“目に見える世界”から ・ ・ ・
川か湖でしょうか。舟を浮かべて…
尺八のようなものを吹いていますね。
水面に映る(これはおそらく)月を眺めながら。
船頭はいないようです。
お顔がほのかに赤いようにも見えますが、
もしかしたらほろ酔い気分なのかも。
月明かりの下、ひとり静かな夜を過ごす。
その心地 ・ ・ ・
構図的な部分では、月は画全体の真ん中に位置していて、舟の先端と並んでいます。
続いて、賛を見てみますね。
とりあえず読める字を探します。
「水」、「天」、「空」、、、
五行目の「月」の字だけ、他の字とくらべて少し大きく書かれています。墨も濃いですし。
きっと、ここで筆に墨を付け足したのでしょう。
たまたまかもしれませんが… もしかすると、
意識的にここで一呼吸おいたから?
賛自体はけっして長い文ではありませんが、
画に対して賛全体の縦幅はせまく(1~3文字)、
右から左へと横の空間を大きく使ったことで、
景色(世界)がひろがって見えます。
まるでゆったりとした水の流れ(時の流れ)を、
文字の配置によって表現しているかのよう。
さあ、ここからですよ。
まずは賛を読んでみますね。
水天
空闊之
處泛
舟者
月
相上
下
不知身
世有
所属
亦復
一
楽
水天空闊(くうかつ)の処(ところ)、
舟を浮かべて月と相(あい)上下し、
身世(しんせい)属する所有るを知らず。
亦復(またまた)一楽なり。
水と空が(ひとつになって)広がっているところに舟を浮かべて、
月とともにのぼったりくだったり・・・
この身とこの世はどこに属するかも忘れている。
亦復一楽。
江戸時代後期の文人
田能村竹田(たのむらちくでん/1777-1835)の画帖
『亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)』に収録されている「第二図」です。
「空闊(くうかつ)」とは、広々としていること。
「身世(しんせい)」とは、その人の経歴や境涯。
身の上。人生。この身とこの世。
前回(第一図)、前々回(第九図)の記事でも述べていますが、画自体は“写生”(実景)ではなく、
竹田が自身の思索と体験を通して心に記憶された
“心中の景色”を描いています。
よって“写意”(写意画)になります。
賛の五行目に一文字で配された「月」の字が、
人物の頭上にあるのは偶然でしょうか。
上にも下にも浮かぶ月。
ここは水の上でもあり、空の上でもあり、、、
よく見ると、
水面の月はくっきりとした円いかたちです。
基本的に水面に映る月を描く場合、かたちはやや楕円にします。
空を見上げなくても、月と顔を合わせられる。
自分のすぐ横にいる(目線の下にある)月。
“上にあるはずの月が下にある”
上と下を自由に行き来する月は、
内と外を自由に行き来する自分。
真っ暗の中、
上と下の境目は、もう無くて、、、
前も後ろも、右も左も、無くなって、、、
だからと言って、
その“中間”にいるわけでもなくて、、、
“どこでもないところ”に、自分はいる。
ただ水の流れにしたがって。
月とふたりで過ごす特別感。
この「第二図」からは、
代表作『赤壁賦』の中で、明月の下…自身の数奇な人生の結論を天命に委ね、
‟命の儚さ”というものを詠った蘇東坡。
そして、
積み重ねた高い理想と自負は脆く打ち砕かれ、失意、失望のなか、生涯に渡り異郷に身を置き旅をしつづけた李白の詩が思い起こされます。
李白は、月と酒と旅を好みました。
夜がやってきて
空と水の境界線が無くなって(見えなくなって)
気づけば月と自分の距離が無くなっていて
月を見ているようで、自分の内をみていて
すべてが一体となってゆくような気がして
それすらも忘れていて ・ ・ ・ ・ ・ ・
どこへ向かっているのやら
風まかせの舟に乗って
流れるままに ・ ・ ・ ・ ・ ・
いま自分が社会のどこにいるかなんて
どうでもいいやと思えてきて ・ ・ ・ ・ ・ ・
そんなふうに思わせてくれるひとときもまた
“私の楽しみのひとつ”
…と。
ここまでお読みいただき
ありがとうございました。
次回は『亦復一楽帖』の「第三図」を。
壬寅 中秋
KANAME
一部引用・参考文献
・『水墨画の巨匠 竹田』第十四巻 中村真一郎/河野元昭 著
講談社 1995年
・『田能村竹田 基本画譜』 宗像健一 編著
思文閣出版 2011年
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