大阪府のバスケットボール部の顧問の体罰による被害生徒の自殺事件、そして、柔道日本代表女子の監督の体罰による女子選手達のJOCへの告発など、今、全国的な関心事として「体罰の是非」が問われています。
最初に私の意見をお伝えしておきますが、私は「体罰はすべて暴力である」と考えています。
そして、「暴力によって、その本質が改善される事は限りなくあり得ない。」と思っております。
大前提はそこにある事をまずはお伝えしておきます。
私は、スポーツが大好きで、5歳のころからずっとスポーツの環境で育ってまいりました。
父親が熱心でしたので、「どうせ所属するなら強豪で」ということで、県下でも有数の強豪チームに入れてもらいました。
そこでは、ほぼ毎日のように厳しい練習が行われ、保護者の前であっても「げんこつ」「びんた」「けり」は当たり前で、むしろ、コーチや監督から殴られたら、逆にお辞儀をして、「気合いをいれていただき、ありがとうございます!!」という教育環境で育ちました。
このような考え方は、現在も脈々と続いているチームや組織があるのもまた事実であり、大阪のS高校の例で言えば、顧問はとても有名な指導者であり、その指導者に直接、手を出してもらえる事がひとつのステータス的なこともあったようである。
以前のブログでも書いているのだが、私が思うに、このような「体罰=気合い・教育」の考え方は、世の中の風潮や流れにも大きく影響している。
例えば、スポーツ指導という観点で言えば、代表的な作品にしたら「巨人の星」「エースをねらえ」「アタックNo.1」「スクールウォーズ」など、一環した体罰やそれに近い「しごき」のシーンが描かれている。
特に「スクールウォーズ」は高視聴率のお化け番組であったが、このドラマの前半に「体罰」に関する象徴的なシーンが描かれている。
このドラマの内容をよく知らなくても、このシーンは知っているという人も多いかもしれない。
それは主人公のチームがライバル校である相模一高との試合に109対0で負けた時のシーンである。
興味があれば参考までに見ていただきたい。
(画像を貼付けるやり方がいまいちわからないので、下のアドレスをコピーしてyoutubeでご覧ください。(謝)
↓
http://www.youtube.com/watch?v=hE3zOyVLPRA
正直、このような指導法が「是」する社会風潮が当時はあった事は事実だろう。「巨人の星」にしてもしかりである。
私も、スクールウォーズを見て感動し、共感し、自分が試合に負けた時や、雑なプレーをした時には、監督やコーチに「殴っていただいて」、気合いを入れ直し、プレーの質を向上させてきたし、それが正しいと思っていた。
なぜ、それを「正しい方法」と確信できて受け入れる事ができていたのかというと、社会がそのやり方を認めていたからであり、そのやり方こそ正義だと、親からも学校からも先輩からも社会からも、かなりの多くの人から、それが「正しい」と教育されてきたからである。
私が高校生の頃は夏の暑い日に水を飲む事を制限されていた。それは、水を飲むと選手としてうまくならないと、多くの人が言っていたからである。ほとんどのチームがやっていたからである。
それについて、もちろん不満はあったが、「上手になるため」には水を飲んではいけないのだと、自分の中で納得できていたから、当時はがんばれた。
でも、今になって、まさか「体が乾きをおぼえる前に水分を補給しないと運動のパフォーマンスは低下する」なんてことが科学的に証明されるなんて、夢にも思っていなかった。
もし、当時、その事がわかっていたら、水を飲まさない事で、社会的な大問題になっていただろう。
これは、「体罰」にも同じ事が言えるのではないか?
前述した様に、社会全体が「体罰」を「是」としていた時代に、それを否定する人は少なかった。
多くのプロ選手達が、「下積み時代の苦労や、先輩からのしごき、暴力」について、それに対しての反骨心が選手としての自分の能力の向上に大きな意味があったと語っている場面も多く見られた。
だからこそ、「良い選手になること=体罰や先輩のしごき・陰湿ないじめなどに耐える力」と盲信していた時代があったのである。
どのチャンネルをひねっても、カリスマ教師は生徒をぶん殴って更正させるドラマが溢れ、そして、実際の試合では、対戦チームの選手は三振しただけで、びんたされて、100本ダッシュをさせられていた。
今考えると異常な世界だったかもしれない。
でも、私はその時代が暗黒であったとは思っていない。
むしろ、私の中では良い青春の思い出である。
先輩に陰湿な行為をされたことも、監督コーチにぶん殴られた事も、水を飲めなかった事も、しごかれたことも。
私にとっては、青春の思い出であり、自分ではそのやり方があっていたと思っている。
なぜか!
なぜか!
なぜか!!
それは、繰り返すが、社会がそれを「良し」としていたからである。
むちゃんこシンプルなことだが、そういうことなんです。
社会(日本)が良しとしていたからなんです。
今、メディアでは「体罰の是非」について毎日、激論が交わされています。
部分的な具体例をとりあげ、「これは体罰で、これは暴力」といった、意味不明な線引きもされている状況である。
また、「体罰を良し」とする保護者やOBからは、「体罰は教育には必要です!私がそのように育ったのだから!」と声をあげている方も多く見られるようだ。
しかし、冷静になってみてほしい。
もう、「この世の中は暴力によってスポーツ能力が向上する事はない」という、科学的なデータもでていると聞く。
私もその意見には大賛成です。
つまり、「教育に体罰は必要である」という大人と、「教育に体罰は必要ない」という大人がいて、その割合が微妙な差であればあるほど、何が起きるのかわかりますか?
それは、当事者である「子供たち」に迷いが生じるのです。
どちらが正しいのかがわからない状況は、疑心暗鬼を生みます。
「愛の鉄拳」を「ただの暴力」と認識してしまえば、それは苦痛でしかありません。
「愛の鉄拳」を「愛情の表現」と子供達に認識させる為には、社会全体が「愛の鉄拳=是」という社会風潮にもう一度戻さなければ、「体罰」をうける子供たちが、その行為をどのような意味で受け取るかで行為自体の意味が変わってしまうのです。
現実は、そんなことは不可能ですし、その必要もないと思います。
であるならば、子供達が誤解して受け取らない様にするために「体罰」は行うべきではないと私は思う。
「体罰は暴力」です。
私は、そう思うのです。
特にスポーツの世界では、暴力による指導は必要ないと思います。
バスケットボールも、柔道も。
必要ないんです。
もはや、そんな行為で選手の能力はあがらないと科学は証明をはじめているのですから。
ただ、私は「体罰は時には必要」だと思っております。
誤解を恐れずに言いますが、「体罰は暴力であるが、時には必要な行為でもある」
これが、私の見解です。
つまり、暴力である事をわかったうえで、行使すべきということであります。
暴力であることを認識し、行使すれば職を辞するくらいの覚悟で行えば、相手にはその重みが伝わると思います。
たとえば、交差点に飛び出し、間一髪、交通事故をまぬがれた子供に対して、ビンタ一発かっとばして、「ばかもの!!死ぬとこやったぞ!!」と、私の子供でもそういう場面では是非やっていただきたい。
それは、「生き死にやその子の人生の岐路に関わった、なんとかしなければいけない場面」では、強烈な印象を残す、強烈なメッセージが必要な時もあるからである。
私の経験した、ひとつのエピソードを紹介します。
今から20年前、私が高校生の時、社会見学で京都まで行った時に事件は起こった。
帰りの集合時間にぎりぎりだったある10人くらいの生徒達は、時間に間に合わせる為に、正規のルートを通らず、ある柵を乗り越えてきた。でも、その柵の中には高圧電流が流れていて、触れれば即死の場所だった。
もちろん、生徒達は知らずにそこを乗り越えてきたのだが、駅の係員が血相を変えて先生に注意を促した。
その報告を受けた先生は、学年イチの温厚な先生であり、僕ら生徒達の良き相談相手であり、心を許せる先生だった。
その先生が駅のホームに10人を立たせて、順番にひとりずつ殴り続けた。
先生は号泣しながら、ひたすら殴り続けていた。
10人の生徒も、泣きながら、「先生、ごめんなさい、ごめんなさい」と誰一人逃げずに、公衆の面前で、僕ら200人くらいの生徒の前で殴られ続けた。
その状況を、暴力だという人がいるのなら、それはそれでいい。
でも、私には、「命の大切さ」を涙と拳によって伝えたいという先生の、思いがあふれた「愛の鉄拳」だったと確信している。
「体罰は暴力か否か」
それは、現代の社会においては、うける側にその判断がゆだねられる。
無難であれば、一切、手を出さない方がいい。
それが先生の自分の人生の為だと思う。
でもね。
そういう先生に「教育」つまり「教え、育まれた」生徒達が、学び取る事とは一体なんなんだろうか?
僕たち、親達が先生から子供に教えて・伝えてもらいたい事は、「触らぬ神に祟りなし」という精神に裏打ちされた「教育」の姿なのだろうか?
体罰は良いか悪いか?など、議論の意味はない。
どこからが体罰でどこからが暴力か?などという線引きも意味は無い。
そんなこと、誰にも決められないのだから。
大事な事は、みんなで関心を持っていく事。
地球規模で関心を持つ事。
日本規模で関心を持つ事。
コミュニティーで関心を持つ事。
学校と家庭で関心を持つ事。
家族で関心を持つ事。
いつも、関心を持ち、コミュニケーションをとっていれば、何が正しくて、何が間違っているのかを確認し合う事ができるだろう。
受け取る側だけの感性に任せず、いつも介入して、関心を持つ事。
若い時には、その瞬間ではどうしても理解できない事があります。
それを教え・伝えるのが、大人の役目です。
昔は、友達のお父さんにそういった指導もしてもらった記憶もあります。
今は、友達間の無用なトラブルを避ける為に、放課後はなるべく友達同士で遊ばないようにと、学校は推奨しているらしい・・・
これでは、いけない・・・
それが子供の教育には、いけない環境なんだと、気づいた人間から、世の中の仕組みを変えていかなければならないのです。
まずは、自分の近くのコミュニティーから変えていこう。
いや・・・
もとの正しい姿に戻すと言った方が正しいか・・・