「人は皆、無力」。
それはまぎれもない事実なんですけど、そんな事実が私を苦しめています。
ワタシを臆病にしています。
「自分って無力なんだ」と最も思い知らされたのは、母が病気になり、亡くなったときです。
あのときも、イヤというほど自分の無力さ、そして自分が何か、母の役に立つことがあったのか、そして母をずっと支えている父の役に立つことがあったのかということを考えて、本当に苦しみました。
また、10年ほど前、まだ大学を出たばかりの従妹が、うつ病を患って自ら命を絶ちました。
彼女とは家も近く、高校も同じだったため、よく顔を合わせることがありました。
でも、そんなにひどい状況だとは知らずにいたのです。
自分の無神経さがほとほとイヤになりました。
伯父や伯母に申し訳ないと感じていました。
いろいろいろいろと考えてみると、人が人を救うことなんて、できないんですね。
ひょっとして、支えるってことさえできないのかもしれません。
助けたいとか支えたいとか思うこと自体が、傲慢なのかもしれません。
母が亡くなったのも、従妹が亡くなったのも、当然私のせいではありません。
それは分かっています。
高校時代、実家の猫が病気になったとき、私は獣医になりたいと思いました。
その後、高校時代も、文系に進んだあとの大学時代も、ずっと医者になりたいと思っていました。
病気で苦しむ人や動物を、少しでも救うことができるのではないかと思っていたのです。
結局、獣医学部や医学部には、学力と金銭的な問題のため、進学できませんでした。
でも、大学を出た後、大学院に進学することを決めるときにも、それでもまだ、医学部に学士入学をしたいという気持ちがありました。
結局、両親から「子どもに2回も大学に通わせるほどのお金はない」と言われ、そりゃそうだと納得し、後戻りしないことに決めました。
でも、今でも「医者になりたかった」という気持ちはぬぐい切れません。
学部の時は、心理学を学びました。
高校時代に読んだこの本↓ (ダニエル・キイスのSFなんですけどね)にひどく感銘を受け、
精神疾患を持つ人のために働きたい、心理臨床の場面で働きたいと思ったのです。
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そのために、大学に進んでからは、心理学についていろいろと学びました。
勉強も一生懸命にやったし、読書もしました。
卒論も、自分のやりたいテーマについて、お金がかかるとか手間がかかるとかいうことを一切いとわず、日本各所の病院を廻りました。
(でも、決してマジメでよい学生ではありませんでした。今から思うと、本当に困った学生でもあったように思います。悪さもいっぱいしましたしね…)
でも結局、悩みを持つ人、疾患を持つ人を助けることなんてできないという現実にぶつかったのです。
しかも、きっと私は、人の役に立ちたいと思って仕事を選んだのに、職業では人を助けることなんてできないという現実に耐えられないかもしれないとも感じていました。
それは、私という人間の限界かもしれないし、心理学という学問の限界かもしれません。
いずれにしろ、専門知識を持って誰かの役に立ちたいと思った私は、やっぱり甘かったのでした。
これは、医者でも看護師でも宗教家でもカウンセラーでもなんでも同じなんでしょう。
人には命の限りがあり、運命があります。
それを人が専門知識を持って救うなんてことは、所詮無理なんです。
そんなこと、ちょっと考えればすぐに分かることなんですけど、学生時代の私は若かったんでしょうね。
それで、大学卒業後は、心理学とは違う道に進みました。
逃げかもしれないけれど、目の前の人を救えなかったときに辛い思いをするのが苦しいから、専門分野も変えました。
個人と向き合う仕事ではなく、もっと大局的に物事を見ることを求められる仕事だと思って、今の仕事に就きました。
でも、私が今就いている仕事は決してそんな一面的な仕事ではなく、やっぱり個人と向き合う側面を大きく持った仕事でした。
これもちょっと考えればすぐに分かることなのですが、あまりに私は考えてなさ過ぎでした。
低きに流れたとも言えるのかもしれません。
そんな私にさえ、自己嫌悪をしてしまっています。
(あぁ、私ってドツボにはまってますね)
今の仕事でも、目の前の人と面と向かい合って仕事をしています。
目の前の人は、健康な人や恵まれた環境にある人たちばかりではありません。
その人のそばにいる私は、その人のために何かできることがあるのではないかと思います。
その人を救うことができないだろうかと考えてしまいます。
それは、私個人としてではなく、職業として、ということなのですが…
(私にも生活や家族があるので、個人として最後までお付き合いすることができないため)
でも、やっぱり私にはできることはないんだという現実にぶつかっています。
私って無力。
これは辛い。
今まで知らなかったわけではないけれど。
むしろ、そんな経験ばかりしてきたのだけれど。
なんか、人生って大変ですね。
仕事って大変ですね。
そんなことは、以前から分かっていたのだけれど。
やっぱり現実問題としてぶつかると、本当に苦しくなります。
私は、自分では「人見知り」だと思っています。
でも、寂しがり屋のために、人と群れているのが好きです。
(一人でいることも好きですが)
しかし、目の前の人の役に立てない自分、目の前の人を苦しめてしまう自分、そして醜い心を持つ自分。
そんな自分にぶつかればぶつかるほど、他の人にとって「当たり障りのない人」になりたくて。
「当たり障りのない人」だったら他人様を振り回すこともなく、足をひっぱることもなく、傷つけることもなく、悲しませることもなく…。
そして、ワタシが目の前の人にとって「当たり障りのない人」であれば、目の前の人は、ワタシではない誰か「人の役に立てる人」を頼ることになるでしょう。
ワタシはそんな「当たり障りのない人」でいたほうが、目の前の人も救われるし、自分も楽なのではないかと考えてしまいます。
ワタシはよくしゃべるけれど、本心を言わないことが多いです。
「言わないと分かんないよ」とよく言われるけれど、正確には「言えない」のです。
だから、「不思議な人だ」といわれることも多々あります。
目の前の人と深い関係になるのが怖いのです。
目の前の人を救うことができない自分、
目の前の人に助けを求められても応えることができない自分。
だから、目の前の人に影響力を及ぼすようなことを言うのも怖いし、目の前の人の大切な人になるのも怖い。
何かあったときに頼られても、なにもできない自分であるというこが分かっているし、
そんな無力なワタシの意見で、流れが変わるのも怖いのです。
目の前の人が苦しんでいるときには、なにかしてあげたいと思うけれど、どうせなにもできないワタシ。
ワタシのまわりにはきっと、うっすらとバリアがあるかもしれません。
なんか、どうしたらいいのかさっぱり分からなくなりました。
でも、万能な人間なんて誰一人いないし、所詮人間皆誰でも同じならば、きっとワタシがおそれていることは、人間全員がおそれていることでしょう。
それに固執しているワタシは、本当に臆病でダメな人間なんでしょう。
それで、叱咤されることも多々あります。
また、職業上、どうしても目の前の人と向かい合うこともたくさんあります。
そういうときには、こちらが望もうが望まざるが、相手はワタシたちに救いを求めてきます。
おそれているヒマはない。
それも分かっています。
ダニエル・キイスが語る「思いやりなき知性は無意味」という言葉。
そんな言葉もワタシの心のなかにのしかかります。
「人を救うことができない自分」「役に立てない自分」を認めながら、誰かと深く付き合うとか、どうやってできるのかが分かりません。
職業上求められているのに、それに応えることのできない自分に、さらに嫌気がさします。
一人語りですみません。
なんか、今の気持ちを、ここに書いておかなきゃと思ったのです。
気分を害しましたら申し訳ありません。
ひょっとして、しばらくしたら削除するかもしれません。