夢をあきらめた
           と、言う人は多い。


だけど私の場合は
「夢がなんなのか」
             が分からなかった


普通の子ども達は
サッカー選手になる!
野球選手になる!
料理人になる!
ゲーム開発者になる!
歌手になる!(当時の私達の時代)
とにかくBIGになる!
なんてのは当たり前で、
周りの同級生達はそんな夢しかない。
子どもの夢なんだから、
自由で、現実離れしてていい。


でも、
私の場合は違った。

夢と言われても
まったく思い浮かばないのだ


最終的には友達に聞いて書いた答えが
「本屋で働く」だ。
マンガが好きだったからだろう。
だとしても「本屋」なないだろう。
普通は漫画家になりたい!だ。
なんと夢のない発想。
しかも友達に相談して、
何か書かないといけないから、
仕方なく書いた答えだった。


自分がやりたいことが分からない
これは本当に深刻な問題だと思う。


今の子ども達には無限の可能性がある。
おっさんの私より、
現在、どんなに勉強できない子どもでも
東大に入れる可能性は1,000倍以上ある。

おっさんの私より、
現在、どんなにスポーツができない子どもでも
スポーツ選手になれる可能性は1,000倍以上ある。
本当に輝いて見える。
子どもには何者にでもなれる無限の可能性がある!

だから、
なんでもいいから夢を持つべきだ。

夢が「叶う」「叶わない」の前に、
このことが大切だ。
夢は生きる方向性を示してくれる
努力すべき道筋を示してくれる

そう
夢=生きるプロセス
なのだ


それがなければ私のように、
ただなんとなく、
日々を過ごすだけの人生が待っていることだろう。

それでも楽しいこともあるのは間違いない。
エンタメ、ゲーム、マンガなど
暇つぶしはいくらでもある。
今は娯楽に溢れている。
スマホ一つでも十分遊べる時代だ。

ただ娯楽とは自ら望んだものではない。
やることがないから、
なんとなくやっていることである。

もちろん娯楽は必要だ。
ただし、
そこに人生の100%を注ぎ込んではいけない。


「行きたい方向に進んでいる」が前提の娯楽でなくてはならない。
必要な努力をやっていて、少し時間が空いたから「マンガでも読むか」でなければならない。

家に帰ってなんとなくテレビを見るは詰むぞ。
サッカー選手になりたいのなら、
メンタル強化の勉強でもした方が、
テレビを見るより100%夢に近づける!


結論を言う。

夢を見た方が
人生は100倍楽しくなる!

今の子ども達にそう伝えたい。

37年の人生を振り返ってみたとき
「なんとなく生きてたな」と感じていて、
意味もなく見ていたテレビをやめ、
ついに夢を持ちはじめて、
行動して、
生まれて初めて人生に変化が起き始めているおっさんが言うのだ。

間違いない。


では、
夢を持つためにどうしたら良いのか!?

夢を持てない原因のひとつに
「世の中のことを知らない」があると思う。

世の中はどんな仕組みになっていて、
どんな困っている人がいるから、
「それをサポートする人達がいる」ことを知らない。
どのような遊びたい人がいるから、
「それを可能にする人達がいる」のかを知らない。
誰も理解できていないことを知ろうとしている人がいるから、
「それを研究、解明する人達がいる」ということを知らない。

それが現在の仕事になっているのだ。
利益の出ないボランティアもあるが、
すべての仕事のベースに
「人や世の中のため」がある。
それを知るべきだ。


ふたつ目が
世の中にはどんな職業があることを知ったのなら、
そこからやりたい職業を見つけて、
それになるためには
「どんな方法でなれるのか」
を知らなければならない。
逆にそれがハッキリすれば逆算で、
今この瞬間にやるべきことが明確になる。

おいおい、
「もう時間がないぞ!」ということに気づくはず。



「夢すらよく分からない」からは
一秒でも早く卒業した方がいい


さあ
夢を持とう!








子どもの頃から否定され続けて生きてきた。
親や
教師や
同世代のみんなに。

図工のときは、
「なにそれ?」
体育のときは、
「なにやってんの?」
勉強のときは、
「何度言えば分かるの?」
塾のときは、
「なにしにここにきてんの?」
サッカー部のときは、
「ヘタクソがサッカーすんな!」

もちろん、自分が悪いのだ。
周りに迷惑がかかるくらい何にもできないのだから。
反論するつもりはなかった。

ただ、
言われたくない気持ちもあったが、
それ以上に「どうすればいいのか」が分からなかった。

上手くなるための方法なんて誰も教えてくれないのが現実だった。

結果、
こうも自分のやっていることを否定され続けると、
凹むというよりは
感覚がマヒしてくる。

最終的には自分がどうでもよくなる。
成功しようが
失敗しようがどうでもいい。


この言葉が一番しっくりくる。
自分に興味がない


そんな感覚のまま大人になって
今では親になった。

その経験を良い方向に活かすべき時期がきたのだ。
「こんな子どもにしてはならない!」と身をもって知っているのだから。

だが、
気付いたら
やられたことをそのままやっている。

子どもに対して、
文句ばかり言っている。

「早くしろ」
「何度言えば分かるんだ」
「ヘタクソが」
「しっかりしろ」

なんだこれ。
まったく一緒じゃないか。
そんなことを言われてもどうしてイイのか分からない子どもは、私を避けていく。

私は人生で何を学んできたのだろう。
否定をしない方がいいと知っているのではないか。

立ち止まらなければならなかった。
もう一度、冷静になって考えなければならなかった。


相手を否定をするということは、
子どもがやっていることに対して、
「文句を言う」ということだ。

文句は何も生まない。
批判は「評価する」こと。

文句があるなら批判した方がマシだ。
「もっとこうした方がイイよ」と改善点まで言うべきだろう。

それこまでできて初めて意見を述べて良いと思う。
アドバイスありきの言葉でなければ
相手を傷つけるだけだ。

文句だけ言われた方は気分が悪い。
アドバイスが加われば、言葉が和らぐ。
なぜなら相手がなぜそんなことを言ってくるのか考え(背景)が把握できる。

ただの文句をやめよう。
意味がないのだから。







努力が必要なのは、

始めてからしばらくの間だけ。


なにかをやり遂げたいことがあるのなら、

最強の流れはこうである!


努力→無意識→夢中



とにかく

努力は有期である



「ランニングの習慣を身に付ける」となると大変だ。

そこで最初は、

3ヶ月後にどうなっていたいかをイメージする。


「体力をつけたい」

「夏までに腹筋を割りたい」

「痩せてモテたい」 などの欲望がある。


しかし、

なにもやらなければ

全く同じ自分が3ヶ月後の自宅に存在しているだろう。


そのイメージを浮かべた上で、

どちらが良いかは自分で決めることができる。


欲望に特化した目的と明確なイメージがあれば何事も始められるはず。


始めた後の

注意点としては

途中で「挫折してしまう」ことだ。


そうなる前に目的をスライドさせよう。


見た目を変えたいという目的から、

「走ること自体が楽しい」

「走りながら景色を見ることが好きだ」

「知らない道を通ったら新しいお店を見つけた」

「想像以上に走ってる人が多くて勇気づけられた」

など喜びを別なところに移そう!


走って疲れる感覚を捨てるのだ。

別なところに意識を持ってこよう!

毎回、新たな何かを発見をしよう。


プロセスを目的に変えるのだ!



とにかく1ヶ月やる!

ここまでくれば、

歯磨きをするかの如く、

無意識で外に足が向くようになる。


慣れちゃえば、

歯磨きすることとなにも変わらない。

そんなレベルまで日常化させてしまう。


この後、

本当に好きになって、

のめり込んでいき、

夢中になったら最強だ。


マリオでいうところのスター状態だ。

無敵だ!

もう誰も止められない!



努力が必要なのは一生じゃない。

最初の一定期間だけだ。



それ以上は頑張らなくても、

体が、

脳が、

勝手にやってくれる。


自動化システムを使えるようになるのだ。


安心して努力すればいい。

努力は続ける必要がないのだから

落ちているゴミを見ても
拾うことができないのは
普段の生活から拾っていないから

ほとんどの人が、
落ちているゴミをみてもスルーする。

近所に落ちているゴミを見ても同じこと。
家の前に落ちていたとしても拾わない。

そもそもゴミが落ちていても、
なんとも思わない。



電車でもバスでも、
目の前に高齢者が立っていたとしても同じこと。
お年寄りに席を譲ることができない。
少しは席を譲りたいという気持ちがある人もいるのかもしれない。
でもどうしていいのか分からない。
ただ、ほとんどの人は、そもそも「譲ろう」「席を立とう」という選択肢が脳内にない。


当たり前だ。


普段やっていないのだから
気に留めることさえできないのだろう


道端に落ちているペットボトルを近くのゴミ箱に捨てるだけで地域環境の改善に繋がる。
皆が行動できれば地球環境の改善に繋がる。
それを知るだけで潜在意識が変わる。
実際にペットボトルが落ちている現場に遭遇したとき一緒考えるようになる。
それだけでも成長したことになる。
2回目にはゴミが落ちている目の前にゴミ箱がある場合、拾えるようになる。
そのうち多少離れたゴミ箱にも捨てれるようになる。


まずは知ることさえできなければやれるはずがない
そこから「自分で考える機会」をつくるしかない
自ら「やった方がいいな」と思えたのなら
どうやるかを実践するしかない

結局は
ゴミを拾うという行為も
お年寄りに席を譲るという行為も
「知識と技術」だ。

道徳的なものでも
心の在り方でもない








できる人は

いちいち考えていない



車の運転に慣れた人は、

「ハンドルを回している」

「アクセルを踏んでいる」

「信号が赤だからブレーキを踏もう」などと意識していない。

ほぼ自動化されている。

いちいち考えていたら、

急な飛び出しには対応できない。



仕事でも、ブログでも、何でも、

文章を書かなきゃいけないとき、

慣れていない人は、

なにをどう書けばいいのか構成が分からない。


文章を書くことが得意な人は、

テーマさえ与えられれば、

多少のネタを集めて、

実体験と重ねて、

過去の作品からの引用を使って、

質は置いておいても書くことはできる。

さらに、

自分で書いていて「ああそういう書き方もあるんだな」と自分で新しいことに気付いたり発見したりする。



自分で書いているのに不思議だ。


でも実際できる人はそんな感覚を知っている。


格闘家も相手をKOで倒したけど、

どのように倒したかは、

後からハイライトを見ないと

自分でも分からない。


こんな風に倒したんだなと

映像を見て初めて知る。


そういうものなのだろう。


脳の97%は潜在能力だと言われている。

そもそも意識している部分は3%しかないのだ。

いちいち意識していてできるはずがない。


できるとは

意識が必要ないことなのだ



不安をなくすには

その不安になってる要因を潰すしかない


実際に解決しなくても、

こうすれば解決できると道筋が見えて

ある程度の答えを出すだけでも不安は軽くなる


不安をなくすためには

納得できるプロセスがあればいい


例えば

子どもに勉強をできるようになってもらいたいと思ったとする。


一見、希望のようだが頭の中では「不安」としてしっかり保存される。


学年で10位くらいに入らないと、いつまで経ってもこの不安は消えることはない。

間違いなく時間がかかる。


だが、そこまでたどり着くルートが分かれば不安は軽くなる。

カリスマ教師の塾に通わせるなどで、自ら勉強を始められたとなれば、これを継続することである程度のゴールが見えたことになる。



例えば

子どもに野球ができるようになってもらいたいと思ったとする。


一見、要望のようだが頭の中では「不安」としてしっかり保存される。


誰でも納得いく形でレギュラーを獲得しないと、いつまで経ってもこの不安は消えることはない。

間違いなく時間がかかる。


だが、そこまでたどり着くルートが分かれば不安は軽くなる。

体の使い方やルールを学ばせて自ら自主練を始められたとなれば、これを継続することである程度のゴールが見えたことになる。


不安なんて消えるものではない。

簡単に解決しないのだから。

なら軽くすればいい。



極論を言う。


まだ解決できてなくてもいい


「こうなれば安心だ」という答えを出せればいい。


その答えを全力で探す!!


不安をなくすためにやることはそれだけだ。

世の中はうまくいかない。

うまくいかぬいようにできている。


これは生きる上での前提条件だ。


だったら代替案が多くあることに越したことはない。

A案がダメならB案

B案がダメならC案

C案がダメならD案


やってみてダメなら別の手立てを講じる。

即改善。

即変更。


これが今の世の中をうまく生きていく唯一の方法。



換えが効かない計画は確実に詰む。


どんな大きいプロジェクトも

柔軟な対応に対応しなければならない。


昔のような

上司の決断を伺う必要があるプロジェクトは

必ず立ち回らなくなる時代にきている。


うまくいかないことは予め予測しておこう。

そして代替案を予め持って生きていこう。

子どもがどんな大人になるかのベースは、親の教育方針によって決まる。


無限にある選択肢の中から何を選ぶのか。

その家庭では何に力を入れるのか。

子どもの成長の方向性が決まる。


「子どもが好きなことをやらせればいい」と言う親がいるが、そんな単純な話ではない。


子ども自身は将来のことをよく分からない。

未来の設計はできない。

大人になったことがないし、お手本は周りの大人たちしかいないからだ。


ハッキリ言って、「子どものやりたいことに任せる」というのは危険すぎる。


子どもの意見を踏まえて、

子どもの得て不得手を見て、

将来を見据えた総合的な判断は親がすべきだ。


なにをやらせるかも

なにをやめさせるかも

最後は親次第だ


運動をさせたいのであれば、スポーツをやらせるし、

勉強をさせたいのであれば、塾に通わせるだろう。


ただ、

運動をさせた分、勉強をする時間は減る。

勉強をさせた分、運動をする時間は減る。


野球を始めたとしたら、基本、土日は朝から晩まで練習だ。

勉強する時間は、ほとんどなくなる。

程度にもよるが、もし試合に勝つために野球をやるなら野球漬けになってしまうのは致し方ない。

練習でやったことを家でも復習しなければ、とてもついていけないからだ。

これは事実だ。


とても中途半端な気持ちでは親の子育ての任務を遂行できない。

もし勉強でトップを狙っていくなら、中学受験を目指すなら、野球をやりながらだと、かなり厳しいと言える。

もちろん文武両道の子もいるが、それはかなりのレアケースだ。


どんな子に育っていくか

どんな大人になっていくかを

子どものせいにしてはならない


将来、子どもに文句を言われないために

子どものやりたいことをやらせるだけでは

子育ては務まらない。

そこには必ず親の判断が入っているはずだからだ。


職場でいつも「忙しい」と言ってる人がいる。

私からすればとても忙しいとは思えない。

私の事務量の半分くらいだ。

仕事量は部署で決まっている。

そこに配属された人達でやらなきゃならない。

すると能力によって分量がどうしても偏るのだろう。

みなで同じ時間内にやらなきゃならないのだから。

それは仕方がない。


ただ「忙しい」と言ってしまうことに対しては、疑問を感じる。


きっと

忙しいことに慣れていないのだろう


暇なことに慣れているのだろう




ぬるい環境で生きていると

どうしてもそうなるのだ。


要は忙しいという経験がないだけ。




痛みも同じこと。

経験がないだけ。


慣れるよ、そんなもの。


ボクサーが殴られる度に

「痛い、痛い」と思うだろか。


殴られる度に、

「絶対にやり返す!」という気持ちになるはず。


「痛い」という感覚に慣れれば、

痛いは気にならなくなる。

別な感情で上書きされる!


痛いが痛いでなくなるのだ



経験して慣れよう。

自ら「忙しい」環境へ、

自ら「痛い」が経験できる環境へ!


すぐ「忙しい」「痛い」と言うことは

恥ずかしい以外の何者でもない



「〇〇だからできない」という人がいる。


頭が悪いから、

集中力がないから、

身長が低いから、

太っているから、

体力がないから、

女(または)男だから、

お金がないから、

コミュニケーション能力が低いから、

なにをやってもダメだから。


すべて

ただの言い訳だ。


〇〇になにを入れても同じ。

単なる言い訳に過ぎない。




子どもがスポーツができないから、

レギュラーになれない。

勉強ができないから、

行きたい高校に行けない。



その悩みに対する答えは簡単!


できるようになる方法を探してやれば!?


それだけ。


世の中、同じ悩みを持つ親だらけだ。

逆に悩みを解決した親も歴史上あふれるほどいる。

調べりゃいくらでも方法があることが分かる。


じゃあ調べて

分かったら試せばいい


本当に、

心の底から子どものことを思うなら、

今の10倍大変になってもやるはず。

子どもが少しでも成長する可能性があるのだ。

どう考えても、やるべきだろう。


でも大変になるのは嫌だと言うなら、

そこまで子どもに労力をかけられないと言うなら、

現状維持が待っている。

苦労するのが嫌なら現状を続ければいい。



良くなりたいと思っているだけで

何も変わらないけどね


最後の最後は

どれだけ本気なのか


その言葉に尽きる