世のものではない | エホバの証人研究(ブログ)

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以前の記事「正義のハルマゲドン - ベテル代表者による話」を書いた際、本部の Ciro Aulicino の講演を幾つか聞きました。基本的に情熱的で上手な話しっぷりです。

話を聞きながら、レイモンド・フランズの著作の中に出てくる彼の叔父の
フレデリック・フランズと共通するものを感じました

どこか「世のものではない」のです。

この「世のものではない」感覚がどこから来るのかまだよく分らないのですが、
ベテルという閉鎖的な場所に長年いることから生じる「浮世離れ」なのでしょうか?あるいは、もともと持っている特質なのでしょうか?

以下、レイモンド・フランズの「クリスチャンの自由を探し求めて」から引用します。(原文は英語)
この中の葬儀の話し手の「副会長」というのがフレデリック・フランズです。


わたしにとっては、特に印象的な出来事が一つあります。1970年代のこと、わたしのいとこが急性腎臓感染にかかり、たった三日で命を落としました。彼はそのときにまだ34歳の若さで、若い妻と二人の小さな娘を残して亡くなりました。わたしと妻は満員の葬儀会場で葬儀に参列しました。協会の副会長(故人の大叔父)は話し手として招待されていました。彼は演壇に進み、そこに上がると、少し間をおいてから、会場内に響き渡るような大きな声で言いました。「生きているということは素晴らしいことではありませんか!」。この叫び声のような紹介の言葉に続き、数分間の話が効果的にそして情熱的に展開します。内容は伝道の書7:1-4に関するものです。その話の間、わたしのいとこに関しては何も触れられません。
話が10分くらい経ったところで「嘆きの家に行くのは良いことである」という言葉が参照されます。そして話し手は次のように言います。「なぜなら我々は皆、これと同じようにいつかは命が尽きるからです」。彼は振り返ることなく、いとこの棺がある後ろ側に自分の手を向けて、このことを言うのです。幾つかの聖句に関する注解が話の中で続きました。そしてお決まりの最後の説明として亡くなったいきさつと遺族の名前が述べられます。その際に初めて故人に言及する言葉が出てきました。
・・・

わたしは燃えるような怒りがこみ上げてきました。それは叔父に対するものではありません。わたしは彼がこの状況にとって最善と本当に考えていることをしていたということを信じているからです。彼にとってはこれが悲しみと喪失感の自然な感情と闘う最善のやり方だったのでしょう。わたしが何よりも憤りを感じたのは、亡くなった人の体をまるで講話用の乗り物か演台のようなものに変えて話を展開するようなことを完全に正当化するようにしている組織の構造に対してです。
Raymond Franz - In Search of Christian Freedom p.249



この葬儀に出席した人は”教訓的な話”を聞けてありがたい気持ちで帰途についたのでしょうか?はなはだ疑問です。

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