物語を書きたい、という思いは子供の頃から持っていた。だから、書いている途中に邪魔が入るのが不満で、早く「書くだけ」の生活を送りたいなあと願っていたものだった。
それはちょっと違うのかも、と思ったのは、コミック原作のコンクールに入賞後、しばらくの間持ち込みをしていた頃。
それまで掛け持ちしていたバイトを全て辞めた。原作の仕事で頑張るんだ、と浮き浮きしていた。朝から晩までそのことだけに時間を費やせる幸せ。書くことに邪魔が入らない幸せ。
ところがである。
詰まったり進まなかったりすると他にやることがない。家以外に行く場所もない。せいぜい買い物か、本屋をグルグルするくらいである。
メールもあまり発達していない時代で、しゃべる相手もろくにいない。そんな狭い世界で生きていると、ネタに詰まるのに時間もかからない。
どっか遠出して気分転換とかネタ拾いとか、と思っても、バイト代も入らなければ原作収入は出来高制。浪費は大敵。
人に会っても身分をどう紹介していいのかわからないので、外に出るのも億劫になる……。
一行も書けない日々が日常化してくる。あまりにもヒマ過ぎて、結局はまたバイトを探した。その頃にはいい年齢になっていてかなり苦労した。こちらが大した仕事でもないのに、と思っていても返事すらもらえない買い手市場。
あまりに断られ続け、就活での若い子の悲観がよくわかってしまった。そういう気持ちならリアルに物語にできる、と思ったくらい。
これなんだろうな。
直接書いてはいなくても、こういう世の中の感覚を生で知ることが、書くことに生きる。一日中家に引きこもってパソコンに向き合うだけが創作ではないのだ、と今更気付かされた。
で、ようやくバイトが決まると、書く時間がなくなる、という悩みに戻る。乗りに乗って、あと丸一日あればエンドマークまで辿り着きそうなのに、というところで、バイト先の繁忙期がやってきたりするのだ。
けれど、書くだけに専念しようと全ての仕事を辞めてしまった頃に比べ、気持ちが安定して、書く作業も進む。たぶん、定収入のある安心感と、書けない時間があることによる効率化? が、両輪で走るのだと思う。
食い詰めるくらいな方が必死になってモノになったろう、という意見もある。それも正しいと思う。が、自分の場合はそうじゃなかった
2年程前に、ちょっとしたブックレビューを書かせてもらったことがある。「おばちゃん街道」というエッセイ集についてのものだった。
著者の山口恵以子さんは、「物語を作りたい」という夢を長年追い続け、ついには松本清張賞を取られた作家さん。
山口さんは「食堂のおばちゃん」をやりながら書いてきた。その肩書きこそポイント。「恒産なき者は恒心なし」と受賞の言葉でおっしゃっている――安定した仕事があってこそ精神が安定するという意味。それがそのときストンと自分の腑に落ちた。
創作とは言ってもその世界に出てくるのは普通の人達なわけで。だから人と自然とふれあう「仕事」というつながりを断ってしまっては、書けなくなるのは当たり前だったんだなあ、と最近思うのである。
(了)
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