「貧不苦人  人苦貧 」

(ひん)人を苦しめず、人貧(ひん)に苦しむ。


(ひん)が人を苦しめているのではなく
人が(ひん)に(勝手に)苦しんでいるだけ


…と


70歳の時に還俗された売茶翁(1675-1763)
晩年の言葉です


豊か=幸せ?

貧しい=不幸せ? 悲しい?


とは限らない・・・・・・





人は人を

勝手に羨んだり

勝手に蔑んだり


勝手に可哀想だとか

勝手に幸せそうだとか



人は“理想のしあわせ像”というものを
勝手に刷り込まれ

勝手にそれが“幸せ”だと
思って(思わされて)いるだけ・・・

その逆も然り・・・





翁はこんなことも仰っています


「非儒非釋又非道」

儒に非ず  釈に非ず  又道に非ず


自分は儒者でも僧侶でも道士でもない 


…と



では一体何なのか…



最後にこう続きます



「一箇風顚瞎禿翁」

一箇(いっこ)の風顚(ふうてん)  瞎禿翁(かっとくおう)


ひとりの狂気じみて
物事がよく見えていない
白い髭を生やした乱れた禿げ頭の老人だ 


…と




翁が言う「非ず」とは
ただ単に「ではない」という意味ではなく…


非儒非釋又非道

(私の解釈)
“自分は儒者でも僧侶でも道士でもあり、
またそれらの世界で深く学んできたが、
何処にも自分の居場所はなかった・・・”

“それらの世界は
明確に区別できるようなものではなく、
それだけで完結できるようなものでもなく、
学ぶだけでは不十分…”

“自分は何かに属する必要も、群れる必要も
まったくなく、
もっとその先を、その奥を・・・” 


あくまでも
これは私の勝手な見解に過ぎませんが…



きっと

翁はそれらを超えた境地に至ったのでしょう



物事がよく見えていた(見ようとしていた)
翁だからこそ

「非ず」と
それを正面から堂々と否定できたのだと…

私は思います


“わからない”ということをわかっている
(深く理解している)からこそ

“わからない”と答えられる・・・







“学ぶことに終局なし”と言われるように


“はい、これで修了!”…なんてあり得ない

むしろそこから始まるわけで…



どこまでも模索し続ける

思索と体験を繰り返しながら・・・




心中を旅すれば旅するほど

心も頭も疲れ果て

そのぶん 茶の味はますます・・・・・・





平安如意



辛丑 穀雨前三日
雨降る窓下 文房にて茶を喫す
KANAME

参考文献  大槻幹郎著『売茶翁偈語 訳注』



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2021年1月24日 投稿