「ダラス・バイヤーズクラブ」 | Gaydar !

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HIV+です。ゲイです。それ以外の自分って...なあに?(笑)

あるAIDS患者が体験した実話を基にした「ダラス・バイヤーズクラブ」は、これまでのAIDSやHIVをテーマにした映画とは異なった視点で作られており、大変にユニークな作品でした。

HIVの感染者にゲイ(男性同性愛者)や注射針を介した薬物使用者が多い、という事実は世界的に知られています。
しかし、「ダラス・バイヤーズクラブ」(以下DBCと略)の主人公ロン・ウッドルーフ(演じるのはマシュー・マコノヒー)の性的嗜好はゲイではなくストレート。薬物常用者ではあるけれども、静脈への注射は拒絶する人物です。
性的にも奔放でギャンブルに明け暮れる自堕落な生活がやめられないが、いつかは身の破滅がおとずれる可能性があるかも という自覚はまるでなさそうな感じの男。
”オレはホモじゃねえし、クスリはやるが注射じゃねえから エイズなんて関係ねえ~”と信じて疑わない男に、ある日突然AIDSの現実がふりかかる、という展開です。
従来、HIVやAIDSを扱った多くの映画が ”いつの時代でも、虐げられるのはゲイや女性、薬物依存者、セックスワーカーなどの社会的弱者だ”という…ウェットでステレオタイプとも思えるメッセージを発していたのに対し、「DBC」が描く主人公は現実的でドライな人物であり、そこがとてもフレッシュに感じられました。
セックス狂でギャンブル&ヤク中のロンは、一見して非常に特異な存在に思えますが、実はわれわれの周囲にどこにでもいる身近な存在ではないか、という気もします。現代は 自己の存在を特別視したり、欲におぼれて身近に迫ったさまざまなリスクに気がつきにくい環境がいっぱい。ロンのキャラクターの一部分は われわれ現代人なら だれもが(ほんのちょっとずつでも)共有しているものかもしれません。

アメリカのテキサス州ダラス、という 政治的にも思想的にも保守的(カトリック信者、共和党支持者が多い)な、伝統的な”男社会”の大都会を舞台にストーリーが展開されている点にも興味をそそられるものがありました。
映画の冒頭、ロデオショーの後で男たちが集まり、映画スター ロック・ハドソンの死についてうわさ話をするシーンがあります。ロック・ハドソンはAIDSを発症して亡くなったハリウッドスターのひとりですが、テキサスの石油王を描いた名作「ジャイアンツ」の主役として広く知られ、アメリカを代表するハンサムと認識されていました。
マチズム(筋肉フェチではなく、男性優位なものの考え方をしがちな 本当の意味でのマッチョ志向)を備えた男たちにあふれるテキサスでは、当然ながら同性愛は明らさまな侮蔑や誹謗の対象。自由の国アメリカといえど、ニューヨークやサンフランシスコとはまったくの別世界であり、ロック・ハドソンが当時”地に堕ちたアメリカン・アイドル”として嘲笑の対象になっていたことは、容易に想像できます。
HIV感染を告げられるまでのロンも その大多数の”強い男たち”の中のひとりを自負していたわけですが、そんな彼がAIDSの発症を機に”自分もマイノリティに組み込まれた”という現実に直面し、その体験を通じて アメリカという"約束された社会"を見る視線を徐々に変えていくのです。
”いい年をして幼稚で低俗な男”が、それまで”自分とは無関係”だと思っていた種類の人たちとの接触を強いられ、ときに衝突し、次第に理解や共感を芽生えさせながら社会のなかにはびこる矛盾と闘い(それまで無意識のうちに損なわれていた)”人間としての尊厳”を取り戻していくまでの自己再生の物語になっていて、そこが「DBC」のいちばんの見どころ と言えるでしょう。
映画化の構想から実現までに20数年が費やされているそうですが、性的マイノリティへの理解をメッセージに打ち出しているオバマ政権下だからこそ達成できたプロジェクト、ということは言えるかもしれません。

すべては”少しでも長く生き延びるため”。
ロンは、当時治験中だったHIVの新薬、AZTを不法な手段で手に入れることもためらいませんでした。しかしAZTに毒性の強い副作用が潜んでいることを知った彼は、やがてHIV患者を診察する病院の医師たちや 新薬の販売認可権をもつFDAへの不信をつのらせていきます。
一方で、"世の中には自分と同じようなAIDS患者が大勢いるんだから、ヤツらを金づるにしないテはない”とばかりに 自ら世界中を駆け回ってHIVの治療に効果がありそうな医薬品やサプリメントをかき集め、会員制で限定販売する商売を始める、のが 第2章のはじまりです。

「DBC」の脚本はクレイグ・ボーテンとメリッサ・ウォーラックが共同で執筆していますが、地元の新聞「ダラス・モーニング・ニュース」に掲載された実在のロンへのインタビュー記事を基に構成されていて、医療機関やFDA、AZTへの評価はあくまでロンの主観にのみ基づいて描かれています。
この映画を観る上でそれは大変に重要で、注意を払わなければならないポイントです。

たとえば、「DBC」でのAZTは”毒性の強い効果のない薬で、患者に投与するのは人殺しのようなもの”という観点からでしか描かれません。
世界初のHIV治療薬としてFDA認可されたAZTに副作用が多かったことは周知の事実であり、また単剤での使用では耐性ウィルスを発生させやすかったのも本当です。
しかし当時はそこまでの段階に到達できただけでも画期的な進歩で、実際のところ、AZTによって延命することができた人たちが世界中にたくさん存在したことは、25年以上たった現在、世界的にもっと評価され 記憶に残されていいと思います。にも関わらず、「DBC」ではAZTがまるで意図的な垂れ流しで流通させられ、あたかも当時の医療者たちの多くが欺瞞に満ちていたように描かれているため 映画を見た多くの人がAZTに対して否定的な印象を抱きかねません。
HIVの患者である私の目から見ると こうした偏った描き方はたいへんに不快で、かつ不満が残ります。

治験は人体への最低限の安全性を確認するためにきわめて重要な意味を持っており、治験をクリアしない段階で不特定多数の患者へ提供されることはありえません。劇中のロンはAZTを徹底的にバッシングしていますが、逆に彼が”推奨”していた「ペプチドT(DAPTA)」は、1990年代前半に抗HIV効果が期待されながらテスト段階でプラセボ群との有意差が認められなかったため 結果的にHIV治療薬としての研究を中断している経緯があります。
実話をベースに映画化しているわけですから、AZTを一方的に断ずるならば映画のどこかでその点にきちんと触れておくべきだったのでは、という疑問は拭えません。
(もうひとつ 映画の中でロンが訪日し、日本企業に薬剤の提供を乞うシーンが登場しますが、この日本のスケッチ描写もハゲしく時代錯誤を起こしていて、ホテル室内の珍インテリアなど失笑させられました。偶然ですが、マシューの初期出演作のSF「コンタクト」にも、ジャパンをめぐる似たようなトンデモ描写があるんですよね)

細部にはこうした欠陥がいくつか認められる「DBC」ですが、それが映画としての魅力を損なわせているわけではありません。トータルで見れば非常に巧みな構成で仕上げられた作品で、秀逸な印象を残します。
しっかり練り上げられた脚本と ドラマティックな描写を避けた演出(監督はジャン・マルク・ヴァレ)、主役のマシューを支える共演のジャレッド・レト(ロンのビジネス仲間でトランスジェンダー役)、ジェニファー・ガーナー(ロンの主治医役)のアンサンブルが功を奏しているからです。
マシューもジャレットも”アウトロー”的な役どころながら、オーバーアクションな演技に陥らず 激痩せや女装といった外見的変化の大きさとは対照的な 心に闇を抱えた人間の心理をデリカシーを配慮して浮かび上がらせています。実在の(もしくはそれをモデルとした)人物を演じる、ということも影響しているのでしょうが、なんというか、演じ方に対象への敬意があるんですね。今までになく”女っぽい”ジェニファーのキャラクター表現も 繊細で共感が持てました。
映画が企画された最初の段階では、ロン役にウディ・ハレルソンが検討され、監督候補にデニス・ホッパー(!)が考えられていたそうです。その後、ブラッド・ピットやライアン・ゴスリングも候補に上がったものの、最終的にはマシューへオファーが回ってきました。
20kgの減量という話題のみクローズアップして取り上げられがちですが、静かな動きの中でさまざまな表情を淡く浮かび上がらせるマシューの演技は秀でており、オスカーを獲る価値は充分です。
自身がテキサス州の出身で、大学時代はアメフト選手として鳴らしたというマシュー。これまでの出演作を見ても肉体美を売りものにした作品など、マッチョなイメージでアピールしてきた俳優です。スターとしてマイナスイメージの役を引き受けるのはかなりリスキーな選択だったはずで、今までの彼の売り物であった健康な体を痛めつけ、封じ込めながらみごとに周囲の期待に応えました。軽薄なイメージが強かったせいもあり、こんなに気骨ある勇敢な役者だったのか、と見違えてしまったくらい。
撮影日数がわずか1ヶ月足らず、というのも驚異的です。俳優陣はよほど集中して毎日演技に取り組んだのでしょうが、その努力は大きく実っていると感じました。
(追記:3月2日<日本時間では3日>に発表された第82回アカデミー賞授賞式で、マシューは最優秀主演男優賞、ジャレッドは最優秀助演男優賞を獲得しました。Congrats!)

映画の中盤で、ロンが主治医の女医をディナーに誘うシーンがあります。
自分の母親が描いた絵をプレゼントし、ワインで乾杯するふたり。
つかの間、ほっと心がなごむシーンです。

「いままでに、フツーの生活が恋しくなったとはある?」
と尋ねるロンに、
「普通?それはどういう意味?普通の生活なんて もともとどこにもないものじゃないかしら?」
と答える女医。

「冷えたビールに、もう一回ロデオをやってみる。
恋人をダンスに連れてくとか…そういう、普通の生活。
子供もほしいかな。人生は一回勝負だから。でも」
「でも?」
「たまに 他の人の人生が欲しくなるんだ。
オレは今、がむしゃらに戦っているよね。
けど、オレの人生は残りわずか。
いま この瞬間を生きてる ってことに なんかの意味を持たせたいのさ」
「意味はあるわよ」

たくさんの種類のHIV治療薬を手にすることができる今、ロンと同じような考え方をする人はずいぶん少なくなったのかもしれませんし、もちろん、それは喜ばしいことでしょう。
しかし 人間はもともとひとりひとり孤独で、己の死期を宣告されていようと 豊かで恵まれた生活を送っていようと 心のどこかで自分の残り時間を考えている生き物なのでは?
HIVに限らず、どんな病気であろうとなかろうと それは変わらないでしょう。
映画を通じ ロンは 今を生きているわれわれひとりひとりに"真実"を問いかけているのでは と、そんな気がしました。

(映画「ダラス・バイヤーズクラブ」
2013年2月22日より全国ロードショー公開中)
http://www.finefilms.co.jp/dallas/