“目に見える世界”から ・ ・ ・
 
 
 
帆をいっぱいに張った舟が描かれていますよ。

これまで「第二図」と「第五図」にも舟がでて
きましたが、どちらも小舟にひとり…でした。
それに比べて今回の舟はやや大型。
当時の帆船(これは旅客船)でしょうか。
船内には複数の人の姿がみえます。


波が細かく列をなすように描かれていますね。
穏やかな波の上を、舟はゆっくりと進んでゆく…
広々とした世界。ここは海の上?


画面手前に岸があるようです。

松の木はわかりますが、、、あとは、、、
アオギリ?  樫?   二、三種類の異なる樹木が。
みな青々と。
季節は春から夏頃でしょうか。






木々の枝先を見ると、、、

舟の進路とおなじ方向を向いていますよ。


どうやら舟は追い風をうけているようです…

きっと気持ちいい風に背中を押されているので
しょうね。






賛は画面左に寄せるようにして、小さく詰めて
書かれています。

まるでいま旅の途上であることを示唆しているか
のように、舟の進行を妨げることなく。
“来し方”にそっと。


竹田の意図はわかりませんが、
画面右上の空間を大きく空けたことで、私は、
この先にある未来志向のようなものを感じます。


 

さあ、ここからですよ。
 
 
まずは賛を読んでみますね。
 




 
世以順風張帆為快事従我豊三
叉港至浪華府一千五百里予以本月
朔上舟二日夜抵兵庫港両昼夜間走一
千四百里舟中乃置酒賦詩末云千五百
程唯両日酒瓢猶沸乙津香行旅如此亦復
一楽


世、順風に帆を張るを以(もっ)て快事と為す。
我が豊(ほう)の三叉(みさ)港より浪華(なにわ)府に
至るまで一千五百里。
予本月朔(さく)を以(もっ)て舟に上り、
二日夜兵庫港に抵(いた)る。
両昼夜走ること一千四百里。舟中乃(すなわ)
酒を置きて詩を腑(ふ)す。末に云う。
千五百程(てい)(ただ)両日。
酒瓢(しゅひょう)(なお)沸く乙津(おとづ)の香り。
行旅(こうりょ)(か)くの如きも亦復一楽。

 
世間では順風に帆を張ることを快い事となす。
わが豊(豊後)の三叉港より大坂に至るまでに
千五百里。
私は今月の初めに舟に乗り、二日の夜には兵庫港
着いた。
二昼夜の間に千四百里走ったことになる。
舟の中では酒を飲みながら詩をつくった。
その詩の末句に、
“千五百程、唯両日。酒瓢にはまだ乙津の香りが
残っている” と詠んだ。
このような旅の道のりも亦復一楽。
 


 
江戸時代後期の文人画(南画)家
田能村竹田(たのむらちくでん/1777-1835)の画帖
『亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)に収録され
ている「第七図」です。



賛をみてわかるように、漢文には句読点がなく、
どこで区切ればよいのかほんとに難しい。
(これは各図に言えることですが…)

詩意を汲みとり読むだけで、一日、二日と、
あっという間に時間が過ぎてゆきます。
たった一文字ちがうだけで意味が大きく変わって
くるので。


それでも、何度も画賛と向き合っているうちに、
ある時フッと、
“竹田の心の景色”とリンクする瞬間があり…

その景色(イメージ)が消えかかる前に、
私はそれを言葉に置き換えていきます。


なお今回も、
原文(白文)、書き下し文、訳文においては、
文献資料等を参考に添えさせていただきました。




さて
まずは賛にでてくる言葉ですが、


「豊(ほう)」とは、豊後国(ぶんごのくに)。現在の
大分県南部の旧国名。


「三叉(みさ)港」とは、現在の大分市三佐(鶴崎)
にある港。
大分県の南西部に位置する竹田(たけた)市から
この港にやってきた竹田は、ここから舟に乗って
大坂に向かいました。


「浪華(なにわ)府」とは、浪花。大坂のこと。
大阪市付近の古称。

昔から、商いの大坂、文化の京都、政治の江戸と
言われます。
大坂湾は海の玄関口。大阪は商業の中心地として
発展を遂げてきました。


「朔(さく)」とは、朔日(さくじつ)。新月。
または太陰暦で、月の第一日。ついたち。


「酒瓢(しゅひょう)」とは、酒を入れる瓢箪。


「乙津(おとづ)」とは、大分県大分市乙津町。
ここでは別府湾に注ぐ乙津川のこと、または、
三叉(三佐)港までの道のりのこと。
 



この画は、
瀬戸内での船旅の様子を描いたもの”でした。


画面右下に見えている木々は、瀬戸内海の島?
或いは、兵庫か大坂の港だと思われます。

もちろんこれは実際の景色ではなく、
竹田の“心の景色”






賛の冒頭、順風に帆を張ることを快い事となす
とありますが、
当時はエンジンもなく…風次第。


風を読み、

風にしたがい、

追い風をうければ帆をいっぱいに張って。



それはまさしく「順風満帆」のとき。

“舟が前進する絶好の機会”




とくに干満の激しさ、また、鳴門海峡で発生する
渦潮などで知られる瀬戸内海。
昔は今以上に風と舟の関わりは重要でした。

賛に記されている距離は正確ではありませんが、
大分を出港し、太平洋から瀬戸内へとあがり、
そして、満潮時にうまく風向きと合えば、
エンジンなしで、風だけで、スーーっと、
大分から兵庫まで二日で行けたわけですから、
想像以上に速いことがわかります。



舟の上で酒を飲みながら作った詩の末句で、
“千五百程(てい)、唯両日。
酒瓢にはまだ乙津の香りが残っている”と詠んだ
とあります。

これはおそらく、空っぽになった瓢(容器)に、
酒の香りがまだ残っている、或いは、まだ少量の
酒が残っていることを言っていると思われます。
いずれにせよ、
酒瓢が乾ききる前に着いてしまうくらい早いこと
を伝えたいのでしょう。


ちなみに現在は、
神戸港(六甲アイランド)から19:00発大分行
“さんふらわあ”に乗ると、
翌朝6:20には大分に到着します。




余談ですが、

私が幼い頃、神戸と淡路島の間に明石海峡大橋が
架かるまでは、兵庫から岡山まで行き、
そこから瀬戸大橋を渡って祖父母が暮らす香川を
訪れていました。
また祖父母も同じルートで、私たち家族が暮らす
兵庫まで遊びに来てくれていました。

瀬戸大橋の開通(1988)前は宇高連絡船という船に
車を乗せて四国に渡っていましたから、
乗り物酔いをする私にとっては毎回地獄でした…

そうした懐古もふくめて、
瀬戸内は私にとって思い出深い地でもあります。






さて

大坂は唐木(からき)の産地として、
民芸品や工芸品などをつくる作家が多く生まれ、
その周りには文人墨客が集まりました。

また、その流れで、
文人趣味に端を発する煎茶文化も、幕末の大坂で
華開いたあと、全国に広まっていきました。


頼山陽(らいさんよう)や浦上春琴(うらがみしゅんきん)
らと親交を深めていった竹田は、
彼らに呼ばれては、大分から上方(かみがた)を訪れ
ていました。
眼と耳の持病の治療のためでもありましたが。



竹田の名が一躍世に知られるようになったのは、
なんといっても
山陽が彼を絶賛したから…の一言に尽きます。


敬愛する友たちに会える喜び ・






それは、よい兆し。

帆を張った舟は、“幸先が良いこと”の暗示。


そして、

青々と茂る木々は、季節としての春だけでなく、
竹田の、
“意気揚々とした気持ち=心の春”も表している。




目に見える旅目に見えない旅。

「第二図」や「第五図」のように、船頭のいない
舟にひとり。どこへ向かっているかわからない、
“流れに身をまかす旅”をしながら、時には、

“行き先のある旅”にも出掛ける。



内と外を巡る旅。


思索(理屈)体験(実践)





凪が発生しやすい瀬戸内の海。


風は弱く、、、波は少なく、、、



物事は順風満帆にすすむことのほうが珍しい。


だからこそ、

風を読み、波に乗れるときは乗っておく。


機を逃さぬように ・ ・ ・




張られた帆、なびく木々を描くことで、

同時に、

“目に見えない風”を描いていた竹田。






自分の力ではどうすることもできないとき、

じたばたしても仕方がないとき、


時に、風(時流)がそっと背中を押してくれる。




心に吹く風。


舟(帆)は竹田自身。




自分の身(こころ)を軽くすれば、

あとはそっと風が運んでくれる。


その風はとても心地好くて ・ ・ ・





豊後を出発して三日目の朝。


私はいま爽やかな海風を浴びながら、


眼前に望む景色に胸を弾ませている ・ ・ ・



あと少しで到着だ




こうした旅の道のりもまた“ひとつの楽しみ”


…と。
 

ここまでお読みいただき
ありがとうございました。
 
次回は『亦復一楽帖』の「第八図」を。
 
 
 
壬寅 寒露前四日
KANAME
 

 一部引用・参考文献
・『水墨画の巨匠  竹田』第十四巻 中村真一郎/河野元昭 著
      講談社 1995年
・『田能村竹田  基本画譜』 宗像健一 編著
      思文閣出版 2011年
 

 
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