このところ、伊賀市が忍者を公募して外国人の応募が殺到してるとか。嘘のようなホントの話がニュースになっている。公募は嘘だが、外国人に忍者好きが多いというのは、日本語教師の方などからもよく聞く。自分にはよくわからない感覚だけれども。
自分の持っている忍者像とは、修行として麻の芽を飛び越える、というやつだ。芽は葉をつけ、少しずつ大きくなり、それを毎日飛び越えているうちに跳躍力が上がっていく、という。
まあいつか麻の成長に、跳躍力の伸びがついていかなくなる。たぶん自分の場合、それはかなり早いうちにやってくる。いや、最初のうちは楽勝とか言って軽々飛んでいて、つまり跳躍力の伸びなど1ミリもないまま、そもそもの飛べる高さを越されたらおしまい。だからといって、楽勝と言ってる間も、うっかりひっかかってしまうくらい失敗ジャンプもある、という……修行する気あんのか、というレベル。
とまあ、こんな忍者の修行の話を思い出したのは、自分、相手に合わせてしまうタイプだよなあ、と感じることが多いからである。この場合の「合わせる」というのは、相手の話に合わせるとか、空気に合わせるとか、そういう協調性と呼ばれる素晴らしい素質のことではない。勝負事、努力事についての情けなさのことである。
例えばボウリング。一緒のレーンで投げた人が、そこそこいい成績だったとする。すると自分もそれに引きずられて、いつもよりいいスコアが出たりするのである。中学生の時水泳で、隣のレーンを泳いでいたなかなかに速い同級生についていっているうち、ナイスなタイムが出たことがある。かけっこについてもしかり。おお自分、すごくない? と、そういうときはとても達成感、満足感があった。
ところがこの才能、勝負相手が調子を崩していたりした場合、それに引っ張られてダメダメになってしまう危険度も高い。ボウリングも相手が不調だと何か付き合っちゃって(いや、そうしようという意志はないのに)、ボロスコアの70点台という記録がある。水泳にしてもかけっこにしても、学校成績でもそうなのだ。
つまり、忍者の麻の修行が実は自分には合っていたと思われる。ただし、芽からではなく、飛べると思う高さより少しだけ高いところから始めるのが正しかったのだと。常に自分より少し高い能力のものを追いかける。するとそれに引っ張られて能力がそこまで上がる。そういうことなのではないか?
でも、少し高い能力? それを追うには自分の能力がどの辺かの見極めができなくてはならない。
難しいんだよな、これ。イチローやショーヘイに定めても全くダンチなので意味があるはずもなく。草野球辺りだろうが、それならどのレベルだろ? となるわけで。
今更でも成長したい分野があるなら、麻飛び修行のその前段階から見直してみるしかないな、と思う今日この頃である。
(了)
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