。というわけで、次からが、本文です。
【本文】
「蝦夷征伐」といえば坂上田村麻呂が思い浮かびますが、彼
がそれを始めたのは791(延暦10)年から。実はそれより少
し前に「蝦夷征伐」に失敗した人がおりました。
万葉歌人で父・大友旅人も母・大伴坂上郎女も歌人として名を
馳せた上級貴族・大伴家持でした。
大伴家持は文化的な上級貴族の家庭に育ち、成人して聖武
天皇の側近である内舎人となりました。28歳で従五位下とな
っていますから、早い出世となっています。
しかし聖武天皇が没し、新興勢力の藤原家が主流となってか
らは、武闘系の役職に回されることが多く、晩年に任ぜられた
役職が「持節征夷将軍」で、784(延暦3)年のことでした。
そして命ぜられたのが、「蝦夷征伐」だったのです。元々が文系
の上、年齢がすでに67歳。酷な話です。そのため兵を数万与え
られ、率いたそうです。
この大軍を迎え撃ったのが、4千人の蝦夷軍だったと記録されて
います。しかし大伴家持率いる数万の大軍は4千の蝦夷軍にま
るで歯が立たず、大敗・退散しています。
朝廷は副将軍として百済英存と多治比宇美を同行させて再び蝦
夷と戦っていますが、大伴家持軍が討ち取った人数が70人。4千
人のうち70人でした。自軍は数万の騎兵と歩兵で、それだけでし
た。討ち取られた人数は記録されていませんが、逃げ帰ったくらい
なので、かなり悲惨な数が出たと思われます。尚家持はこの戦い
の最中に没しております。
これは、朝廷が蝦夷をなめていたと思われます。多くの兵士を率い
れば大伴家持が大将でも大丈夫と高をくくっていたのでしょう。とこ
ろがダメだった。家持が思った以上に戦闘に向かなかったこともあ
るでしょうが、蝦夷が予想以上に強かったのです。
この失敗を教訓にし、朝廷は坂上田村麻呂という優秀な戦士を長
として、役職も「征夷大将軍」というさらなる権限を与えてリベンジ
を命じたのでした。