「勉めて強いる」から「勉強」である。とこないだ某塾の国語の長文にありました。
確かにそうなのです。この言葉の表層をとらえると、「イヤかもしれないが、それでも自分のためになるのだからやるべきである」というのが勉強といえます。
ですが、これは本質を大きく見誤りやすいといえます。
東大生、なかんずく御三家と呼ばれる学校や駒場東邦くらいの学校出身者になってきますと、全然違います。「勉強で嫌だと思った記憶、無いっすね」とこないだインタビューした栄光学園出身の後輩もいってました。
「いや、基本的に勉強好きなんで……」という方もいました。
根本的に違うんだな、と思いました。新しい知識が入り、解けなさそうな問題が解けるということ自体が快感らしいのです。彼らは全然「勉めて強いる」ことはしていません。
これと似たようなことが僕自身にも経験としてあります。僕は数学が嫌いすぎてダメな理系人間でしたが、生物は好きで仕方がありませんでした。授業が恩師のO先生であったこともあり、授業は食い入るように聞いていましたし、何より、その生命の神秘に圧倒されっぱなしでした。これまた、O先生の話がうまいんだもぅ。
だから生物だけはまともに勉強した経験が極めて少なく、「休憩がてらに」やっていたのを覚えています。実は東大模試で全国1位をとったこともあります。(生物だけね)
実は高3のころ、僕はなんとなーく気付いていました。周りが流されるように勉強しているのを見て、心のどこかで馬鹿にしていました。
「お前らがやってるのは、やらされの『勉強』、俺がやってんのは教養を深めるための『勉学』」と言ったこともあります。当時の日記?にも残っています。
若さゆえのうぬぼれも入ってしまっていますが、おおむね、あっていたんだなぁと思った今日この頃です。
勉学していきたいものですね。
あ、長くなったので今日はこの辺で。いつも読んでくださってありがとうございます。
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