昨日の朝の記事の、続きを書きます。空海が最澄の愛人兼弟子・泰範を
横取りしたことから二人が断絶した、という説について。
804(延暦23)年、空海は遣唐使として唐に渡りました。そして約2年後に
帰国するのですが、その際、美少年弟子を「お持ち帰り」しておりまして、こ
れが、「お小姓制度」の始まりとも言われております。
勿論、日本において同性愛を疎んじる思想は長い歴史の中で明治以降だ
けなので、空海の前にも朝廷などで「お小姓」に近い同性関係(女同士にも
お小姓は同様にあるのでこう書きます)はありましたが、社会制度化させた
のは、空海ということです。
ですから空海が男好きだったのは、間違いないと思います。ただし彼と最澄
の関係ですが、実は同時期、最澄も還学生として唐に、渡っていたのでした。
最澄は、空海の呪術を含めた「密教の応用編」ともいえる不思議な力に大い
に興味を持ち、傾倒します。そして彼の方が7歳上にも関わらず、空海に教え
をお願いしました。
空海も快く了承しました。しかし、二人のタイプは、まるで違い過ぎました。空
海は、山岳修行他、自ら体験をしながら感性で力を身に着けていくタイプです。
しかし最澄は、学究肌。何事も理詰めに突き詰めないと気がすまないのでした。
空海がそんな最澄との師弟関係で辟易したのが、その質門攻めでした。空海
にしてみれば、「ある程度基礎的なことは人から習ったり理論で学ぶのも大切
だが、そこから先は自らの感性が大事。これからは、自分のやり方で修行せ
い」という思い。実際に、そう言い聞かせました。
しかし、最澄は、聞きません。相変わらず、何かと質問をし、理論で解決しよ
うとするのです。とうとう空海はキレて、最澄を遠ざけるようになりました。そこ
で最澄は、弟子の泰範に質問状などを持たせて、空海の許へ送り込んだの
でした。
しかし泰範は、空海の許から、帰らなかったのです。最澄は泰範に、「あなた
を思うと、夜も眠れない。もとの志を思い起こし、苦楽をともにして人々を救済
しよう・・」といった意味の手紙を出しました。これが、現代人には、「ラブレター」
と解釈されました。
それに対して、泰範からつれない返事の手紙が来たのですが、それが空海に
筆跡で、文面を考えても、空海が書いたものと思われるのです。
これが、空海と最澄の「男色争い説」の中味です。私は、これは、泰範が二人
の師匠と仮に関係があったとしても、情痴のもつれとは違うと思います。
まあ、いわば天才と秀才の違い。資質も魅力も、空海の方が上と、泰範が感じ
たということでしょう。
ただしそれだからといって、最澄の開いた天台宗を低く見るのは、早計。空海
から見れば凡庸な才能だった最澄。それだけに、庶民にとってもわかりやす
い方法で、密教を紹介してくれているかもしれません。
野球で落合博満・前中日ドラゴンズ監督の打撃論があまりに天才過ぎて教わ
った打者がことごとくつぶれるのを見ても、天才の理論がわかりにくいのは明白
なのです。まあ私は真言宗、天台宗のどちらの信者でもないので何ともいえな
いのですが、わざわざ優劣をつける必要もないと思うだけです。