日経新聞で気になったエッセイがあった。河合香織さんというノンフィクション作家の方が書かれたものである。
「行間を読まない幸せ」というタイトルの、「過剰に行間を読む行為は信頼と自信の欠如ではないかと思う」、というところ。
その例として、知り合いのお別れの回に、「平服で」と言われたにも関わらず、黒いワンピースで出かけた、とある。でも、多くの参加者は黒でなく思い思いの色を着ていた。故人に対する思いを自分の心のこもった言葉で捧げていた。そのように、平服でとあれば平服でいい。行間を読む必要なんてない、と。
ああイタイ、と思ったのだった。私も、お葬式に「平服で」と言われて迷い、失敗した経験があるのだ。
私の場合は、そう言われたんだからそうしなければならないのだろうと、逆に困った。その一言がなければ、当然喪服を選んだろう。アラフィフにもなると、いつそういうお知らせがくるかわからないものだから、シーズンを通して着られる喪服、バッグ、数珠、靴、パールなどをセットでスタンバイしている。
ところがそれを着るなと言われると、クローゼットをひっくり返すことになる。黒っぽくてくだけすぎず、それでいて平服っぽいもの……って、どうすんだっ!
結局、古~い白いブラウスに、もしや毛羽立ってないか? 的な黒のタイトスカート。ファッションセンスのかけらもないおばちゃんスタイルで出かけたのだった。
ところが。
その「平服で」とおっしゃったご本人が喪服だったのである。そして他の方も、殆どきちんとした喪服。そんなちんちくりんな間に合わせの恰好をしていたのは私一人だった。喪服を持ってないわけじゃないのよ~! と声を大にして言いたかった(泣)。
河合さんは「自由な精神の基底には他者への信頼があるのだろう」と書かれていたが、私はこの件で「平服で」とおっしゃる方への信頼をなくした。その後何度か言われたことがあったが、決して平服で行かなかった。というか、そう言われるときは、イコール「平服で行ってはいけない」と変換して受け取るようになってしまったのである。
まさに行間読みまくり。信頼というのはどこでどう培われ失われるのかわからない。油断大敵である。
ところで、「平服で」の話になると思い出すのが、昔の「キャンディ・キャンディ」というマンガである。
主人公のキャンディが、イギリスの学園に留学したてのとき。礼拝時には黒の制服を着なければならないのに、意地悪なイライザに、授業用の灰色の制服を着ていくようハメられる場面があるのだ。
「平服で」の一言は、キャンディのように嫌がらせに取られてしまうこともあるんじゃないかと思う。もちろん招待客のことを思いやっているからこその一言なのだろうが、私みたいな思慮の浅い人間は、かえってひねくれてしまうこともあるのである……。
(了)