現実味はさておき『アキラとあきら』観る価値はあったかなと思えた | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 かつて梶山季之や黒岩重吾、清水一行と言ったところが手掛けていた企業小説というジャンルがあった。高度成長下の日本経済にあって、産業スパイやら企業同士の裏取引だとか、そこに蠢く権力争いなどがテーマとなっていたことが多かったかのように思う。そこに女が絡んだりしてちょっと妖艶な描写があったり、殺人などが絡んでサスペンスタッチの作品が多かったかなという記憶もある。

 そんな昭和の企業小説に対して、池井戸潤の平成~令和の企業小説は、組織の看板と責任を背負っていく相手が、一見弱小に見える立場の者と一緒に戦っていくという構図が多い。「下町ロケット」「陸王」「半沢直樹」などテレビで人気となったドラマの原作は池井戸ワールドとして人気を博した。

 この、『アキラとあきら』(三木孝浩・監督/池田奈津子・脚本)も、大手銀行を舞台に若手エリート銀行員が、融資を巡って自らの出世というよりも、本気で融資先を助けたいというアキラとドライなあきらが、それぞれ張り合うのだけれども、やがて運命が彼らの環境を大きく変えていくというもの。

 実家の町工場が幼い頃に倒産して、その後を翻弄されていったアキラと、大企業の御曹司でありながら約束されていた後継者の道を敢えて拒否してメガバンクに入行したあきら。この同期の2人は、やがてお互いにそれぞれの思い描いていていたこととは異なる現実を突きつけられて、それぞれの道を歩まざるを得なくなっていく。

 だけど信念は揺るぐことなく、左遷先から戻ってきたアキラはやがて、元同僚で結果的には親族の骨肉の争いを阻止すべく父親の残した会社を引き継いでいたあきらの会社を助けようと奔走するというストーリーとなっている。

 結果としては「成程、こうなっていくのだろうな」というところへ着地していくのだけれども、ある程度は予定調和と分かっていながらも、最後までしっかりと見せてくれた。このあたりは、作品作りの上手さもあったと思う。アキラの竹内涼真のあまりにもの好青年ぶりにも「こんなヤツおったら、オレも応援してやりたくなるだろうな」とは思わせてくれるものだった。

 その一方であきらの横浜流星の「自分は切れ者でエリートだぞ、どうだ」というような雰囲気も、現実にも「こういうヤツおるだろうなぁ」と思わせるリアル感があった。実際、昔の話だけれども、大手出版社の編集者なんかにも、そんなタイプのヤツおったからなぁ…。ということも、ふと思い出したりした。

 もっとも、30歳そこそこで、そんな何十億も百億近い金を動かす仕事を全面的に任されるものかと言うと、いささか現実味は薄いかなとは思うんだけれども…。まあ、そこは映画的虚実ということで良しとしていいのではないかなとも思って観ていた。

 ただ、こうした企業ストーリーなんだけれども、今回女性の登場があまりにも少なく、こんなエリートを巡って色恋の話がないというのは、やっぱりちょっと物足りんだろうとも思ってしまった。辛うじて、上白石萌歌の頑張る女子行員ぶりがあったくらいだった。それとて、もっとアキラに思いを寄せるようなシーンがあってもよかったんじゃないかな…とは思ってしまうけれどもね。そういうサイドストーリー的なことはあまり要素としては必要としていなかったという演出だったのであろうか。

 ところで、もう35年くらい前になるけれども、オレ自身が「アキラとあきら」たちと同じ年齢だった頃はどうだったかというと…、映像会社のプロデューサー経費として、毎月10万円を仮払い支給されていてた。それは有り難いことだったんだけれども、オレとしては、それをいかに上手に使いきるかということで領収書の帳尻合わせが毎月の月末のメイン仕事だった。

 そんなオレだから「人のために何かしよう」とか「誰かを助けよう」なんていう意識は微塵もなかった。自分だけが、いかに都合よく生きていくのかということだけを学んでいた時代でもあった。そんなバブル時代の泡沫のバブル的存在だった。今思えば、我が見栄だけの恥ずかしき時代でもあった。