乙武さん、といえば これまでにも数々の話題を提供してきました。
たとえば 障碍者の問題についてフォロワーと議論を白熱させたり、差別語の使い方をめぐってメディアの姿勢に異議をとなえたり、車椅子でレストランに入店しようとした件をネット上で告白したり...."炎上状態"が生み出されたことも 何度かありました。
そうした行動に対してはさまざまな意見が寄せられていますが、彼が一貫して投げかけていたメッセージは"障碍者の目線で感じた 社会のハードルの高さ"でした。
そのエネルギッシュな行動力ゆえに、乙武さん=世の中の不公平を訴えるマジメな人、というステレオタイプなイメージができあがってしまったため 乙武さん自身にとっては本意ではなかった部分があるのかも知れません。
一方で 人々の興味を引くような大胆な行動や発言をすることで 社会的な注目を集めようとしてきたフシもあります。
http://n-knuckles.com/serialization/yoshida/news002214.html
先日行われた自身の誕生パーティのスピーチで 乙武さんは
「周囲からは"障碍を乗り越えた乙武さん"と見られていたのかも知れないけど、実際には乗り越えられてはいなかったんだと思う」
という趣旨の発言をして 自身の一連の行動について謝罪した と伝えられています。
http://www.hochi.co.jp/topics/20160406-OHT1T50065.html
今回の件を メディアはさまざまに報じていますが...
"乗り越えられなかった"という告白は 切実な本音だろう と感じます。
さまざまなストレスを抱えながら、自分をコントロールしなければならない生活。
ましてや「五体不満足」が世に出たときはまだ大学生で若く いろいろと持ち上げられ ちやほやもされただろうし...
著書がベストセラーになって あっという間に有名人になってしまったために 日常生活が自分の意思とは無縁の方向へと進んでしまった、というのはあるんだろうな、と。
プライベートをさらけだして本を執筆し、TVや雑誌でビジネスをしていた方なので批判されても仕方ない部分はありますが、彼が上手に表現できなかった心の叫びはあったのでしょう。
本人の行動の是非はともかく、僕が興味を持ったのは 今回の"乙武さん問題"の広がりによって ふたつの現実が浮かび上がってきたように感じられたことでした。
ひとつは 障碍者と性(セックス) という...
これまで、どちらかと言えばそこには触れちゃいけない、タブー視されてきた問題が社会に投じられたこと。
乙武さんが意図していたかどうかは分かりませんが(たぶん、意図していたわけではないと思いますが)身体的な障碍を持っていたって 人間は人間、きれいごとではない欲望だってもっているのだ、という生々しさが あからさまになりました。
一方で、世論は
"健常者には分からない苦労があるのかも知れない"
とか
"介護する人はずっと付きっきりなので なにか不測の事態が起こってしまうことだって もしかしたらありえるのでは?"
というような方向へは流れていかなかった。
ここが 2つ目のポイントです。
今回の騒動では 乙武さん=障碍者の代表 みたいにはみなされておらず、単なる個人的な問題として扱われている気がします。
すこし 話がそれますが....
"障碍者の性"の問題に熱心に取り組んでいる団体が、海外にも日本にも存在します。
(たとえば、日本では WHITEHANDS というグループがある)
"障碍者をめぐる恋愛と性"というのは 健常者には理解するのが難しく かつ 本人はもちろん 周囲でサポートする家族や友人、支援者にとっても非常に重要な問題です。
乙武さん自身、今回の騒動前から自分の精神的な未熟さを認めていましたし、謝罪のスピーチでも こういう状況に至ってしまった経緯を自らの口で語っていたようです。
今回の騒動は ぱっと見た限り 不倫がらみの単なるスキャンダルにとどまってしまった気がしますが、本当は もっと根の深い問題なのでは?
個人のスキャンダルネタにとどめるのではなく もっと多様な議論につながっても良かったのでは?という気もします。
なんてったって世間に顔が売れている方ではあるけれど よくTVや雑誌で見かける人 にとどまらず "いち障碍者”としての存在感を伝えるには いちばん身近で分かりやすい例だと思うので。
問題提起という点で言っても そもそも 乙武さんが目指していたことって そうしたリアルな視点に基づいて社会にメッセージを投げかけることではなかったのか、とも思えるし。
しかし 実際にはそうではなく 乙武さん自身の問題、個人の価値観の話として...
「清く正しく爽やかな人だと思っていたのに、サイテー」
「政治家への野心満々で オモテとウラの顔を使い分けている」
的なレベルの話で収束してしまっているような。
日本でいちばん有名な障碍者のイメージ、というアイコンを一身に背負っていた乙武さんにとって、皮肉にも「障碍者」ではなく「有名人」という部分で非難され(本人も自分の非を認めて丁寧に謝罪していることもあり) 結局 そこで終わりになってしまうのかな。
他の障碍者の人たちの反応がメディアを通じてあまり伝わってきていないようなので、その点も気にかかります。
参院選に出馬するのでは、という噂が本当だったのかどうか は分かりません。
ただし、例の子育て推進議員の辞職を例に出すまでもなく 政治家に必要とされる資質について モラル面が重視される傾向は高くなっています(特に日本では)。
その意味で (本人の希望とは裏腹に)クリーンなイメージの強かった乙武さんへは ダメージはかなり強く出た、のだと思う。
"この体で生まれてきたことに不便は感じていない"という趣旨のコメントを日頃から公言してきた乙武さんですから...
そういう主張に基づけば 人間性という部分でも差別なく公平に評価されるべき、と感じた方が多かった、ということなのでしょう。
障碍者と呼ばれる人たちが世の中に出る大きなきっかけを作ったのは 乙武さんの力によるところが大きいと思います。これは間違いないです。
車椅子に座って 堂々とした態度でバラエティ番組に出てタレントさんたちと渡り合って冗談を言い合うような人は 少なくても乙武さん以前には ほぼ皆無だった。
ただし、誰もが特別な存在ではなく、当たり前に社会に生きている存在である という意識が人々に浸透すればするほど その人たちにも いわゆる"一般的な 社会常識"が当てはめられやすくなるのではないか と思うのです。
"オレだって大変なんだも~ん いろいろあんだも~ん 大目に見てほしいよね"
という個別の事情が単純には通用しにくくなり
"自己主張する以上は 甘ったれるんじゃないよ。大変なのはお前だけじゃない"
という流れになりつつある世の中である ということです。
そして 障碍者に対する環境が改善され、世間の関心が増えれば増えるほど こうした傾向は強くなっていくのでは?と感じています。
僕が子供のころには 障碍者は今よりもずっと社会の中で隠れた存在でした。
言葉は悪いけれども "可哀想なひと" というイメージが強くつきまとっていて たとえ なにかが起こったとしてもアンタッチャブルに済ませた。
腫れ物に触るような、という表現がありますが 周囲の人たちも見て見ぬ振りをしていました。
現代の身体障碍者はそういった日陰の存在から、堂々と外へ出るようなイメージへと変わってきています。
特別な人たち 感が薄れてきているのは もちろん良いことだ と思います。
反面 社会通念、というか 一般的なモラルや常識を要求される傾向がいっそう強くなってきているようにも感じます。
そのためにも "障碍者"は"健常者"のものの見方、価値観をもっと学習したり理解する努力をするべきだし、"健常者"も 自分にかかわりがない問題は無関係な問題だ、と済ませず、"障碍者"と一緒に生きていく世界を築くため 何が必要なのかを考える機会がもっとあっていい。
性的な対象に男性があり HIVポジティブであり「障害者認定」を受けている自分にとって いろいろと考えさせられる問題でした。