平穏でヤワなイメージがある平安時代において、「平将門の
乱」と「藤原純友の乱」は、かなり衝撃的で有名です。
2つはほぼ同時期に起きている上、平将門と藤原純友が面識
があるらしいことから、示し合わせたという説もあります。ただ、
2人のキャラクターは、だいぶ違うようです。
このうち、平将門はNHK大河ドラマの主人公になったり、今も
怨霊話が語り継がれるなど、インパクトが強いです。それに対
して藤原純友は、ややマイナーなイメージですね。
しかし反乱のスケールはむしろ「藤原純友の乱」の方が、大きい
です。というか、果たして「乱」なのかどうか。
藤原純友は元々伊予で裁判官のような仕事を務め、海賊を取り
締まる立場のトップでした。ところが任期が過ぎても伊予から引
き上げず、日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城に、海賊の
頭になってしまいました。
「ミイラ取りがミイラ」という言葉がありますが、まさにその典型で
す。そして931~941年まで、つまり承平から天慶年間までの
間、博多から瀬戸内海にかけてを海賊の頭となって暴れまわっ
たのでした。
常に1000隻を超える船を連ね、官物を強奪したり、国司(地方
官)の倉を襲ったり、大宰府に焼き討ちをかけるなど、その暴れ
方は相当に派手です。このため、瀬戸内海の交通は、一時止ま
ってしまったそうです。
941(天慶4)年5月、博多に集結した2000隻の海賊軍に対し、
官軍も決死の勝負を挑みます。陸海合わせて、5万の軍を集め、
純友率いる海賊軍を征圧にかかったのでした。
これによって海賊軍は滅んだのですが、『純友追討記』によると、
「主従ともに離散し、あるいは亡び、あるいは降り、分散して雲の
如し」とあります。
つまり藤原純友の消息に関しては、確認がされていないのです。
首を斬られたとか戦死したとか、腹を切ったという話もありますが、
逃げ延びたという話も同じくらい強くあります。
平将門よりも暴れたスケールが大きくて謎も多いのにやや陰に
隠れたイメージがあるのは、将門が自ら国王を名乗るなど反乱
の意図や人物キャラクターが明確なのに対して純友は海賊とい
ういわば思想のない立場に立ったことや人物キャラクターがわか
りにくいことが原因だと思います。
とはいえ、エリート官僚の座を捨てている上、官を徹底して狙って
いるところを見れば、朝廷など政府機関に対する不満が高じてい
たことは確かでしょう。海賊取締り役トップが海賊頭領に変身して
長きに渡って暴れまくるというキャラクターは、劇画的でもあります。
しかも、最期が謎に包まれていることから、様々な憶測や怨霊話
が出ても不思議がないと思うのですが。