彫刻を掘り出す作業(23/1/22) | 石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

石の上にも○○年~物書き志望女のひとりごと

日常で気になったことや、長い物書き志望歴で思ったことをランダムに綴ります。

中学生の頃だったと思う。

美術の授業で10×10×20センチくらいの木材に、自分の手首から先の像を彫ったことがある。

 

実寸大の、こぶしを握った手の形。

木材にどうやって下書きしてどういう手順でどっからどう彫ったのかはもう忘れてしまったが、出来上がったそれは、ちょっと気味悪いくらいリアルな、なかなかの傑作だったと自己満足。

 

そのときのことを今でも時々思い出す。

 

個人的に、物語を創っていることと似ている、と、折々に思うからである。

 

何もない真っ新なところからアイディアをストーリーに膨らませて構成、プロットを作る

=まっさらな木片への下書き。

 

プロットに沿った文章のベタ書き

=木片の下書きに沿ってざっと彫る。

 

読み直し、推敲

=粗削りな部分を深掘りしたりヤスリがけしたりで細かく整える。

 

そうして書きたい形(彫刻の場合は見本の「手」の形)に近づけていく。

 

まあ、こうした手順のようなことは後付け。

 

言いたいのは、書き上がった物語にちょっとした驚きを持つときがあるということ。どうしてこんな形で目の前に出現したのか、という。

 

アイディアの時点ではおぼろげだったその世界が、当初思い描いたものとは違った出来になったとしても、そういう物語が出来るべくして出来た。そう感じるときがたまにあって。

 

つまり、「手の彫刻」で言えば、ただの四角い木片を、自分自身が彫刻刀で彫って彫って指や手の甲なんかを作り出したわけなのだけど。

 

何というか、ただの直方体でしかなかった木片の中に、そのこぶしを握った手の形が元々内蔵されていて。それを掘り出した――「彫った」のではなく、「掘った」というだけのことなのではないか?

 

物語を創るときも、ときどきそういう感覚が起こる。

 

何もなかった真っ白な新規文書の中に、いろんな人のいろんな人生が展開し、事件が起こり、何らかの結末を迎える。

でも、そういう物語を創り出したつもりでいて、実はそれは元々そこに内蔵されていた。

それを、掘り出しただけなんじゃないんだろうか、と。

 

これは特に推敲をしているときに感じる。

 

この人の性格じゃこんなセリフ言わないはずだよね。

この段落のモタモタした感じ、文章の順序が違うからでは。

このエピソードがあるせいでテーマがボケちゃってるよね。

等々。

 

それらを一つ一つ直していくと、ああそう、これはそういう位置へそういう形で収まるのが正しいのだ、という気がしてくるのである。収めると安心して充足感に満たされる。

 

いつもいつもなわけではないが、そう感じるときは、楽しく創作ができているように思う。


(了)

 

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