東京オリンピックを翌年に控えた1963(昭和38)年の日本は、東京~大阪間を4時間で結ぶ(当時)「夢の超特急」と呼ばれた新幹線の整備などでまさに、高度成長のピークを迎えつつあった。そんな年に、都市対抗野球では応援団コンクールを開始することになった。まさに、この応援コンクールこそ、その後“都市対抗の華”ともいわれるようになるくらいに、都市対抗野球の象徴的な存在になった。また、それは同時に、それぞれの企業がその存在や業務実績をアピールしていく場でもあるようになっていった。

都市対抗野球のもう一つの華はスタンドの応援風景でもある。だから応援応援コンクールに力を注ぐ企業も多くなってきた。

前身は新日鉄名古屋の東海REXも元気
ちなみに、最初の応援コンクールの最優秀賞は浜松市の河合楽器だった。浜松市では日本楽器(現ヤマハ)と競い合っていたのだが、豊かになっていく日本において、楽器メーカーが躍進していたという証でもある。この年の優勝は京都市の積水化学、準優勝が富士鉄室蘭となっており、さまざまな産業が入り乱れてきて、企業がどんどん成長していっている日本にとっても一番いい時代を象徴しているかのようでもあった。
参考までにこの年の主な出場チームをあげておくと、上記以外には秋田市帝国石油、東京都は大和証券と熊谷組、八王子市リッカ―ミシン、川崎市日本コロムビア、富山市不二越鋼材、姫路市山陽特殊製鋼などが時代を物語っている。これらに、横浜市からは日本鋼管と前年優勝で推薦出場の日本石油の両雄が登場し2回戦で対戦している。3連覇を目指す日本石油が2―0で勝利している。準決勝で富士鉄室蘭に破れて、3連覇は成らなかったものの、この時代は日本石油黄金時代ともいわれていた。
オリンピックイヤーの1964(昭和39)年は、初めて沖縄から那覇市琉球煙草が出場し、応援席には沖縄の民族衣装が登場し、「本土復帰」のプラカードを掲げるなども時代を表している出来事である。
この年は関東勢がベスト4を独占した。優勝した浦和市日本通運、準優勝の川崎市日本コロムビアに熊谷組、日本鋼管である。コロムビアは応援スタンドに専属歌手が訪れたりして話題にもなった。ベスト8には北海道拓殖銀行や大昭和製紙もいて、まさに、流通から建設、鉄鋼、娯楽とあらゆる産業が、都市対抗を舞台としてアピールしていたのだ。
また、この頃から電電公社の各チームが進出してくるようにもなる。
電電勢としては、富山電電が1955(昭和30)年に出場すると、56年に電電東海、58年に電電信越、翌年に電電近畿と電電東京が出場すると、61年には熊本市の電電九州というように顔ぶれが増えていく。やがて丸善石油と並んで四国の雄となる電電四国は63年に初出場を果たす。追うように電電北陸、電電中国が続く。
こうして、やがて「都市対抗といえば電電ナントカ」と言われるくらいに、電電勢が賑やかしていくのだが、1985(昭和60)年に民営化されてNTTとなってもしばらくは、電電時代の名残で出場チームが各地に散らばっていた。しかし、やがてチームが統合され続けていき、現在ではNTT東日本とNTT西日本のみになっていってしまった。

かつての電電東京だったNTT東日本のチアリーダー(2019年の大会から)
一時、都市対抗野球を席巻した各地の鉄道管理局も、各民間企業の躍進の中で予選の壁を突破出来ないところも増えてきていた。そして、国有鉄道民営化に伴い、やがてJRに名称を変更していき今日に至ることになる。
電電時代到来を予告するかのように、1965(昭和40)年には電電近畿が優勝を果たすのだが、この年の大会には近畿をはじめ東京、中国(広島市)、東北(仙台市)、北陸(金沢市)と5つの電電チームが出場している。翌年には千葉市の電電関東も出場するが、電電関東はその3年後には、台風の影響でノーゲームとなった太田市富士重工との決勝戦を制して初優勝を果たしている。
なお、この年は第40回記念大会となり、開会式が後楽園のナイターで行われ、本大会出場チームも史上最多の36代表と華やかさも増してきた。大会9日目には22年ぶりに天皇皇后両陛下のご観戦する天覧試合となった。9年前は出場チームが食糧持参で参加していた時代だった。それから幾星霜、日本は高度成長を果たして、カラフルな応援団が企業のプライドと名誉をかけて自チームを応援していく華やかな舞台になっていた。
その当時から出場していて、この大会にも出場していたのが北九州市の八幡製鉄だった。当時は八幡市代表だったが、小倉市と統合して7番目の政令指定都市の北九州市に代わっていたが、これも発展する日本の象徴の一つともいえようか。
やがて、八幡製鉄は富士製鉄と統合して日本最大の製鉄会社の新日本製鉄となり、都市対抗には新日鉄として出場するようになる。まさに、電電と新日鉄が都市対抗野球の中心となっていくのだが、この時代こそ都市対抗野球全盛時代と言ってもいい頃であった。
また、この時代に東海地区から連続出場を続け始めるのが大垣市の西濃運輸だった。モノが生産されてくると、当然のことながら物流が発生する。その物流の根幹となるのが運送業である。日本通運とともに西濃運輸がその代表的な存在として躍進し始めたのである。西濃運輸と日本通は、現在もなお都市対抗の常連としてチームを維持し続けてドームでも活躍しているのは見事と言っていいであろう。
西濃運輸の応援スタンドには、カンガルーの被り物も登場
大会が華やかになっていく中で、当然のこととして都市対抗が生んだスター選手も多く登場していくようになった。その代表的存在が1967(昭和42)年に日本石油を5度目の優勝に導いた原動力の平松政次投手であろう。平松は岡山東商時代にセンバツで優勝投手となっていたが、ドラフトで中日に4位指名を受けながらもプロ入りをしないで日本石油へ進んだ、プロより黒獅子旗を選んだのだが、入社2年目にしてその夢を果たした。同年のドラフトで、大洋(現横浜DeNA)に指名されて入団するが、プロ通算201勝を挙げている。その原点が、大会すべての試合で勝ち投手となった都市対抗だったのである。
一方、「ミスター都市対抗」と呼ばれたのが、熊谷組の古田昌幸だった。55年に立教大を経て熊谷組入りすると、以来12年間都市対抗に出場し続けるのだが、熊谷組が予選で敗退して本大会に出場ならなかった時も補強選手として出場していた結果である。勝負強い打撃と二塁手として広い守備範囲と溢れる闘争心はまさに社会人野球の鏡と言われた存在でもあった。
そんな古田選手が在籍していた熊谷組もチームがなくなって久しい。

