敏ちゃん糞戦記 序章(8)
キリキリと胃に穴があきそうでは堪らず、医者に訴えて、薬をかえてもらった。
だが、
「ますますダメだ。胃がでんぐり返ししてるみたいだ」
「でんぐり返し?逆立ちしてるってことか?」
「酒飲んで気持ち悪くなることあるだろう」
「あるよ」
敏ちゃんにもあるのか、へ~っと顔を見つめる。
「おいおい俺だってあるさ。ず~っとないけど、若い頃には一、二回あった」
たったそれだけか。恐れ入りやした。
「それに似てるのか」
「ムカムカムカムカ、一日中」
「医者行け」
「行ってるじゃないか」
「行ってるのは整形。胃腸科に行かなくちゃ」
医者行くだけで一日がつぶれる、遊びに行けないじゃないか、どうせ酒やめろと言われるに決まってる、ひょっとしたら癌かもしれない、だったらどうせ手遅れだ、兄貴も癌で死んだ、など何日もブツブツ言っていたが、いつの間にかこっそり近所の胃腸科病院に行っていた。
「胃潰瘍だと」
「なんだ癌じゃないのか」
「お生憎様」
アカンベーしたものの、敏ちゃん急に真顔になって、
「お母さん、病院に呼ばれなかったか?」
「ん?」
「ほら、本人に内緒で身内のものが呼ばれて、実はご主人癌でしたってやつ」
よっぽど、ああそういえばこの間、とか脅かしてやろうと思ったが、あまりに切羽詰まった表情なので、
「いやあ、そんなことはなかったよ」
「ホントか?」
敏ちゃんの、それはそれは疑わしげな目。
「ホントさ。だいいちあのお袋が、そんなこと言われて平気でいられると思う?」
「……」
「そのまま顔に出ちゃうだろうし、その日から急に具合が悪くなって寝込んでしまうさ」
「……それもそうだなあ」
しばらくは様子を見ながら薬で治療ということになって、リューマチのほうは無期延期。
関節が痛くても酒が飲めるが、胃が痛くては酒が飲めぬ、というのが主たる理由だったようだ。
じきに痛みも薄らぎ、またもとの生活に戻ったのだが、半年も過ぎた頃、敏ちゃん珍しく風邪をひいた。
敏ちゃん糞戦記 序章(7)
そんなわけで……、
と言ったって読んでいない人には皆目わからないだろうけど、いつまでたっても前に進まないから、強引に……、
そんなわけで、ちゃんとした治療もしないまま、痛くなると酒を飲み、それでも痛いと近所の医者に行って鎮痛剤の座薬をもらっては、自分で自分の尻の穴に挿し、相も変わらず仕事そっちのけで、あっちの会合、こっちの寄合と顔を出すという生活を続けて10数年。
気がつくと、手指、肘の関節がポッコリと膨れ、曲がるほうと逆のほうに変形し始めていた。
これは紛れもないリューマチ、と人に言われ、自分でも思い、ちょうどその頃行きつけだった飲み屋で知り合った、整形外科医のところに行くことになった。
そこはかつて、あの、
「歳なんだから、しょうがあんめ」
という診断を下した老迷医が在籍した国立病院なのだが、なぜか「飲み仲間」
は無条件に信用するという、飲兵衛特有の習性から、
「同じ病院でも、ピンからキリまでいるんだよ」
と敏ちゃん、全幅の信頼だった。
しかし、ピンからキリまでいるのなら、キリは一人とは限らず、何人もいることは十分に考えられるのだ。
病院に通いはじめて、与えられた薬を飲み続けること10日あまり経った頃、
「どうも胃の調子が悪い」
また始まったと、こちらは思う。
もともと胃下垂気味で座業、胃の活動が不活発で、いつも胃が重い状態なのだ。おまけに毎日の飲酒だから、胃が助けてくれ、と悲鳴をあげても仕方のないことだった。
「いや、どうもいつもの胃の痛さとは違うようだ」
「どう違うのさ」
「なんというか、胃にキリでアナをあけるような……」
「リューマチの薬のせいじゃないかい?」
「うーん……」
と唸った敏ちゃんの顔は暗く深刻だったのだが、そんなことを言いつつ、毎晩酒を飲み続けたのは言うまでもない。
「酒控えたら」
「酒?酒なんか飲んでないぞ」
「飲んでるじゃないのビール」
「ビール?ビールなんか酒のうちに入るかよ」
迷科白だなあ~、やっぱり。
週刊美代ちゃん(18)
美代ちゃんがお世話になっている施設からの年賀状のコメント。
〈いつも、その場の雰囲気を明るくして下さるムードメーカーで、助かっています〉
なるほど、アイドル的存在なのか。いや、お調子者でヒョウキンってことか。
さもありなん、と思う。
なにせ、他のメンバーはたいがい、声をかけても反応がなかったり、まるっきりトンチンカンな答が返ってくる「天国に一番近い人たち」ばかりなのだ。
特に、爺様二人は〈その場の雰囲気をぶち壊しにする〉存在で、ひとりは年中赤い顔をして唸っているし、もうひとりは人をバカにしたような皮肉な笑いを浮かべて、時おりなにが気に入らないのか、たまたま傍にいた婆様を、誰彼の区別なく怒鳴りつける。
男の年寄りで可愛いのなど、見たこともない、男というのはどうしようもない存在だ、と自身も男のくせに思ってしまう。
ああはなりたくない、と思っていても、なってしまうんだろうなあ、近い将来。
もう一つ年賀状のコメント。
私の従弟からのもの。彼は、美代ちゃんのもう故人になってしまった弟の長男。大学病院に勤務する内科医。
そう、週間美代ちゃん(13)でお馴染みの、自己中徹子さまの弟である。
〈年末年始は母の看護師になっています〉
ありゃりゃとうとう寝たきりになってしまったか。3度転んで骨折し、そのたびに、もう歩けなくなるだろうという、大方の予想を裏切って復活してきた、不死身の婆様なのに。
姉さん女房だったから、美代ちゃんよりちょっと下の年令。美代ちゃんの血のつながった姉、弟、連れ合いである敏ちゃんの、やはり血のつながった兄、姉はすべて亡くなっているなかで、生き残っている配偶者3人のなかの一人なのだが、去年の春は元気に歩いていたのに、そろそろなのかなあ、と一抹の寂しさを覚える。
見舞いに行かなくちゃ、と思うには思う私だが、スケジュール帳をめくれば、びっしりと新年会で埋まっている。
酔いどれ交遊録(9)K氏のこと①
K氏とは学生時代からの付き合いなので、もう30年以上も一緒に飲んでいることになる。
何リットル、いや何百リットルの酒を、そのお互いの体のなかに注ぎいれたことか、ざっと計算しただけで酔いがまわりそうだ。
大学2年の頃からほぼ15年ほど、元旦の夕方から2日の夜まで、K氏の実家で過ごした。
埼玉県は、今はさいたま市の郊外の一角、林と田んぼに囲まれたところに、その家はあった。なんとものどかな雰囲気で、古びた、だがしかし、建てた当時はモダンだったろうと思われる木造家屋には、心をほっと穏やかにしてくれる、暖かみがあった。
K氏は4人兄弟姉妹の三番目で長男。全員が揃う正月は、それだけで賑やかで、一人っ子の私には羨ましい限りだった。
私がもう暮れかかる頃に到着すると、賑やかでお喋り好きの、小柄で皺の多い、どこかの田舎のオバサンといった感じの母親と、気難しそうな、昔はかなりおっかなかったろうと思われる、苦虫を噛み潰したような顔だが、笑うとやけに好々爺風になる父親が迎えてくれた。
正月の挨拶もそこそこに済ませると、すぐに酒盛りがはじまる。
「あたしはどうも昔から、お酒の燗をするのが下手でねえ」
と言いつつ、母親が持ってくる徳利は、いつも素手では持てない。
「また沸騰してるなあ」
「いいんだよ、殺菌されて」
「そうよねえ」
「いくらなんでも、これじゃ飲めないよ」
「そのうち冷めるさ」
「なんだったら、こっちの冷たいのと混ぜて飲むといいわよ」
「それじゃ美味くない」
「美味いも不味いも、そのうちわからなくなっちゃうって」
「そうよ、そうよ。それより食べて食べて。そのキントン、今年は聡くん(K氏のことね)が煮たのよ」
「美味い不味いの保証はないけど」
「きっと不味いと思うけど、一口、まず行くか」
などとアホな会話をしながらグビグビやってると、どこやらに出かけていた、姉二人と弟が三々五々と帰ってくる。
そこからまた大宴会になって、大マージャン大会へと移って行くのだが、その話は次回に~。
人物列伝(5)君子さん④
君子さんの家、言い換えれば美代ちゃんの実家のある本所には、本所七不思議というのがある。
以前にも書いたが、隅田川より東は、江戸時代になってから開かれたところで、本所なんてところも、当初はずいぶん寂しいところだったようだ。
それで七不思議なんていう、怪談じみた話が伝承されているのだが、どこが不思議なの~と、口を挟みたくなるほど、他愛のない話が多い。
もっとも有名で、もっとも不思議っぽいのが「置いてけ堀」。
堀(今の錦糸町駅のあたりにあった、錦糸堀という説が有力)で釣りをすると、やけによく釣れる。やれ嬉しやと魚籠イッパイの魚を抱えて帰ろうとすると、堀の底から「置いてけ~、置いてけ~」という不気味な声がきこえてくる。
釣り人はびっくりして、後ろ襟を掴まれそうな恐怖を感じながら、すくむ足を懸命に動かして走り逃げる。
ああここまで逃げればダイジョウブというところまで来て、ホッと吐息をついて魚籠を見ると、中の魚が全部なくなっている。
とまあこれだけの話。
子供の頃、私が君子さんの家に泊まりに行くと、
「さあ、子供は早く寝た寝た」
と、遊びに夢中でなかなか寝ようとしない、私と従兄弟たち3人を寝床に追いやり、枕元でこの話を、子守唄代わりに聞かせてくれた。
「置いてけ~、置いてけ~」
と、しゃがれた震え声でやられると、眠るどころではなくなる。
「やめてよオバサンその話」
「そうかい。じゃ、七不思議の違う話をしようかねえ」
「ダメ~!」
三人布団を被って耳を塞ぐが、
「じゃ、足洗い屋敷の話はどうかねえ」
布団から見上げて見た、ニタッと笑った顔のなんとも怖いこと。
「いいからあっち行ってよ!」
「そうかい、大人しく寝るんだよ」
どうやら、君子さんの七不思議話は、私たちを寝床に縛り付ける一つの手だったようだ。
「足洗い屋敷」など他の七不思議話については次回に紹介いたしましょうかねえ。
週刊美代ちゃん(17)
明けましておめでとうございます。
本日から、いろいろ始動であります。今年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
今年も美代ちゃん、我が家で元旦の一日(半日)を楽しそうに過ごした。
去年よりずっと元気に、ずっと頭脳明晰に。
少し耳が遠くなったようだが、それ以外はいたって健康そのもの。要介護1に降格(?)というのもわからないでもない。
顔色もよく、やたら喋り、食欲も旺盛。トイレなんか独りで行って、独りで帰って来る。
ここまで状態を改善してくれた、施設の方々の献身的な介護に、感謝感謝なのだが、もちろん私のことだから腹の中で、これ以上良くしないでくれ、と願っていたのは言うまでもなかろう。
朝の9時過ぎに迎えにいき、家に着いたらすぐに支度をして遅い朝食兼早い昼食。
きけば、朝飯は8時ごろしてきたという。
「どうせお腹が空いたって騒ぐだろうから、軽~く食べさせておいてって頼んでおいたけど……」
「うんにゃ、たっぷり食べてきた」
「!……」
「だって、他の人の食べられない分まで、あたしのお皿に載せちゃうんだもの」
それでも、マグロ、カンパチ、ホタテ、甘エビの刺身一人前、タケノコ、シイタケ、ニンジン、コンニャク、キントンなどなどのおせち料理の一通りを、ゆっくりと平らげたあとに、餅一個入りの雑煮まで完食。
「こりゃ太るわなあ」
「家に入るときの石段、上げるのやたら重かったもの」
と、顔を見合わせため息をつく私と息子。
その後コタツにもぐりこんで、たっぷりとお昼寝。
夕方から、毎年年始に来るノボルちゃんを交えて、大トランプ大会。大とは言っても、七並べしかやらないんだけどね。
これが美代ちゃん、なんともやかましい。
「ええと、これも出ないし、こっちもダメ。赤いけど形が違うから出せないし~。うーん、パスしちゃおうかなあ。あっ、あっ、あった、あった。これが出る~」
そう言って出すのが、他のメンバーにはなんの役にも立たぬ、端っこの1や13なのだから、一同大ズッコケ。
それでも、総勢5人のなかで2位につけてしまったのだから、大したものだ。
「頭良くなっちゃったみたいだねえ」
「もともと良いんだよ」
と涼しい顔の美代ちゃん。
もっとも、ブービーが私、ブービーメーカーがノボルちゃんで、二人とも、ずっと飲み続けていたのだから、この成績も頷けるというものだ。
夕食は手巻き寿司。食べたくてしようがなかった「生もの」を、昼、夜とたっぷり食して恵比須顔。
9時前に送っていったのだが、美代ちゃん、機嫌よく来て、上機嫌で帰っていった。
今年は、とてもいい年になりそうな気がするなあ。
酔いどれ交遊録(8)番外編
毎年のことなのだが、今年も、忘年会忘年会で暮れたような気がする。
3日に1度はやっていたような……。
それでもさすがに昨夜(30日)の忘年会はお断りしたのだが、昼間の用事を終え、やっと帰宅してホッとしていると、ケータイが鳴り、
「なにしてるの、皆んな待ってるよ」
という声。
一瞬返答に詰まる私。
「あんたが来ないと始まんないよ」
「出られないって、言ったじゃない」
「えっ、きいてないよ」
「H氏に言ったよ」
ケータイの向こうでボソボソ喋る声。もうアルコールが入っているようだ。
「きいてないってよ」
笑いを含んでいるから、半分からかっているようでもある。
「きいてないわけないよ、H氏のといい勝負の、うちの恐竜、じゃなかった、恐妻がお許しにならないからダメって、言ったんだから」
またまたボソボソ言う声。
「許しを請うたんじゃないの、ってH氏が言ってる」
「そんなもん受け付けるわけないじゃないの。H氏の奥さんと同じなんだから!」
またまたまたまたボソボソ言う声。
「俺はこうしてちゃんと来ている、ってH氏は威張っているよ」
やれやれ、H氏だって、一悶着も二悶着もあったはずなのだ。
キリがないので、
「新年会でまた飲みましょ。来年もよろしく、よいお年を」
と強引にケータイを切ったのだが、忘年会は一個減ったけど、新年会がまた一つ増えたなあ、と深いため息をつく私でありました。
年の中ごろから、更新も途絶えがちになった、この介護録だか、悔悟録だか、よくわからなくなってしまったブログを、ここまでお読みいただきまして本当にありがとうございました。
来年はもう少しマシになっていると思いますので、またご愛読のほどよろしくお願いいたします。
皆さん、どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
酔いどれ交遊録(7)N氏のこと⑤
N氏とは年に一度旅行をする。
といって二人旅というのではなく、二人に共通の仲間たちと一緒で、4~6人の旅になるのが普通だ。
今年は広島だった。
去年は北海道の余市、小樽、札幌。
その前が鹿児島で、さらに前がまた北海道余市、小樽、札幌、もっと前がまた鹿児島。
なんでまた同じところに何度も、と思われるだろうが、これにはわけがある。
わけと言っても、私とN氏のことだから、大したわけではない。
鹿児島ときいてピンと来る人もいるだろう。飲兵衛が鹿児島に行くと言ったら、芋焼酎目当てに決まっている。
北海道の余市といえば、ニッカウィスキーの発祥の地だ。
広島にはそういうのはないなあ、なんて思うのは、やっぱりお酒の素人さん。
広島は、全国でも有数の日本酒の生産量を誇っている。ちょっと古いのだが、平成10年の統計では、清酒の出荷量は第6位につけている。
ちなみに1位は断トツの兵庫。以下、2位京都、3位新潟、4位秋田、5位愛知と続く。
広島のなかでも、東広島市の西条は、兵庫の灘、京都の伏見と並び称される、三大銘醸造地の一つだ。
西条には10の醸造元(蔵元)がある。もともとは11あったのだが、残念ながらそのうちの一つは廃業してしまっている。
10の蔵元の銘柄を列記すると、賀茂泉、賀茂輝、賀茂鶴、亀齢、西條鶴、山陽鶴、白牡丹、福美人、千代乃春、桜吹雪となる。このうちの上から8番目までが、西条駅の周辺に位置し、白壁とレンガ煙突の「蔵の町」を形成しており、なかなかの風情だ。
だいぶ回りくどい説明になったが、要するに、広島もやっぱり酒目当ての旅行だったのだ。
ただ残念なことに、西条に着いたのは夕方の4時過ぎ。中まで見学できたのは、白牡丹と賀茂鶴のみで、試飲にいたっては白牡丹だけだった。
N氏が欲張りでアチコチ回ったせいもあるが、主たる原因は、レンタカーの運転がもっぱらN氏であったことにあると、私は睨んでいる。
以前は、舐めるだけとか言って、けっこう口にしていたのだが、飲酒運転取締りがやかましくなってきている今日では、それもはばかれる。
どうせ試飲できないのなら、いっそ、と思ったに違いないのだ。
空港に戻ってレンタカーから解放された、飛行機待ち時間に、お好み焼きと牡蠣をつまみに、「亀齢」を美味そうに飲んでいたN氏の顔が、今でも目に浮かぶ。
敏ちゃん糞戦記 序章(6)
ずっとどうもリューマチに足を引っ張られて、前に進まない。リューマチとは「留待」と書くのかもしれない。そこに「留待っておれ!」……なんてね。
今現在でも、治療法はかなり進歩したものの、この病気の原因はハッキリわかっていない。細菌やウイルスが原因なら、それを殺す薬ができれば一応解決するのだが、そんなに単純なものではないらしい こんな厄介な病気にも、ほんの一時期、夢の新薬が現れたと、医師や患者たちが狂喜したこともあった。
そう、かの悪名(?)高きステロイド剤である。
1948年、アメリカのケンドル、スイスのライヒシュタインによって、ステロイド剤のコーチゾンが合成され、アメリカの医学者フィリップ・S・ヘンチによって、重症の慢性リューマチに劇的に有効であることが発見された。彼らはこの功績によって、1950年のノーベル医学・生理賞を受賞している。
であるのに、なぜ夢の新薬とはならなかったかというと、言うまでもなく重い副作用があったからである。
ステロイドというのは、人体の臓器である副腎で生成されている。もともとあるものを体外から注入されたらどうなるか、おおよその想像がつくと思う。
いわゆるバランスが崩れる、という状態になるのだ。肥満、高血圧、糖尿病、骨粗鬆症、高脂血症などなど。さらに免疫系に直接作用するから、感染症にもかかりやすくなる。
と言ってまるっきり悲観的になることはなく、今ではステロイドをはじめ、リュウマチ治療の方法はかなりの進歩を示している。たとえば、1970年ごろからは、発病した当初に大量投与して、免疫組織を一気に正常に戻し、以後は少ない維持量をずっと維持する、という治療法が確立されている。
敏ちゃんがリューマチを患い始めたのがちょうどその頃。まだまだリューマチ治療の方法も手探り状態で、出会った医師の腕しだいというところがあった。
腕のあまりよろしくない、診療報酬を得ることに熱心な医師にぶちあたっていたら、まあ体をボロボロにされていた可能性が十分にあった。
序章(3)のところで、
「国立病院まで出向いていった。そこでリューマチという診断が下っていたら、
敏ちゃんのその後の人生も違ったものになっていたかもしれない。」
と書いたのはそのへんの理由からなのだ。
出会った医師が、リューマチという診断も下せぬ、とんでもないヤブだったのだが、85歳まで生きたのだから、運が良かったと言うべきなのだろう……。
やっと前に進みそうだけど、どうかなあ……。
週刊美代ちゃん(16)
役所から介護認定の結果通知なるものが届き、中を開いて仰天した。
美代ちゃんの介護度がなんと「要介護1」になっているのだ。
なんだこれは!
介護度が2段階も下がっている。美代ちゃんは施設に入居する直前に、要介護2から3に昇格(?)していた。
それから1年半。施設の方々の献身的な介護の結果、ついに、奇跡が起きたのか!素晴らしい~!
なんてことは思うはずがなく、失笑を禁じえなかった。そんなに急によくなるわけないじゃないか。病気や怪我で介護度が上がったんじゃないんだから。
要介護1と3とではどのぐらい違うのだろうか。
お金の面だけに絞って述べてみる。
介護保険から支払われる介護給付金は、要介護3で一ヶ月267,500円、要介護1で165,800円だ。
10万円以上も違う。これだけ減額されたら、いままで受けていた介護サービスの40%近くをカットしなければならなくなる。
状態から言って、もうそんなに必要ないことなのだから、いいじゃないか、というのはあくまでも理屈の上のことで、もし在宅介護の場合であったら、それで成り立っていた介護者の生活がメチャクチャになってしまうだろう。
デイサービスに通う回数が4割減ったら、その間を利用して仕事に行っていた人はどうすればいいのだ。
仕事をやめろと言うのだろうか。介護をそんなにする必要がなくなったのだから、安心してその間仕事に行けるはずだと言うのだろうか。
日々生活しているものとしては、とてもそううまく切り替えられるものではない。生活者の実感からかけ離れた判断だ。
いきなり介護度を2段階も下げてしまうことの影響の大きさを、お役所はどうお考えなのだろうか。
美代ちゃんにとっても私たち家族にとっても幸いなことに、施設のほうでは、要介護1以上であれば、そのまま預かってくれることになっている。
だが、もしさらに下がって、要支援なんて判定が下ったら、と思うとぞっとする。
施設との契約書には、次のような項目がある。
「次の事由に該当した場合は、この契約は自動的に終了します。(1項略)②利用者の要介護認定区分が非該当(自立)あるいは要支援と判定された場合」
介護認定1という知らせを読んで、慌てて私が、契約書を引っ張りだし、目を皿のようにして読んだことを、ここに告白しておく。
美代ちゃんよ、これ以上元気にならないでくれ、と願う私は、相当の親不孝者なのだろうねえ~。