こんな大荒れの冬は何年ぶりだろう
外は一寸先が真っ白なホワイトアウトの世界
窓からかすかに見える向かいの家は
横殴りの雪に時々かき消されてしまう
空のたいそうなご立腹は、ご機嫌になる様子もなく大荒れが続いた
そんな日に朝から出かける予定の自分は
空のご機嫌が治まるのを夕方まで大掃除をしながら待っていた
向かいの家がクリアに見えることを確認して
車を走らせる
辺りは吹きだまりだらけで
幹線道路ですら、車がすれ違うのがやっとの状態だ
なぜこんな日に出かけるのかというと・・・
親戚のお姉ちゃんが、究極入院したのだ
入院先は家から夏道なら15分の大学病院
たっぷり倍の30分以上かかって病院につく
不思議なことに、こういうときはさほど怖いと思わない
思わないのが良いのか悪いのかわからないが、怖がっていたら真冬の北海道では暮らせない
少し話しが逸れてしまったが、お姉ちゃんの入院生活に足りないものを手に、ダッシュで病院へ向かった
入院して数日たっていたからだろう
もう大分落ち着いた様子で
冗談のひとつも言える事に安堵の胸をなで下ろす
お姉ちゃんとのしばしの会話を楽しみ
病気は心配だけれども、病院に入っているのだから大丈夫だな・・・と、帰宅する
いつものようにシャワーを浴びている時
「ぽんっ」とあることが自分の中で繋がった
それはこんな事──────
お姉ちゃんの息子は自分と同じ感覚を持っている人物だ
お姉ちゃんのお母さん(自分にとっては大伯母)の夢を繰り返しみていた時期があった
同じ時期、大伯母の法事が行われた
自分はそこにいなかったのだが
大伯母の孫にあたるお姉ちゃんの息子は、亡くなっている大伯母と会話をし、話した事をみんなに伝えた
「おじいちゃんは用事があって今日はここにこれないからって、おばあちゃんが言っているよ・・・」
この話を聞いたときに、自分が繰り返し夢にみていたのは、本当に大伯母が自分の側に来てくれていたのだと確信した
それから半年ほど過ぎた先日────
お姉ちゃんが入院した直後、お姉ちゃんの息子がまた魂と遭遇した
「誰かわからないけれど心配して玄関に来ていたよ」
と話していたようだ
その話しを聞いて、すぐにそれは大伯母だと感じた
理由はない
でも、大伯母だという事は間違いないと変な自信があった
なぜなら
先日からファーの襟巻きをしている
それは遠い昔、大伯母が自分にくれたもので、
この襟巻きをなぜかずっと押し入れにしまい込んでいた
おそらく20年以上前に貰ったものだ
時々押し入れの中の不要なものを整理するのだが、なぜだかこのファーの襟巻きを捨てる事をしなかった
どんなに品物が良くても、使わないものは自分にとって価値のないものだと思っているが、
20年以上もの間、使わない襟巻きを大事にとっておいたのはなぜだろう
そして・・・・
1週間ほど前、急に用事もないのに押し入れを開け、ふと目にした襟巻きを取り出したのだった(襟巻きの存在などすっかり忘れてしまっていたし、なぜその時に押し入れを開けたのかもわからない)
20年以上使っていない襟巻きなのに、なんとなく
「使おうかな・・・」
という気持ちになり、すぐに手洗いをして20年以上の埃を落としたのだった
そして、それはお姉ちゃんが体調を崩した辺りの日でもあった─────
物事は全てが繫がっているのだと再確認した日であった
どんな事も自分にとって必要なこと
無駄な出来事など何もない
無駄な出逢いもひとつもない
全てが自分にとって意味のあることで
全てが自分にとって意味のある出逢いだということだ
そして、肉体から離れた魂は
今生の命が終わっても生きている────
子供の頃から繰り返し読んだ
手塚治虫の「火の鳥」の意味はこういう事だったのだろうか
永遠の命を探すことはしなくてもいい
人はもともと永遠の命を持っている───
そういうことなのかもしれないなぁ・・・・・・・・