もう一週間ほども経っていますが、1995年に放送された『映像の世紀』というテレビ番組の初回が再放送されていたのを、たまたま見たのですが、冒頭いきなりロイ・フラーのソロダンスに始まり、そして彼女のアンサンブルの映像があって面白く感じました。

あの有名な布を振り回す動きをする沢山の女の人の動きの中心に、サムライのような固い型式的な動きをする男踊りが一つだけある。パリ万博だというのですが、川上音二郎を真似た誰かなのでしょうか、説明は聞き逃したが、見た感じは日本人ではない。あれは、ちょっと興味深い映像でした。

止まって見せようとする日本の踊りに対して、動いて見せようとする欧州の踊り。これをハッキリとやっている。自分の出すエネルギーをあらわす欧州の踊りに対して、他人の有様やエネルギーを真似て我が身に映し出そうとする日本の踊り。とも言えるのかしら。ほんの短いフィルムだったが長い長い歴史の対比を身体が強調しているような感じがしたのです。

番組は例によって政治的なものや文化的な多数の映像が紹介され劇的な流れを演出してあったのですが、いづれも21世紀の僕らがやっていることと極端には違っていないように思えました。

そんな中に、イサドラ・ダンカンの映像と発言もあって、これは、フラーのダンスとは対極的な位置にあるような気配がして少し深刻なものを垣間見た気がしました。

ダンカンの踊る姿は一人で踊っている姿でしたが、これは、非常に華やかなのだけれど、どこか少し孤独なような、何か言い知れないものに向き合いながら踊っているような複雑な表情、気のせいか、そんな印象がしたのです。たったの一瞬の映像に、そんな感じが映っているように感じたのはちょっとした衝撃でした。

そして、その映像に添えられたダンカン自身の言葉はロシア公演の時に見た革命直前のペテルブルグについてのもの、とりわけ、血の日曜日事件についてのものだったのですが、深身があり、重力があり、それゆえ心揺さぶられるような言葉でした。

目の前に繰り広げられた事件の痛みをそのまま踊ったダンスは大好評だったが、それに感激したのは、血の日曜日事件の現場にあった人々ではなく、実は、大富豪や貴族たちだったのだ、というダンカンの告白は、やはり、非常な重みがあり、その時その瞬間の経験を言い表しているだけでなく、どんどん別の場所での出来事にも重なり得るし、もしかすると、僕らの現代にさえも、何らかのかたちで重なりひびいてくるのかもしれぬとさえ思わせられるような感じがしました。

 

 

 

 

 

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きょうは長崎原爆忌。

被爆直後の長崎で傷を負った人々が集いミサを行う映像を見たことがあり、その祈りの姿がどこまでも深く深くいまだに心が動き続けている。

存在について、神なるものについて、何よりも、人間というものについて、人間の人間に対する行為について、愕然とし続けるようなショックを、僕は「ナガサキ」から受け続ける。

毎年この日になると思い出すのが、2015年のこの日に上演した『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』(下記写真)というダンス作品のことだ。

これは、長崎で原爆体験を伝え続けている〈松原の救護列車を伝える会〉の主催により実現したプロジェクトで、作品としては美術家の瀧澤潔さんとの共同制作。

会場は長崎県大村市の松原小学校の校庭で、そこは、被爆直後に運行された救護列車によって長崎市内から多くの被爆者が運ばれ亡くなっていった場所だった。

被爆70年祈念セレモニーの一環として8月9日の夜に上演した。

11時02分の黙祷のあと、急ピッチで現場の仕上げが行われ、「運動場」は「劇場」に変わってゆく。夕刻に観客が集まり、地元の方々による被爆体験を語りつなぐ朗読劇のなかで日没を迎え、夜の闇とともにソロダンスを開始、クライマックスでは松原小学校の児童たちが祈りの歌を歌いながら次々に登場してダンサーとの交感を行う。そのような内容だった。

美術制作をはじめ機材や資材の調達も技術面も運営面も含め、複雑なスタッフワークの全てが、学生ボランティアと地元住民の皆さんと子どもたちによって行われた。いわゆるプロを現場に一切介在させなかったことは大きな特徴だった。

失われた時間と鎮魂をテーマにしたダンス作品だったが、これは結果的には、出会いから生まれる時間が力になり形になった公演になった。つまり作品という枠を超えた公演になった。原爆についての思索や行動や迷いや停滞のプロセスから、さまざまな出会いが生まれ、その出会いが特別な時間を紡ぎ出した。出会いから生み出される時間、というのは計画的にできるものではない。

この作品の企画から上演までの行動や対話の積み重ねを通じて、僕は、ダンスについてばかりでなく、表現活動の根本について、深く考え直すことになった。

 

『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』(2015)より

上記公演の全景(長崎県大村市松原小学校)

関連記事(2015年8月:プロセスの写真やテキストが複数掲載されてます)

 

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「ほとんどの人は沈黙していた」

 トリニティー原爆実験でのオッペンハイマーの発言。

 何とも冷やりとしたものと、底知れぬ不気味さを、

 僕はこの一言から感じてしまう。

 これが、最近なぜかしら、唐突に思い出される。

 

 前回1964年の東京オリンピックでは、

 8月6日の原爆投下その日に生まれた人が聖火の最終ランナーだったという。

 

 

 

写真は2014年に上演した自作『ひかり』の一部。

小さな光を見て希望をつないでゆくうち、もっと大きな希望が欲しくなり、もっと光も欲しくなり、どこまでも明るさも希望も欲しくなって、気づいたら得体の知れない巨大な光に包まれて何も見えなくなっている、そして、明るすぎる光の中で肉体が焼け焦げて消えてしまう、、、。

そのようなプロットがこの作品にはあったが、これにはやはり、どこかで核をめぐる不安が影響していると思う。

 

 

 

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8月6日 広島 8:15

8月9日 長崎 11:02

 

原爆忌、

この日が来るたびに、

思うことが年々複雑になってゆく。

年々、

言葉を失ってゆく気がする。

やるせなくなる。

どうにも、、、。

 

写真=『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』(2015)より

 

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久々の公演から、あっという間に2週間経っているが、今回はなかなか言葉が出ないというか言葉に纏まってゆかない。前回の上演感想①にもダブるが、どちらかというと公演という場そのものについて思い考え探り直そうとしている感触が強い。

対人のみで開催させていただいたこともあり、生身のお客様あって初めて成り立つものを強く感じる会になったと振り返っている。それはとても重く大切なことなのだ。

コロナのせいで舞台が出来なかったあいだ、様々なオンラインイベントなどにも関わりながら、自作の上演方法を考え企画を温めた。ご縁もあり、さらに情勢的なタイミングも含め、ぎりぎりの線で対面開催することができたのが今回の公演。時期によっては開催を再び躊躇した可能性はやはりある。

見知らぬ人間同士が「集う」「会する」ということの非常な貴重さ、そのなかで生まれ得る一瞬にこそダンスが息吹く可能性がある、ということを深く意識しながらの公演だった。

上演芸術というものは、元より諸般の状況に恵まれて「やっと成立する」からこそ、その現場での全身体験から訪れる一回性と虚実被膜感を演者観客の双方が鋭く共有できるものなのかもしれない、そして、そのことによって、存在のことや社会のことにも、どこかで接してゆくのではないか、ということも思うのだった。

出演者の肉体も踊っているのだけれど、それだけでなく、その場に存在する全ての呼吸や感覚が踊り始めるといいのに、と、妄想することがある。ダンスの魅力はカラダの問題だけではなく、場の問題が大きいのではないかと、思えてならない。

たまたまコロナがそれらを認識させてくれたが、このような事態でなくとも、例えば戦争や紛争がいつ起こるかしれないし、大地震や大嵐などが来る可能性はいくらでもあるのだから、ある場所に生身の人が集まり何か創造的なエネルギーとか磁場を共に有することは、非常に幸運なことなのだと心しておかねば、と、あらためて思い知った。当たり前のようにコンサートに行ったり芝居や映画を見て育ったが、それは当たり前ではなく素敵な幸運の連続だったのだ、とも思えた。

会場でいただいたお立ち会いの方々の存在感や事後にいただいたアンケートやメールなどから、すごくエネルギーをいただき、次への背を押していただいている感が強い。

この先もまだ安定的な予定は立てることができないが、状況を見計っていつでも動けるように、作品はさっそく作り始めようとしている。作品が無ければ、集うことも出来ないから。

しばらく不規則な活動となるかもしれませんが、あらためて、ここから始めていきます。できる限りのことをして踊りを楽しんでいただく機会を作っていきたく思っています。

 

 

(当ブログでは、引き続き、作品についてなども書いていきたく思いますので、ぜひ、ご注目ください。)

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※次回公演の決定まで、いましばらくお待ちください。

公演を終え息抜きをしたかったところに、ジム・ジャームッシュ監督の特集上映が行われていたから、ハシゴをした。

天才的なユーモア、写真作品のような美しさ、小憎らしいほど気の利いた音楽。

数年前に観た吸血鬼映画『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』で受けた感触が残っていた。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が学生の頃に大流行した懐かしさや、ハワード・ブルックナーやサラ・ドライバーの作品も思い出しつつ。

レトロスペクティブということで色々やっていたから迷ったが、今回は『ダウンバイロー』と『コーヒー&シガレット』を続けて楽しんだ。

『ダウンバイロー』では、20代で観たときには感じなかったような可笑しさに黙って笑いころげた。そして、少しだけ哀しくなった。若い頃はもっと退屈だったのに、今頃になって、なぜこんなに面白く感じるのか。もっと小洒落て見えたのに、何故こんなに切実に美しく感じるのか。

『コーヒー&シガレット』は初めて観たが、唸るほどの名作だと思った。比類のないユーモアと美しさ。笑いの向こう側に、苦味があり、そして、何も押し付けてこない。かつ、毅然とした個の存在の確かさを感じる。全てのシチュエーションが、なんだか、よくわからないけれど、なんだか可笑しくて、そして、なんだか、とても、切ない。

少し暗い場所で少しの時間、スクリーンの光の明滅を見つめる。そんな状況に、ジャームッシュの映画はしっくりくる。

僕にとってそれは、踊りの時間にも近い感じがある。見知らぬ個に向き合う愉しみだったり、別の個との出会いを通じて己自身の個に立ち返ってゆく時間だったり、という、、、。

久々にスクリーンで観たジャームッシュ映画は、若い頃よりも、何倍も楽しめた。年齢とともに、失ったものが増えたからか、わが身の滑稽さが深まったせいか、、、。

この人のセンスの良さと個人作家としての強さに、あらためて敬意を感じた。

 

 

 

 

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生まれそこなった心が疼いているのか、あるいは、祖先の声が血に溶け継がれて騒乱しているのか。 (櫻井郁也)

 

どんな紙切れでもよいのです、

ただちょいと、

血を一滴出して 署名してください。

血というやつは、

とにかく特別な汁ですからね。

(ゲーテ)

写真は、先日の新作公演《櫻井郁也ダンスソロ『血ノ言葉』(7/17~18公演)》の現場の様子、テキストは当日配布されたパンフからの転載です。高画質の舞台写真やアーティスト自身による上演感想なども、順次公開したく思っております。

 

 

 

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久々の対面公演を終え、今、観客の方々から言葉をいただいているその一言一言を読みながら上演作の反省を進めていますが、そこから、すでに次の公演の作業の最初の段階が始まっている感があります。

公演の場は、ひとつの結果でもあるのだけれど、それは同時に、ある種の対話の場でもあり、未体験の場でもあり、さらに、すでに、ひとつの始まりである、という実感を、今回あらためて確かめています。

以下は、上演後に書いていたメモの一部です。

「僕の場合、舞台は連続して生まれてゆく。ある舞台で体験した出来事や感じた雰囲気や観客の方々からいただいた言葉が、次の舞台につながってゆく。僕の個的な心や思考から生まれたものだけではない何かが、本番という特異なトポスから得られるのだと思う。瞬時瞬時にはしる空気感や様々なハプニングが、いつしか非常に複雑に絡まりあって特異な熱や磁気を発生させる。虚実皮膜の出来事というのか、イマジネーションと現実の力が互いに協力しあってかたちづくってゆく何かがある。ダンスと言うと、カラダ(体)というものが中心にあるようだけれど、僕はそうは思っていなくて、やはり、場に生まれるエネルギーこそが、ダンスの中核に関わるものなのではないかと、思っている。肉体も作品も、それらに立ち合っている人との間に生まれているエーテルが関わって初めて出てくるものがあるように思えてくる。作品が呼水になって湧き上がる心の問題、感謝、悲しみ、怒り、悶え、寂しさ、恋しさ、例えばそのような気持ちの波が客席から舞台に、舞台から客席に、観客と演者の双方の体に響き染み込んで、何か振動のようなものを場所に時間に起こしてゆくのかもしれない。」

ひきつづき、いろいろ思うことを書いていきますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

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