都市対抗野球は時代の写し絵➁ 都市対抗代表の歩みは日本の産業の推移  | (株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

(株)ジャスト・プランニングも、何だかんだで15年目を突破した

ついこの間始めたばかりだと思っていたこの会社も、干支で言うとひと回りを越えて、15年目に突入してしまった。その間には、コロナ禍や事務所の引っ越しも含めていろいろなこともあったかな。そんなことを思うと、まあ、よくここまで持っているかなというところだろうか。

 社会人野球、特に都市対抗野球は、その代表チームの顔ぶれを見ているだけでも、その時代の日本の産業や経済の発達・発展ぶりを推察することができる。つまり、都市対抗の代表は、そのまま日本の産業の推移を示しているというものでもある。それを見ていくのも非常に面白い。

 戦前の黎明期には一つは鉄道局が主体となっていき、もう一つは大陸の満州勢が力を持っており、まさに躍進する帝国日本を象徴していく様子が窺えるものでもあった。

 しかし、第二次世界大戦(太平洋戦争)を経て日本が敗戦国となって、日本領が奪われ満州など中国勢や台湾、朝鮮といったところからの出場はなくなった。

 戦争で3年の中断を経て、戦後の復活大会ともいえる第17回大会は1946(昭和21)年に開催された。優勝したのは岐阜市の大日本土木だが、まさに復興していく日本を代表していくような土木会社ということが興味深い。ちなみに、大日本土木は翌年も優勝を果たすのだが、復興作業を進めていく中で、土木関連が多くの人材必要としたということもあったのだろう。野球選手も含めて人材確保という意味からも、その範囲が広かったのではないかということも推測される。

 もっとも食糧難の時代でもあるから、当時は大会参加する際に米を持参していくことになっていたという。それでも、後楽園球場のスタンドは、連日の満員であった。それだけ、人々が野球に飢えていた時代ともいえそうだ。人気としても、まだプロ野球(当時は職業野球という呼称)よりは都市対抗野球や東京六大学野球の方が人気のある時代でもあった。

 当時の都市対抗野球の人気がどれほどのものだったのかというと、その注目度のバロメーターの一つとしては、1947(昭和22)年の第18回大会では、天皇皇后両陛下が訪れており天覧試合で満員になったとなったということである。

また、この年は学制改革のあった年でもあり、これまでは中等学校野球だったものが高校野球となっていく切り替えの年でもあった。そうした節目であるということも、アマチュア野球はさらにここから隆盛を迎えていく伏線ともいえるものでもあった。

 活況を呈していた都市対抗野球だが、戦後復興に直接的に関連した企業としては岐阜大日本土木に並んで東京からは熊谷組、九州からは別府市の星野組が強豪として名を連ねている。

一方で、経済復興を助けた化学および繊維系の企業も都市対抗の強豪として登場してくるようになる。大阪からは、全鐘紡が出場し、1950(昭和25)年から3連覇を果たす。鐘紡は慶大色の強い企業で、町田重信監督をはじめ慶大出身の選手も多くいた。東京六大学の慶大で活躍して、その後鐘紡へ進むというのが、一つの野球エリートコースとなっていた。この頃から、徐々に大学から大手企業への流れとして、それぞれの学校の系列の色が如実になっていくようにもなってきた。

 大阪市で全鐘紡のライバルとなっていたのが日本生命だった。日本生命は現在でも企業としてチームを維持しているのだが、当時からこちらは、早稲田大と明治大の選手が多くいた。また、50年から採用されるようになった補強制度もあって、予選で負けた方の主力選手が補強されるという形になり、どちらが出てきたとしても戦力の充実する大阪市代表は強かった。

 やがて、代表枠の再編成なども行われるようになり、大阪から全鐘紡と日本生命の両チームが出場するというケースも多く見られるようになった。

 また、もう一方の復興日本の基幹産業でもある鉄鋼関係では、戦前からの強豪だった八幡製鉄を中心に、神戸市の神戸製鋼と川崎重工、さらには釜石市の富士製鉄、横浜市の日本鋼管なども姿を表すようになってきた。これに加えて、同じ横浜市からは日本石油CALTEXも出場していた。

日本石油カルテックスは、その後、平松政次投手(岡山東商)などで日本一となり、黄金時代を築いていく

 

 静岡には吉原町(現富士市)の大昭和製紙と清水市(現静岡市)の日本軽金属などが活躍。こういった代表の経緯を見ても、さまざまな産業が発展していく様子が読みとれる。大昭和製紙はチームとしても強豪で、静岡県では君臨し続けるのだが、1953(昭和28)年には、平古場昭二投手ら慶大出のスター選手を擁する全鐘紡を決勝で下して優勝している。大昭和製紙は、早稲田大の石井藤吉郎に慶大の徳丸幸助と早慶両方の中軸選手がいて、戦力も充実していた。

この時代は、情報産業の最先端として新聞があり、その他雑誌や書籍も多く刊行されるようになってきた時代でもある。また、百貨店の包装紙から始まって、それぞれの商品を包んだり、ちり紙も含めて紙の需要が一気に増加していった時代でもあった。その先頭を走っていたのが大昭和製紙だった。1954年には静岡県からは大昭和製紙と並んで、富士市の本州製紙も代表となっている。まさに、紙の供給と言えば静岡という時代だったのかもしれない。

そしてまた、この時代の都市対抗の出場チームは、その後の2030年ほど、日本の社会人野球をリードしていく企業だったということもまた、特徴的なことだといっていいだろう。

 もちろん、そうした現象と同時に、日本そのものも右肩上がりの高度成長を続けていく時代になっていっていた。言うならば、日本がもっとも活動的で栄えていく時代でもあった。だから、企業としても従業員の団結や意識をより高めいていくためにも、企業として野球チームを持ち、「自分の会社のチーム」を社員が一丸となって応援していくことで、より強い結束を生みだしていくということにもなっていったのだ。

 都市対抗野球も、そうした企業が成長の一旦を担う存在として存在していた。高度成長へ向かっていく社会を支える役割も果たしていたといってもいい時代であった。

 また、戦前の創成期から社会人野球を支えて、その原点でもある鉄道局は、その大元となる日本国有鉄道がプロ野球球団を持つことになり、50年からはプロ野球の国鉄スワローズができていた。また、1948年に都市対抗で優勝を果たした西日本鉄道はその後、阪急や近鉄、阪神などが軒並みプロ球団を保有していく流れと、プロ野球が2リーグ制になることにもとなって、プロ球団へ移行という形になった。

その一方で、名古屋鉄道管理局や吹田市の大阪鉄道局、岡山鉄道局、鹿児島鉄道局といったあたりも健闘していた。

こうしていきながら、日本の産業は東京オリンピックを前に、さらに上昇傾向を続けていき、日本の産業はますます活性化していっていた。そうした現象は、いち早く都市対抗野球にも反映されていく。出場チームはやがて企業の色をより前面に出しながら、応援団も盛り上がっていくようになる。東京オリンピックの前年となる1963(昭和38)年の第34回大会からは、応援団コンクールも開始されるようになった。(つづく)