大成若 其用不弊

大成は缺(か)くるがごとく、

その用は弊(つか)れず。



真に完全なものは

どこか欠けているように見え、

そのはたらきはいつまでも衰えることがない。





大盈若沖 其用不窮

大盈(たいえい)は沖(むな)しきがごとく、

その用は窮(きわ)まらず。



真に満ちているものは

まるで空っぽのように見え、

そのはたらきはいつまでも枯れることがない。





大直若屈

大直(たいちょく)は屈するがごとく、



真にまっすぐなものは

まるで曲がっているかのようで、





大巧若拙

大巧(たいこう)は拙(つた)なきがごとく、



真に巧妙なものは

稚拙であるかのようで、





大弁若訥

大弁(たいべん)は訥(とつ)なるがごとし。



真に雄弁なものは

訥弁であるかのようである。







禍莫大於不知足

禍(わざわい)は足るを知らざるより大なるは莫(な)く、



足るを知らないことより大きな災いはなく、





咎莫大於欲得

咎(とが)は得(う)るを欲するより大なるは莫(な)し。



飽くなき欲望より大きな罪はない。





故知足之足常足矣

故に足るを知るの足るは常に足る。



故に、足るを知るということは、

(何かを得てそれに満足することではなく)


あるがままの現実に常に満足すること。

(なんでもない日常を幸せと感じる)





こんばんは。


活発な雨雲が連なる日本列島。

各地で土砂災害や洪水が発生しています。


これから来週にかけて、

西日本と東日本で大雨が続くようです…


早めの避難、声かけ、身の安全確保に、

さらなる警戒が必要とのこと。





今日は『老子道徳経』四十五章四十六章

一節を取り挙げてみました。

意訳はご参考までに。



今から二千年以上前のことばです。


『老子道徳経』(上下編)には、固有名詞が一切

出てきません。解説もなく、約5000文字の

短い漢文のみが並びます。


また比喩的で難解な語句も多いため、

読み手によって、

解釈にちがいが生じやすいことも事実。



とはいえ、自由に読めるのは、

それだけ深みのあることばだということ。


と同時に、


だからこそ普遍的であり、時代を問わず、

一人ひとりがこのことばと向き合える。




一見すると

『老子』のことばは非現実的にも思えますが、


実は現実的で。



知識(ただ文言として覚えたもの)だけでなく、

感覚的なものも含めて、自身の体験や体感

伴わなければ、

頭(理屈)だけでは到底理解できるものでなく、

何を言っているのかさっぱり。



私もこの原文(詩/文字)と向き合う度に、

解釈が微妙に変わったり、深まったり…を

繰り返しています。今日もまた。


わかったと思った瞬間、

ますますわからなくなっていく・・・




当然、すぐにわかるものでもなければ、

わかろうとするものでもないですが。


思索と体験があってのもの。



老子のことばは、

一生“持ち歩くことになる”と思っています。




自分が十分に理解できていないこと、

“わかっていないこと”を偉そうに綴るのは

如何なものかと…


最初は

老子のことばを取り挙げ記事にすることに、

少々抵抗がありました。


矛盾しているようですが、

言葉や文字で語れるものではないので。




書物はあくまでも“答えへの導き”であり、


どれだれ読み込んでも、読み漁っても、

そこに“答え”は書かれていません。



“答えは自分の中にあるもの”


自分で掴むしかない。






私の愛読書のひとつ

金谷治著老子「無知無欲」のすすめから、

以下の文を引用させてください。



今ここに二人の人物を登場させてみよう。

一人はいわゆる紳士であって、服装も整って

身だしなみもよく、

世間のきまりごとはよく守って万事に勤勉で、

きちょうめんである。

そして、自分だけがそうなのではなくて人にも

そのようにすすめ、みんなが紳士淑女になる

ことで世の中がよくなると信じている。

多少きゅうくつな感じはするが、社会的には

いかにも信用ができて間違いのない人物に

見える。


さてもう一人はこれと反対のタイプである。

服装のことなどは意に介せず、

時にはだらしなくも見えるが、それだけ純朴で

裸の人間味がある。世間のきまりや仕事のこと

もあまり気にとめず、時にはずぼらもするが、

別に怠け者でもすね者でもなく、大事なところ

ははずさない。

こちらの方から前の人物を見ると、いかにも

こせこせした小人物で、こんな人物が多くなる

と世の中はだめになると考えるが、

前の人物の方からこちらを見ると、調子はずれ

の不安定な人物で、社会の秩序を乱すことに

なると考える。(引用ここまで)


引用・参考文献 : 

金谷治著 老子「無知無欲」のすすめ 1988/2/1 P.9-10




巻頭で金谷氏は、

儒家的な人間と道家的な人間の特徴を

このように表しています。


どちらが良いとか悪いとか、

そういうことではなく。



少なからず、

いまのこの世の中にも十分にあてはまるかと。





老子(という人物)が実在したかどうか、

『老子』と呼ばれる書物がいつ頃に書かれた

ものであるかは諸説ありますが、それよりも、


2300年近く失せることなく残ってきている

ということは、

誰かがその時々で重要だと感じ、守り伝えて

きているから


文献とはそういうものですよね。

バイブルにしかり、仏教の経典にしかり、

『論語』にしかり…



もちろん

時代の経過と共に、加筆され、修正され、

膨らまされもしているだろうけれど。


しかし、

こうして現代に残っているということは、

そこに何かしらの

本質に近いものがあるからだと思います。


古典を学ぶ所以です。




そのことば、その真理に、


“古い”も“新しい”もない  …と 私は思いますよ。




『老子』は時空を超え、

いまを生きる私たちにそっと教えてくれます。



無言ながら・・・・・・・・・・・・・・・





目に見えるもの目に見えないもの




同時に存在する陰陽を、

同時に捉え、同時に判断し、行動に移す。


それは難しくもあり、簡単でもあり。



どちらでもあるが故に、どちらでもない。





道可道  非常道

道の道とすべきは、常の道に非ず。


名可名  非常名

名の名とすべきは、常の名に非ず。




“正しい”も、“正しくない”も、

両者は同じところから生じたもの。


“正しい”をつくるから、

“正しくない”が生まれるわけで。



そもそも

“正しい”も“正しくない”も、無いのです。




物事を相対的に見るのではなく、


それを超えて、


どちらも内包する域に視点を置く。






哲人と哲学者は大きく異なりますが…


あくまでも私は哲人のことばに耳を傾けたい。



哲人から哲学(生き方や考え方)を学び、そして

それを日々の暮らしの中で、自分が実践して、

そこではじめて“生きた学び・理解”になると。


そうやって、“ことば”に対する理解を、

自分の日常(生き方)を通して深めていきたい。





皆ひとりひとりちがうということは、


皆同じということ。




“無一物”と書いてあれば、


それは“無尽蔵”と読む。



“無尽蔵”と書いてあれば、


それは“無一物”と読む。




そうすることで、

真の意を理解することができると。





悩んだり、苦しんだり、追い詰められたり、

どうしようもなくなったとき、


一度“無一物”にすることで、


また“無尽蔵”の道が開ける。



そういうふうにして、理解を深めていく。





“いまは何もできない”  …ということは?



そうです。


“いまは何でもできる”ということ。



“何もできない”と、

勝手に思い込んでいるだけなのです。





見方を変えて、見てみる



見方を変えて見てみないかぎり、


“真面目(しんめんもく)は見えてこない。





しかしながら・・・




“わかった”ということは、


それだけ

“わかっていない”ということであり、



“知っている”ということは、


それだけ

“知っていない”ということであり、




、、、、、、





言葉や文字で表せないものを、


言葉や文字で伝えようとして。



今日も、明日も。・・





ここまでお読みいただき

ありがとうございました。



立秋後六日 南窓下

KANAME




2021年7月18日 投稿



2021年7月13日 投稿



2021年5月9日 投稿



2021年4月17日 投稿



2021年3月30日 投稿



2021年2月6日 投稿