2017年の直木賞受賞作、恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を、今更ながらようやく読んだ。
これは本屋大賞とダブル受賞の話題作。自分はこの作家さんのファン歴は長く、「六番目の小夜子」や「不安な童話」「夜のピクニック」などをよく読み返していたにも関わらず、完全に出遅れた……。
起こる出来事や事件はそんなにおどろおどろしているわけではないのだが、どこかしらいつも不穏。不気味な何かが後ろにある。それが知りたくてページをめくる手が止まらない。自分はこの作家さんをそんな風に感じていた。
今回の「蜜蜂と遠雷」は、そんな今までの印象とちょっと違った。
最初から最後まで一つのピアノコンクールの話である。1142枚という大長編にもかかわらず、それだけである。なのにやっぱりページを繰る手が止まらない。
これはすごいことだと思う。そもそも小説は音を出せない。読者にその感動を直接伝えることができない。だから、その曲をどういう風に弾いたのか、どんな音だったのか、それぞれの参加者の奏でる音にどんな違いがあるのか。すべて書き手の表現力にかかっているのだ。
そのピアノコンクール審査に残るのは、違った種類の天才達。その描き分けがものすごい。この子はこうで、こっちの人はこんな感じ。その中で読み手の自分はこの人を推したい、とか思えてしまう。その描写力にため息が出てしまうほど。
以前、自分がマンガ原作に関わっていた時に担当さんに言われたことがある。音楽は扱うことができないと。
え、何で? と思った。
自分の好きなマンガに赤石路代さんの「あるとのあ」というのがあって、これもピアノやバイオリンが主軸の音楽もの。そういうマンガが存在するのに、なぜ「できない」とダメ出しされてしまうのか。納得できなかったのである。
でも今思えば、それがどれだけ無謀なことだったのかがわかる。
「あるとのあ」は、音を、森林や草原などの素晴らしい風景を描くことで表現している。音の深さや透明さを目に訴えているのだ。そういうのを漫画家さんに描いてもらえるような原作を書くには、とてつもない力量が必要なのだと思われる。
マンガ原作とはまた違うけれど、「蜜蜂と遠雷」はそれをやってのけている。絵で訴えるということすらできない小説。文章で、言葉だけで、それこそ森林や草原を喚起させ、そこからその音楽を読み手に想像させる。こちらにそのイメージががんがん伝わってくる。……と自分は思った。(クラシックにあまり詳しくないので、この辺は通な人に言わせたら違うのかもしれないが)
そんな風に「音を書く」ことができるか否か。自分も物書きを目指すなら、挑戦していきたいことの一つだと思った。
(了)
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