Gaydar !

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HIV+です。ゲイです。それ以外の自分って...なあに?(笑)

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今週の月曜日(2016年6月13日)、

あの"事件"に 司法の最終的な判断が下されました。

 

ほぼ同時に アメリカ フロリダ州で衝撃的な事件が発生したこともあり、多くの人々の関心はそっちへ向いているようです(あれほどの事態ですから もちろん 当然ですね)

 

今となっては 人々の記憶からほとんど消えかけているような気がしますが....

 

日本で発生したゲイ関連の犯罪において、重要な出来事だと思うので、この「Gaydar!」に 記録しておきたいと思います。..

 

 

4年前の2012年の1月、ひとりの男が警察に逮捕されました。

容疑は「有印私文書偽造」と「ストーカー規制法違反」。

 

その2週間後、その罪状に「殺人」と「現住建造物等放火」が加わりました。

 

山形東京連続放火殺人事件。

 

そういえば....

と 思い出された方もいるでしょう。

 

<事件について>

 

名古屋に住んでいたゲイの男性(仮名 A と表記します)が、同性の自分の恋人(以後 Bさんと表記)にストーカー行為を働き Bさんの実家がある山形県に行き、実家に火を放って彼の両親を殺害。

 

それから1年後、Aは別の恋人(以後 Cさんと表記)と名古屋で同居していたが、暴力に耐えかねたCさんが家出。

Aは Cさんの実家がある東京都江東区のマンションに「Cを出せ」と押しかけ、彼の母親を中毒死させた上で建物に放火。

この2つの事件によって 何の罪もない3人の人の命が失われました。

 

Aには死刑が求刑されましたが 第1審、2審を通じ"死刑は重過ぎる"として 弁護側は上告の手続きを取りました。 

その結果が、6月13日に明らかになったわけです。

 

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160613/k10010554951000.html

 

この事件が発生した当時、ゲイからの反応は 

わりに冷ややかだったように記憶しています。

 

"犯人はたまたまゲイであっただけ"

"自分たちまで「変質者」「異常者」と 一緒にくくられたくない"

"単に しょーもないサイコパスの犯行だろう"

"人間性の問題で セクマイであるとかないとか 関係ない" 

という趣旨のコメントを ネット上で たくさん目にしました。

 

でも 

本当にそうだろうか?

 

ごく普通に暮らしているゲイの日常とは無関係な問題 で済ませてしまって いいのだろうか?

 

という気持ちがあります。

 

一連の事件は複雑な展開を見せましたが、これには以下のような特徴があります。

 

① 同性によるストーカー行為であった 

 

② 当事者の片方が既婚者であった

 

③ 加害者、被害者の双方が同じ"秘密”を共有し そのつながりで親しくなった

 

という 3つの点がポイントなのですが、これらがいずれも <恋愛><共依存><偏執><ネット掲示板><親><偽装><ルームシェア><地方都市><東京>といった 日本のゲイにはおなじみのキーワードをたくさん含んでいるのです。

 

 

① 同性によるストーカー行為であった

 

山形の事件では 親密な関係になったあとでAの暴力(ドメスティックバイオレンス)に気がついたBさんが実家のある山形へ逃げ帰ったのですが、AはBさんに対し

「おまえがゲイであることを職場にばらす」

といって脅迫し ヨリをもどすように迫ったそうです。

 

しかし同性によるストーカー行為であったことから、Bさんの側が"事実が世間に知られること"に対する極端な恐怖感を抱き 最初の段階でHELPのサインを出しにくかったのではないか?という印象があります。

 

山形の火災直後、Bさんは警察に対し

「自分はストーカー行為に遭っていた」

と相談していたそうです。

しかし、結果的にAが逮捕されたのは Cさんの母親が殺害された1年後。

未然に防げぬまま同様の事件が繰り返されてしまったわけです。

 

今から16年前の2000年に

「ストーカー行為等の規制等に関する法律(ストーカー規制法)」が制定されました。

 

これによると ストーカーとは

 

「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する」ことを目的とする行為であり、ストーカー行為の相手方(被害者)は「当該特定の者又はその配偶者、直系若しくは同居の親族その他当該特定の者と社会生活において密接な関係を有する者」

 

と定義されています。

ストーカー行為の相手方が異性と限定されているわけではないので 関係がゲイ同士であっても もちろんこの法律は適用されるわけです。

 

ただし たとえ法律が整備されていても 一般に広く知られていない可能性は高いです。

たとえば、法律で規定されている保護の対象は被害を受けている本人だけでなくその家族や勤務先の同僚、上司、本人の交友関係(恋人など)も含まれているのですが、こうした事実が広く認知されているとはまだ言いがたい状況なのではないか、と思います。

 

また、実質的な相談窓口としては警察になるので、その際に自分たちの間柄をきちんと伝えたうえで対処してもらうことも必須になります。

性的なニュアンスがバレると困る、などの理由からどうしても相談しにくい場合には 弁護士などの代理人に相談し、法的な手続きをとってもらうことも可能ではないか、と思います。

 

このように 救済のための制度はあっても、イザ というとき うまく情報網にアクセスできるかどうかで 結果に大きな違いが生まれます。

 

窓口の対応者がセクシャルマイノリティに対して一定の理解を示していることが前提になりますし、その部分にネックを感じている人々もいるかも知れません。

確かに 全国的レベルで理解の促進をさらに進めていくようにな働きかけを行うことも大切ですが、同時に被害者の側も "自分は正当な手続きを踏んで相談を受ける権利がある"という意識をふだんから携帯し、情報をインプットしておく習慣を身につけておくことが大切だと感じます。 

そうでなければ どんなにシステムを整備したところで 有効に役立たないからです。

 

Aのような凶悪殺人までにエスカレートしなくても、現カレから暴力を振るわれる、あるいは金銭的な恐喝をされている、元カレからストーカーされている....というようなゲイの話は 僕の身近でも 時々 聞きます。

その意味でも この事件が"たんなる異常なサイコパスがいて たまたまゲイだっただけである"と片付けてしまう意見には 「え?」 と思わざるを得ないのです。

 

② 当事者の片方が既婚者であった

 

Aには 法律上の妻が存在していました。

この女性(Dと表記)は 最初から偽装結婚を承諾してAとの戸籍を入れています。

理由は分かりませんが、経済的な面を含め 当人同士がお互いの"世間体"を気にして踏み切った、という部分もあるのかも知れません。

 

Dの証言によると、そもそも結婚の申し込みじたいが Aからの申し出だったそうです。

「籍を入れるのを断ったらぶっ殺す」というような脅迫をAから受けていたらしく 恐ろしさのあまり すべての行動をAの言うなりにされ 操られていた、という見方もできます。

 

しかし、江東区の事件では DはAと共犯関係にあり Aの新しい恋人Cさんの母親を監禁し、殺害したあとで火を放ち、証拠の隠蔽を図っています。

非常に残忍に犯行ですが なぜDはAと共謀したのか?

やはりこちらも"脅し"に屈した結果だったのでしょうか?

 

公判中の証人尋問で Aは

「僕の言うことは絶対で 妻は協力を断ることはできなかった」

と Dをかばう言動をしています。

しかし AがそこまでDに深い愛情を示しているなら なぜ 彼女を凶悪犯罪に巻き込んでしまったのか?という点が不思議でなりません。

もしかすると2人の間には、ある種の"共依存的な構造"が生まれていたのかもしれません。

 

あるいは自分の非を認め、情状酌量による減刑請願も意識しての発言だったのか?

 

最終的に 共犯者Dは懲役18年の刑が確定しましたから Aとの結婚により 自分の運命が大きく変わってしまったことは確かです....

 

さて

 

 "女性と同居しているゲイ"という存在は 珍しい存在なのでしょうか?

 

僕の周囲でも それなりに聞きます。

そうした背景があればこそ 『偽装の夫婦』 というようなテレビドラマが製作されたりもするのでしょう。

 

自分の都合を優先させた 書面上だけの関係。

規制のルールにしばられない自由な共同生活、というイメージに憧れをもつ人も多いでしょうが 人間の感情は複雑に入り組んでいる、ということも 忘れてはならないと思います。

互いへの愛情が嫉妬に変わったり 経済的な理由などによっても憎悪を抱いたり、など 予想外の展開になる可能性は 充分にありえるからです。

 

今回の事件では加害者が既婚、被害者が未婚、というケースでしたが 既婚であるという点をネタに脅迫やゆすり、ストーカー行為に発展するとしたら 逆パターンの被害者→既婚、加害者→未婚 というケースも 当然ながら想定できます。

 

ましてや、そこに"3人目"が割り込んできたりしたなら...

..

関係が2人から3人になれば よりややこしく 隠さなければならない秘密が増えてくるのは 当然の流れだろうと思います。

同じ屋根の下、それぞれの利害を抱えている男、女、男(あるいは 男、男、男)....の3人が暮らす、ということに対して"何が起こるかわからない"というなんらかのリスクは 想定しておくべきではないでしょうか。

 

③ 被告、原告の双方が同じ"秘密”を共有し そのつながりで親しくなった

 

AがBさん、Cさんの交際相手2人にストーカー行為を働いたのは もちろん 相手に対する未練が断ち切れなかった、ということが ベースにあったのでしょう。

一方で 度重なる暴力など身勝手な振る舞いを続けたことで 相手が自分から遠ざかってしまったのだ という事実には気がつかないままであった という幼稚性も垣間見えます。

自分にとっては愛情を注いでいるつもりでも 感情だけがエスカレートして.....

自分の行為が相手の迷惑になっていないかどうか....自分たちの先に待ち受けていることを 考えられなかったのでしょうか。

2つの事件に対する検察側の求刑が『死刑』だったのも、被告Aの"身勝手さ、非情さ"が大きく考慮された結果でしょう。

 

公判の最中、Aは

 

「ほんとうはゲイなんかに生まれたくなかった」

 

と 自己を否定するような発言をした、と言われています。

 

これが Aの"言葉通りの真実"であるとするなら......

 

自尊心の欠如(どうせ自分は価値のない人間なんで人生どうなったっていい)が 自暴自棄的思考(他人のことだってどうなろうが知ったこっちゃない という"やけっぱち"な価値観)につながり、Aを凶行に走らせる原因のひとつになった可能性は 大きいと思います。

 

自分の価値は 自分だからこそ理解できるのでしょう。

自分を守り、いつくしむ感情が育たなかったら 

人は うまく成長できないはずです。

 

本当の自分を愛する。 

これは 鏡の前の自分にウットリするよりも よっぽど重要なことです。

 

ましてや 他人にカムアウトしようと思うなら 

まずはその前に "現在の自分は 自分の存在をちゃんと認めているだろうか" という振り返りができているか をしっかり確認しなければいけないでしょう。

 

被害者のBさん、Cさんの立場も深刻です。

.自分の親がかつての交際相手に殺害された、という事実に 残りの人生の時間 向き合って生きていくことになってしまったわけで.....

 

ちょっとした好奇心から ”自分と同じ世界の住人の場所"に踏み込んでみた、けれど そこが自分の予想と遥かに異なった異次元であったことに気がついた。

しかし そのことをきちんと相談できる第三者が見つからないまま相手に引きずられ 精神的に追い詰められてしまったのではないか、と思うのです。 

Aとは違う意味で....自分たちの先に何が待っているのか 展開が読めなかったのでしょう。

 

山形の事件で Cさんはネット掲示板を通じてAと知り合った とも伝えられています。

 

スマホのアプリや掲示板で簡単に相手を見つけるのは たしかに 気軽で楽しいかも知れない。自由になった 開放された気持ちは ありますね。

 

同時に、どこのだれだかわからない怖さも否定できないし

得体の知れない恐怖感は 拭えない。

"同じなにかをシェアできている"という喜びだけで どんな場合でも良好な関係が築けるほど、人間同士のつながりは単純なものではないからです。

人と人とのコミュニケーションを考える上で こうしたあたりまえの事実を 頭の中にきちんと入れておくことは重要 と思います。 

 

 

 

6月13日(月)、最高裁小法廷で行われた上告審では、死刑回避を望むAの請求は却下され、最初の事件から5年を待たず 死刑が確定しました。

 

失われた人々の命は永遠に還らないし

また 死刑を宣告された被告の命を考えると なんとも言えない気分になります。

 

 

ベストセラー「五体不満足」の著者で 作家の乙武洋匡さんの"不倫"がメディアをにぎわせています。

乙武さん、といえば これまでにも数々の話題を提供してきました。
たとえば 障碍者の問題についてフォロワーと議論を白熱させたり、差別語の使い方をめぐってメディアの姿勢に異議をとなえたり、車椅子でレストランに入店しようとした件をネット上で告白したり...."炎上状態"が生み出されたことも 何度かありました。

そうした行動に対してはさまざまな意見が寄せられていますが、彼が一貫して投げかけていたメッセージは"障碍者の目線で感じた 社会のハードルの高さ"でした。

そのエネルギッシュな行動力ゆえに、乙武さん=世の中の不公平を訴えるマジメな人、というステレオタイプなイメージができあがってしまったため 乙武さん自身にとっては本意ではなかった部分があるのかも知れません。
一方で 人々の興味を引くような大胆な行動や発言をすることで 社会的な注目を集めようとしてきたフシもあります。

http://n-knuckles.com/serialization/yoshida/news002214.html


先日行われた自身の誕生パーティのスピーチで 乙武さんは

「周囲からは"障碍を乗り越えた乙武さん"と見られていたのかも知れないけど、実際には乗り越えられてはいなかったんだと思う」

という趣旨の発言をして 自身の一連の行動について謝罪した と伝えられています。

http://www.hochi.co.jp/topics/20160406-OHT1T50065.html


今回の件を メディアはさまざまに報じていますが...

"乗り越えられなかった"という告白は 切実な本音だろう と感じます。

さまざまなストレスを抱えながら、自分をコントロールしなければならない生活。
ましてや「五体不満足」が世に出たときはまだ大学生で若く いろいろと持ち上げられ ちやほやもされただろうし...
著書がベストセラーになって あっという間に有名人になってしまったために 日常生活が自分の意思とは無縁の方向へと進んでしまった、というのはあるんだろうな、と。

プライベートをさらけだして本を執筆し、TVや雑誌でビジネスをしていた方なので批判されても仕方ない部分はありますが、彼が上手に表現できなかった心の叫びはあったのでしょう。

本人の行動の是非はともかく、僕が興味を持ったのは 今回の"乙武さん問題"の広がりによって ふたつの現実が浮かび上がってきたように感じられたことでした。

ひとつは 障碍者と性(セックス) という...
これまで、どちらかと言えばそこには触れちゃいけない、タブー視されてきた問題が社会に投じられたこと。

乙武さんが意図していたかどうかは分かりませんが(たぶん、意図していたわけではないと思いますが)身体的な障碍を持っていたって 人間は人間、きれいごとではない欲望だってもっているのだ、という生々しさが あからさまになりました。

一方で、世論は 


"健常者には分からない苦労があるのかも知れない"


とか

"介護する人はずっと付きっきりなので なにか不測の事態が起こってしまうことだって もしかしたらありえるのでは?"

というような方向へは流れていかなかった。

ここが 2つ目のポイントです。

今回の騒動では 乙武さん=障碍者の代表 みたいにはみなされておらず、単なる個人的な問題として扱われている気がします。

すこし 話がそれますが....
"障碍者の性"の問題に熱心に取り組んでいる団体が、海外にも日本にも存在します。
(たとえば、日本では WHITEHANDS というグループがある)

"障碍者をめぐる恋愛と性"というのは 健常者には理解するのが難しく かつ 本人はもちろん 周囲でサポートする家族や友人、支援者にとっても非常に重要な問題です。

乙武さん自身、今回の騒動前から自分の精神的な未熟さを認めていましたし、謝罪のスピーチでも こういう状況に至ってしまった経緯を自らの口で語っていたようです。

今回の騒動は ぱっと見た限り 不倫がらみの単なるスキャンダルにとどまってしまった気がしますが、本当は もっと根の深い問題なのでは?
個人のスキャンダルネタにとどめるのではなく もっと多様な議論につながっても良かったのでは?という気もします。
なんてったって世間に顔が売れている方ではあるけれど よくTVや雑誌で見かける人 にとどまらず "いち障碍者”としての存在感を伝えるには いちばん身近で分かりやすい例だと思うので。

問題提起という点で言っても そもそも 乙武さんが目指していたことって そうしたリアルな視点に基づいて社会にメッセージを投げかけることではなかったのか、とも思えるし。

しかし 実際にはそうではなく 乙武さん自身の問題、個人の価値観の話として...
「清く正しく爽やかな人だと思っていたのに、サイテー」
「政治家への野心満々で オモテとウラの顔を使い分けている」
的なレベルの話で収束してしまっているような。

日本でいちばん有名な障碍者のイメージ、というアイコンを一身に背負っていた乙武さんにとって、皮肉にも「障碍者」ではなく「有名人」という部分で非難され(本人も自分の非を認めて丁寧に謝罪していることもあり) 結局 そこで終わりになってしまうのかな。


他の障碍者の人たちの反応がメディアを通じてあまり伝わってきていないようなので、その点も気にかかります。


参院選に出馬するのでは、という噂が本当だったのかどうか は分かりません。
ただし、例の子育て推進議員の辞職を例に出すまでもなく 政治家に必要とされる資質について モラル面が重視される傾向は高くなっています(特に日本では)。
その意味で (本人の希望とは裏腹に)クリーンなイメージの強かった乙武さんへは ダメージはかなり強く出た、のだと思う。
"この体で生まれてきたことに不便は感じていない"という趣旨のコメントを日頃から公言してきた乙武さんですから...
そういう主張に基づけば 人間性という部分でも差別なく公平に評価されるべき、と感じた方が多かった、ということなのでしょう。


障碍者と呼ばれる人たちが世の中に出る大きなきっかけを作ったのは 乙武さんの力によるところが大きいと思います。これは間違いないです。
車椅子に座って 堂々とした態度でバラエティ番組に出てタレントさんたちと渡り合って冗談を言い合うような人は 少なくても乙武さん以前には ほぼ皆無だった。

ただし、誰もが特別な存在ではなく、当たり前に社会に生きている存在である という意識が人々に浸透すればするほど その人たちにも いわゆる"一般的な 社会常識"が当てはめられやすくなるのではないか と思うのです。

"オレだって大変なんだも~ん いろいろあんだも~ん 大目に見てほしいよね"

という個別の事情が単純には通用しにくくなり

"自己主張する以上は 甘ったれるんじゃないよ。大変なのはお前だけじゃない"

という流れになりつつある世の中である ということです。

そして 障碍者に対する環境が改善され、世間の関心が増えれば増えるほど こうした傾向は強くなっていくのでは?と感じています。


僕が子供のころには 障碍者は今よりもずっと社会の中で隠れた存在でした。
言葉は悪いけれども "可哀想なひと" というイメージが強くつきまとっていて たとえ なにかが起こったとしてもアンタッチャブルに済ませた。
腫れ物に触るような、という表現がありますが 周囲の人たちも見て見ぬ振りをしていました。

現代の身体障碍者はそういった日陰の存在から、堂々と外へ出るようなイメージへと変わってきています。
特別な人たち 感が薄れてきているのは もちろん良いことだ と思います。

反面 社会通念、というか 一般的なモラルや常識を要求される傾向がいっそう強くなってきているようにも感じます。

そのためにも "障碍者"は"健常者"のものの見方、価値観をもっと学習したり理解する努力をするべきだし、"健常者"も 自分にかかわりがない問題は無関係な問題だ、と済ませず、"障碍者"と一緒に生きていく世界を築くため 何が必要なのかを考える機会がもっとあっていい。


性的な対象に男性があり HIVポジティブであり「障害者認定」を受けている自分にとって いろいろと考えさせられる問題でした。 

  



あるAIDS患者が体験した実話を基にした「ダラス・バイヤーズクラブ」は、これまでのAIDSやHIVをテーマにした映画とは異なった視点で作られており、大変にユニークな作品でした。

HIVの感染者にゲイ(男性同性愛者)や注射針を介した薬物使用者が多い、という事実は世界的に知られています。
しかし、「ダラス・バイヤーズクラブ」(以下DBCと略)の主人公ロン・ウッドルーフ(演じるのはマシュー・マコノヒー)の性的嗜好はゲイではなくストレート。薬物常用者ではあるけれども、静脈への注射は拒絶する人物です。
性的にも奔放でギャンブルに明け暮れる自堕落な生活がやめられないが、いつかは身の破滅がおとずれる可能性があるかも という自覚はまるでなさそうな感じの男。
”オレはホモじゃねえし、クスリはやるが注射じゃねえから エイズなんて関係ねえ~”と信じて疑わない男に、ある日突然AIDSの現実がふりかかる、という展開です。
従来、HIVやAIDSを扱った多くの映画が ”いつの時代でも、虐げられるのはゲイや女性、薬物依存者、セックスワーカーなどの社会的弱者だ”という…ウェットでステレオタイプとも思えるメッセージを発していたのに対し、「DBC」が描く主人公は現実的でドライな人物であり、そこがとてもフレッシュに感じられました。
セックス狂でギャンブル&ヤク中のロンは、一見して非常に特異な存在に思えますが、実はわれわれの周囲にどこにでもいる身近な存在ではないか、という気もします。現代は 自己の存在を特別視したり、欲におぼれて身近に迫ったさまざまなリスクに気がつきにくい環境がいっぱい。ロンのキャラクターの一部分は われわれ現代人なら だれもが(ほんのちょっとずつでも)共有しているものかもしれません。

アメリカのテキサス州ダラス、という 政治的にも思想的にも保守的(カトリック信者、共和党支持者が多い)な、伝統的な”男社会”の大都会を舞台にストーリーが展開されている点にも興味をそそられるものがありました。
映画の冒頭、ロデオショーの後で男たちが集まり、映画スター ロック・ハドソンの死についてうわさ話をするシーンがあります。ロック・ハドソンはAIDSを発症して亡くなったハリウッドスターのひとりですが、テキサスの石油王を描いた名作「ジャイアンツ」の主役として広く知られ、アメリカを代表するハンサムと認識されていました。
マチズム(筋肉フェチではなく、男性優位なものの考え方をしがちな 本当の意味でのマッチョ志向)を備えた男たちにあふれるテキサスでは、当然ながら同性愛は明らさまな侮蔑や誹謗の対象。自由の国アメリカといえど、ニューヨークやサンフランシスコとはまったくの別世界であり、ロック・ハドソンが当時”地に堕ちたアメリカン・アイドル”として嘲笑の対象になっていたことは、容易に想像できます。
HIV感染を告げられるまでのロンも その大多数の”強い男たち”の中のひとりを自負していたわけですが、そんな彼がAIDSの発症を機に”自分もマイノリティに組み込まれた”という現実に直面し、その体験を通じて アメリカという"約束された社会"を見る視線を徐々に変えていくのです。
”いい年をして幼稚で低俗な男”が、それまで”自分とは無関係”だと思っていた種類の人たちとの接触を強いられ、ときに衝突し、次第に理解や共感を芽生えさせながら社会のなかにはびこる矛盾と闘い(それまで無意識のうちに損なわれていた)”人間としての尊厳”を取り戻していくまでの自己再生の物語になっていて、そこが「DBC」のいちばんの見どころ と言えるでしょう。
映画化の構想から実現までに20数年が費やされているそうですが、性的マイノリティへの理解をメッセージに打ち出しているオバマ政権下だからこそ達成できたプロジェクト、ということは言えるかもしれません。

すべては”少しでも長く生き延びるため”。
ロンは、当時治験中だったHIVの新薬、AZTを不法な手段で手に入れることもためらいませんでした。しかしAZTに毒性の強い副作用が潜んでいることを知った彼は、やがてHIV患者を診察する病院の医師たちや 新薬の販売認可権をもつFDAへの不信をつのらせていきます。
一方で、"世の中には自分と同じようなAIDS患者が大勢いるんだから、ヤツらを金づるにしないテはない”とばかりに 自ら世界中を駆け回ってHIVの治療に効果がありそうな医薬品やサプリメントをかき集め、会員制で限定販売する商売を始める、のが 第2章のはじまりです。

「DBC」の脚本はクレイグ・ボーテンとメリッサ・ウォーラックが共同で執筆していますが、地元の新聞「ダラス・モーニング・ニュース」に掲載された実在のロンへのインタビュー記事を基に構成されていて、医療機関やFDA、AZTへの評価はあくまでロンの主観にのみ基づいて描かれています。
この映画を観る上でそれは大変に重要で、注意を払わなければならないポイントです。

たとえば、「DBC」でのAZTは”毒性の強い効果のない薬で、患者に投与するのは人殺しのようなもの”という観点からでしか描かれません。
世界初のHIV治療薬としてFDA認可されたAZTに副作用が多かったことは周知の事実であり、また単剤での使用では耐性ウィルスを発生させやすかったのも本当です。
しかし当時はそこまでの段階に到達できただけでも画期的な進歩で、実際のところ、AZTによって延命することができた人たちが世界中にたくさん存在したことは、25年以上たった現在、世界的にもっと評価され 記憶に残されていいと思います。にも関わらず、「DBC」ではAZTがまるで意図的な垂れ流しで流通させられ、あたかも当時の医療者たちの多くが欺瞞に満ちていたように描かれているため 映画を見た多くの人がAZTに対して否定的な印象を抱きかねません。
HIVの患者である私の目から見ると こうした偏った描き方はたいへんに不快で、かつ不満が残ります。

治験は人体への最低限の安全性を確認するためにきわめて重要な意味を持っており、治験をクリアしない段階で不特定多数の患者へ提供されることはありえません。劇中のロンはAZTを徹底的にバッシングしていますが、逆に彼が”推奨”していた「ペプチドT(DAPTA)」は、1990年代前半に抗HIV効果が期待されながらテスト段階でプラセボ群との有意差が認められなかったため 結果的にHIV治療薬としての研究を中断している経緯があります。
実話をベースに映画化しているわけですから、AZTを一方的に断ずるならば映画のどこかでその点にきちんと触れておくべきだったのでは、という疑問は拭えません。
(もうひとつ 映画の中でロンが訪日し、日本企業に薬剤の提供を乞うシーンが登場しますが、この日本のスケッチ描写もハゲしく時代錯誤を起こしていて、ホテル室内の珍インテリアなど失笑させられました。偶然ですが、マシューの初期出演作のSF「コンタクト」にも、ジャパンをめぐる似たようなトンデモ描写があるんですよね)

細部にはこうした欠陥がいくつか認められる「DBC」ですが、それが映画としての魅力を損なわせているわけではありません。トータルで見れば非常に巧みな構成で仕上げられた作品で、秀逸な印象を残します。
しっかり練り上げられた脚本と ドラマティックな描写を避けた演出(監督はジャン・マルク・ヴァレ)、主役のマシューを支える共演のジャレッド・レト(ロンのビジネス仲間でトランスジェンダー役)、ジェニファー・ガーナー(ロンの主治医役)のアンサンブルが功を奏しているからです。
マシューもジャレットも”アウトロー”的な役どころながら、オーバーアクションな演技に陥らず 激痩せや女装といった外見的変化の大きさとは対照的な 心に闇を抱えた人間の心理をデリカシーを配慮して浮かび上がらせています。実在の(もしくはそれをモデルとした)人物を演じる、ということも影響しているのでしょうが、なんというか、演じ方に対象への敬意があるんですね。今までになく”女っぽい”ジェニファーのキャラクター表現も 繊細で共感が持てました。
映画が企画された最初の段階では、ロン役にウディ・ハレルソンが検討され、監督候補にデニス・ホッパー(!)が考えられていたそうです。その後、ブラッド・ピットやライアン・ゴスリングも候補に上がったものの、最終的にはマシューへオファーが回ってきました。
20kgの減量という話題のみクローズアップして取り上げられがちですが、静かな動きの中でさまざまな表情を淡く浮かび上がらせるマシューの演技は秀でており、オスカーを獲る価値は充分です。
自身がテキサス州の出身で、大学時代はアメフト選手として鳴らしたというマシュー。これまでの出演作を見ても肉体美を売りものにした作品など、マッチョなイメージでアピールしてきた俳優です。スターとしてマイナスイメージの役を引き受けるのはかなりリスキーな選択だったはずで、今までの彼の売り物であった健康な体を痛めつけ、封じ込めながらみごとに周囲の期待に応えました。軽薄なイメージが強かったせいもあり、こんなに気骨ある勇敢な役者だったのか、と見違えてしまったくらい。
撮影日数がわずか1ヶ月足らず、というのも驚異的です。俳優陣はよほど集中して毎日演技に取り組んだのでしょうが、その努力は大きく実っていると感じました。
(追記:3月2日<日本時間では3日>に発表された第82回アカデミー賞授賞式で、マシューは最優秀主演男優賞、ジャレッドは最優秀助演男優賞を獲得しました。Congrats!)

映画の中盤で、ロンが主治医の女医をディナーに誘うシーンがあります。
自分の母親が描いた絵をプレゼントし、ワインで乾杯するふたり。
つかの間、ほっと心がなごむシーンです。

「いままでに、フツーの生活が恋しくなったとはある?」
と尋ねるロンに、
「普通?それはどういう意味?普通の生活なんて もともとどこにもないものじゃないかしら?」
と答える女医。

「冷えたビールに、もう一回ロデオをやってみる。
恋人をダンスに連れてくとか…そういう、普通の生活。
子供もほしいかな。人生は一回勝負だから。でも」
「でも?」
「たまに 他の人の人生が欲しくなるんだ。
オレは今、がむしゃらに戦っているよね。
けど、オレの人生は残りわずか。
いま この瞬間を生きてる ってことに なんかの意味を持たせたいのさ」
「意味はあるわよ」

たくさんの種類のHIV治療薬を手にすることができる今、ロンと同じような考え方をする人はずいぶん少なくなったのかもしれませんし、もちろん、それは喜ばしいことでしょう。
しかし 人間はもともとひとりひとり孤独で、己の死期を宣告されていようと 豊かで恵まれた生活を送っていようと 心のどこかで自分の残り時間を考えている生き物なのでは?
HIVに限らず、どんな病気であろうとなかろうと それは変わらないでしょう。
映画を通じ ロンは 今を生きているわれわれひとりひとりに"真実"を問いかけているのでは と、そんな気がしました。

(映画「ダラス・バイヤーズクラブ」
2013年2月22日より全国ロードショー公開中)
http://www.finefilms.co.jp/dallas/