ブログを御覧いただきありがとうございます。津軽三味線奏者の佐藤壽治です。
さて、この邪魔というのが問題でして今日のテーマです。
『習う中、師匠が守って欲しいと話す事』が邪魔になる時があります。
素直に聴けないというか、実行できない時が必ずあります。
「え?そうかな?」簡単な疑問符からすでに始まっていて、習えば習うほど増えてきます。
そのうち感情がねじれると疑いに変わりますし、いい事なんてひとつもありません。
ある程度の時間、お稽古を積むと名取となって自分自身でお稽古をする立場に進める理由はそこにあります。
上達の道は自分で探しなさい
ここだけ切り取られて理解されるのはイヤですが、師匠からの教えを疑う事が増えてきたなら師匠から離れて自分でお稽古するべきだと思います。
名取・お免状等の制度なるものが存在するのですが、自立を促すようにうまく出来てますね。
基礎、基本が分かり、ある程度の経験を積んだのであればそうしないと師匠を超えるような人にはなりません。
断言できます。
師匠の全てを盗み取るんだ、と言ってお稽古に取り組んだところで同じ人間ではありません。
骨格、筋肉の質、関節の柔らかさ、性別や年齢、考え方その他諸々含めて全く違う人間なんです。
全てを盗む、というのは不可能なものもあるという事に気付き、自分だったらどうする?と自問自答していかないといけないんです。
わたしの取り組んでいる津軽三味線だと、答えは「音」です。
すべて自分が出した音に答えが表れます。
同じ響き、同じ音量音圧、同じ雰囲気が出せれば師匠と同じになり、違う響き、違う音量音圧、違う雰囲気で観客が唸れば師匠を超えている事もあります。
音を聴いて、心地よいのか悪いのか、情景が浮かぶのか浮かばないのか、感動を呼ぶのか呼ばないのか、を追求するのが大事だと思います。
習う事も自由であれば、教える事も自由です。
お互いの自由の中で教室は成り立っていて、生徒さんや弟子にあたる人が習いたくなければ習わなくていいんです。
師匠が教えたくなければ教えなくてもいいんです。
答えとなる音が素晴らしいものにさえなればいいだけです。
そう考えればお稽古って本当に自由だと思いませんか?
基本、基礎の習得にはある程度の時間は必要になります。
でも、ある時期が来たらお互いに自由を大事にして津軽三味線に向き合いましょう。
ではまた。