いくつになっても新しい発見、新しい挑戦への気持ちは失いたくはないと思っている | 週刊テヅカジン

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手束仁が語る、週刊webエッセイ

 思えば早いもので、もう既に過去のこととなってしまっているけれども、4年前には緊急事態宣言下の東京都というのがあった。時期的には2月末に当時の総理大臣安倍晋三が発したので、もう間もなく丸々4年ということになる。そんな中での生活が続いていくと、いつもの景色と異なるのは仕方がないと思っていた。

 ボクとしては、運動不足になってしまってはいけないので、健康のための散歩などを始めた。特に散歩は規制されていないので、午前中に時間を作って(というか、時間はあるわなぁ)歩くようにしていた。

 そして、意識をして歩いていくことで、今まで気がつかなかったこと、普通に見過ごしてきたことが見えてくることもあった。そうしていくうちに気がついたら、今の時間を少しでも楽しむために、新しい発見をするために歩いていこうという気持ちにもなっていった。

梅の花咲く亀戸天神から見える、スカイツリー

1999年と2001年の2度、夏の甲子園出場を果たしている都立城東高校。

改修工事もようやく終わったところ。

 

 そうして考えると、ボクの住んでいる東京下町、江東区亀戸界隈というのは、比較的多く公園があり、そこだけでも、結構な発見はあることがわかった。今まで、気が付かなかったことに気が付くというのは案外面白い。そして、そうした気付きも、この災いを新たな方向展開へ向けていく意識にもなれるのではないかとも思うようになっていた。

 そして、その発見で、新たな何かが見えたら、そうやって前へ進めているのだと思いたい。そうなれば、それはそれでこうした時間だって悪いものではないと思えるのではないだろうか、という気持ちで過ごしていた。

 

 見えないものが見える、知らないことを知るということは、人間にとって、大事な生産活動である。いわゆる、知的好奇心の刺激ということなんだけれども、その知的好奇心を持っていかれる限り人は若くいられる、そう思っている。

 

 そういえば、サミエル・ウルマンという19世紀の詩人が著した「青春の詩」という詩があった。阿部次郎の「三太郎の日記」とともに、かつて旧制高等学校の学生に愛読されたらしい。

 その中のフレーズに、こんなのがあった。

「年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か

 曰く、驚異への愛慕心、空にひらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎……・(中略)

 人は信念と共に若く 疑惑とともに老ゆる

 人は自信と共に若く 恐怖とともに老ゆる

 希望ある限り若く 失望とともに老い朽ちる

 ………(後略)」

 

 実は、この詩は、もう22年前に80歳で亡くなったボクの親父の遺品を整理していたら、なぜか何枚も、それを書き写した用紙が出てきたことで知ったのだ。

 一応医者というインテリ職にいながら、ゴルフのスコアを上げることと、中日ドラゴンズの野球しか興味がなかった。およそ文学や芸術には、ほとんど縁がないというか興味を示さなかった。そんな親父だったがどういう意識でこうした詩を書き写していたのかはわからない。

 だけど、人は気持ちを前に向けていくことで強く生きられるのだということを、やはり意識していたのではないだろうかと察している。

 そして、こんな時代に、その詩をもう一度読み直してみながら、ボク自身も、新しい発見をしていこうという気持ち、好奇心の刺激は必要だと感じている。新たに見つけるものがあったら、それを発見と感じよう、そう思うようにしている。

今まで知らなかったところへ足を踏み入れてみると、それも案外面白い

 

 いつもの街でも、ちょっと違った通りに入ったり、初めての場所に行ってみると、そこでの発見はそれはそれで新鮮だと思う。もう、65年以上生きているけれども、まだまだ知らないこともいっぱいある。亀戸に住んで27年、愛知県の知多半島から上京してきて50年近くになる。それでも、東京だけでも知らない街や知らない場所は数えきれないくらいある。

 そんなことを思っていると、好奇心はますます増していく。そんな思いで見慣れた街を歩いていくことで、また、もっとその街を好きになれる。もっと江東区が好きになれる。

 そんな思いでいると、今の自分をさらに好きになることが出来るのだと思っている。