嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -42ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

第90代天皇 亀山(かめやま)天皇 在位期間1260年1月(旧暦11月)~1274年 なお、「㉗」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系27代遡る」という意味です。

恒仁(つねひと)親王。大覚寺統。後嵯峨天皇㉗の第7皇子。宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍)の異母弟、後深草天皇㉖の同母弟。後宇多天皇の父。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。

1249年生まれ。両親から寵愛され、兄からの譲位を受ける形で10歳(旧暦での数え11歳)で即位。

父上皇は亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子にして次の「治天の君」を定めないまま1272年に崩御、母・大宮院が「その内意は、『次の治天の君は亀山天皇』だった」との旨幕府に伝えた。このことが持明院統と大覚寺統の両統迭立を招いた。

24歳(数え26歳)で譲位し、院政を布いた。

元寇の際に後宇多天皇と共に「身を以って国難に代える祈願」と伊勢神宮に願文(がんもん)を残している。この「身」は亀山上皇なのか後宇多天皇なのかが大正年間に論争となり未決着だという。

また、元寇の際に「敵國降伏」を祈願し、筥崎宮(はこざきぐう。現、福岡県福岡市東区)の楼門に「敵國降伏」の額が掲げられた。現在の額は2003年(平成15年)に復元作成されたもの。

(筥崎宮の楼門、そして「敵國降伏」の額)

 

しかし、1285年の霜月騒動で滅ぼされた安達泰盛(あだちやすもり)と協調路線をとっていたため、幕府との関係が悪化。さらに、幕府は持明院統と接近することとなり、持明院統と大覚寺統の分立が深刻化した。

法皇となってから1291年南禅寺(京都五山別格&鎌倉五山別格)を創建。56歳(数え57歳)で崩御。

1263年北条時頼が36歳(数え37歳)で没。

1264年北条政村が第7代執権に就任。

同年モンゴル帝国5代皇帝フビライ・ハンが首都を大都(現、北京[ぺきん ベイ・ジン])に置く。

1266年宗尊親王の嫡男・維康王(これやすおう)を鎌倉幕府第7代将軍に任命(1270年臣籍降下して源維康[みなもとのこれやす]となる。1287年親王となる)。

1268年1月フビライの使者が来日、同年3月北条時宗が第8代執権に就任。

1271年9月日蓮の龍ノ口法難の伝承。

同年11月フビライが国号を「元(げん ユゥエン)」と定める。

 

 

第91代天皇 後宇多(ごうだ)天皇 在位期間1274年~1287年

世仁(よひと)親王。大覚寺統。亀山天皇の第2皇子。後二条天皇&後醍醐天皇の父。

1267年生まれ。6歳(数え8歳)で即位、亀山上皇の院政下にあった。治世中に2度の元寇(文永の役、弘安の役)があった。

19歳(数え21歳)で持明院統へ譲位。

後二条天皇の代に院政を布いた。

後醍醐天皇が即位すると再び院政を始めたが3年で停止。

56歳(数え58歳)で崩御。

1274年文永の役。

1275年元の正使としてモンゴル人の杜世忠(とせいちゅう ドゥー・シー・ヂョン)・ウイグル人2名・唐人1名・高麗人1名の計5名が来日するが、北条時宗は鎌倉龍ノ口で斬首にした。杜世忠は李白(りはく リー・バイ)の漢詩を踏まえた辞世の句を残した。

李白の七言絶句『別内赴徴三首 其二(ビエ・ネイ・フー・チョン・サン・ショウ チー・アール うちにわかれてちょうにおもむくさんしゅ・そのに) (意訳)妻子と別れて出世のため都に赴くときに詠んだ3首その2

出門妻子強牽衣 チュー・メン・チー・ズ・チャン・チエン・イー

問我西行幾日歸 ウェン・ウォ・シー・シン・ジー・リー・グイ

來時儻佩黄金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン

莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー

門を出ずれば妻子強くを牽き(もんをいずればさいしつよくいをひき)、

我に問う、西行幾日か帰ると(われにとう、さいこういくにちかかえると)。

来る時儻し黄金の印を佩ぶれば(きたるときもしおうごんのいんをおぶれば)、

蘇秦が機を下られざるを見る莫からん(そしんがきをくだられざるをみるなからん)。

(意訳)門を出ると、妻子は私の袖やにすがりついてきた。

そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。

そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、

蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。

(解説)742年、李白が数え42歳のとき、離れ離れに暮らしていた妻子と一緒に暮らすため妻子の住む街に向かうが、その途中で唐の都・長安での出世話が舞い込んだため、妻子に会ってすぐ一人で長安に向かうことになった。妻と子(数え10歳の娘と数え7歳の息子)は別れを悲しんだが、李白は意気揚々と明るくユーモアを交えて答えた。

蘇秦(そしん スー・チン。生年不詳~紀元前317年?没)は戦国時代(せんごくじだい チャン・グオ・シー・ダイ。紀元前453年or紀元前403年~紀元前221年)の縦横家(じゅうおうか ゾン・ハン・ジャー)。合従策(がっしょうさく フー・ツォン・ツー)、故事成語「鶏口牛後(けいこうぎゅうご ジー・コウ・ニィウ・ホウ。鶏口となるも牛後となるなかれ) (意味)大きな集団の中で尻にいて使われるよりも、小さな集団であっても長となる方が良い」で有名。若い頃出世できず郷里に帰ったら、妻は機織りの手を休めず出迎えもしないなど、家族から冷たい仕打ちを受けたという故事に基づいている。

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そして、杜世忠の辞世の句は、この李白の漢詩を二文字だけ変えたもの。

杜世忠の辞世の句

出門妻子贈寒衣 チュー・メン・チー・ズ・ツン・ハン・イー

問我西行幾日歸 ウェン・ウォ・シー・シン・ジー・リー・グイ

來時儻佩黄金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン

莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー

門を出ずれば妻子はを贈り(もんをいずればさいしはかんいをおくり)、

我に問う、西行幾日か帰ると。

来る時儻し黄金の印を佩ぶれば、

蘇秦が機を下られざるを見る莫からん。

(意訳)門を出ると、妻子は寒さを凌ぐ服を贈ってくれた。

そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。

そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、

蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。

(解説)出世して家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念の思いが伝わる。神奈川県藤沢市の常立寺(じょうりゅうじ)には杜世忠らを弔う元使塚があり、2005年(平成17年)には朝青龍や白鵬らモンゴル出身力士が参拝。その後も毎年藤沢巡業の際にモンゴル出身力士が参拝するようになった。2007年(平成19年)には来日したモンゴル大統領夫妻も参拝している。

1279年元のフビライが南宋を滅ぼす。

1281年弘安の役。

1284年北条時宗が32歳(数え34歳)で病没し北条貞時が第9代執権に就任。

1285年霜月騒動が起こり、安達泰盛ら有力御家人が平頼綱(たいらのよりつな)率いる御内人(みうちびと)勢力に滅ぼされる。

 

 

第92代天皇 伏見(ふしみ)天皇㉕ 在位期間1287年~1298年

煕仁(ひろひと)親王。持明院統。後深草天皇㉖の第2皇子。後伏見天皇㉔&花園天皇の父。

1265年生まれ。22歳(数え23歳)で即位。

当初は後深草上皇の院政下にあったが2年で停止、以後は親政を開始。

1289年弟・久明(ひさあき)親王を鎌倉幕府第8代将軍に任命。

33歳(数え34歳)で子の胤仁(たねひと)親王(後伏見天皇)に譲位し院政を布いた。

花園天皇の代に再び院政を布いた。

52歳(数え53歳)で崩御。

1291年スイス連邦の原型である原初同盟が結成される。ウィリアム・テルの伝説はこの時代が舞台。

1293年鎌倉大地震が発生、この混乱に乗じて執権北条貞時が内管領(ないかんれい)・平頼綱を滅ぼす(平禅門の乱[へいぜんもんのらん])。

1294年フビライ・ハン没。

1297年永仁の徳政令。

 

 

第93代天皇 後伏見(ごふしみ)天皇㉔ 在位期間1298年~1301年

胤仁(たねひと)親王。持明院統。伏見天皇㉕の第1皇子。花園天皇の異母兄。光厳天皇㉓&光明天皇の父。

1288年生まれ。10歳(数え11歳)で即位。伏見上皇の院政下にあった。

12歳(数え14歳)で大覚寺統の後二条天皇へ譲位。

弟・花園天皇が即位すると父・伏見上皇が再び院政を始めたが、父の出家にともない代わって後伏見上皇が院政を布いた。

1331年元弘の乱で後醍醐天皇が幕府に捕らえられ光厳天皇が即位すると再び院政を布いたが、1333年鎌倉幕府が滅亡すると出家した。

1336年に48歳(数え49歳)で崩御。

なお、1306年に後伏見上皇の女御(にょうご。夫がすでに上皇なので皇后・中宮を名乗れなかっただけで、立場的には正室)となっていた西園寺寧子(さいおんじねいしorやすこ。広義門院)は、こののち、1352年に日本史上唯一の「女性の治天の君」となる。南北朝騒乱のさなか、正平一統で、「孫の弥仁(やひと)親王(後光厳天皇)を即位させなければならない。しかし、三種の神器も三上皇(光厳、光明、崇光)も南朝に奪われた」という窮地を脱する解決策としてだった。広義門院はこのあと1357年に数え66歳で没するまで精力的に政務に取り組み、単なるお飾りではない、まさに「治天の君」だったという。

1299年オスマン・ベイ(オスマン1世)がオスマン帝国(~1922年)を建国。

 

 

第94代天皇 後二条(ごにじょう)天皇 在位期間1301年~1308年

邦治(くにはる)親王。大覚寺統。後宇多天皇の第1皇子。後醍醐天皇の異母兄。

1285年生まれ。15歳(数え17歳)で即位、後宇多上皇の院政下にあった。

在位のまま23歳(数え24歳)で崩御。

1301年北条師時(ほうじょうもろとき)が第10代執権に就任。

1308年守邦(もりくに)親王が鎌倉幕府第9代将軍に就任。

 

 

第95代天皇 花園(はなぞの)天皇 在位期間1308年~1318年

富仁(とみひと)親王。持明院統。伏見天皇㉕の第3皇子。後伏見天皇㉔の異母弟。

1297年生まれ。11歳(数え12歳)で即位。はじめ伏見上皇、のち後伏見上皇の院政下にあった。

20歳(数え22歳)で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位。

「1331年元弘の乱で後醍醐天皇が鎌倉幕府に捕らえられ光厳天皇㉓即位。1333年鎌倉幕府滅亡し後醍醐天皇が復権。1336年北朝誕生」と、動乱の時代に突入する中、学問と文芸に取り組んだ。

1348年に51歳(数え52歳)で崩御。

1311年北条宗宣(むねのぶ)が第11代執権に、1312年北条煕時(ひろとき)が第12代執権に、1315年北条基時(もととき)が第13代執権に、1316年北条高時が第14代執権に就任。

1317年から1331年の間に吉田兼好の随筆『徒然草(つれづれぐさ)』成立と従来言われてきたが、最近は筆者の経歴ともども否定する説が強い。

『徒然草』冒頭

つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

(口語訳)することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、思わず熱中して異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ。

 

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(雑感)

 

今回のお題は6つ。

元寇について」

北条時宗について」

杜世忠について」

神風、日本神国論、ひいては皇国史観について」

『永仁の徳政令で問題が表面化したように、貨幣経済の進展により御家人が窮乏した。これが鎌倉幕府滅亡の一因となった』という唯物史観的な歴史評価について」

『徒然草』について」

 

このうち最初の5つは、「大事なことですのでお題にしましたが、難しくリスクが高いので、コメントできません」パターン。


『徒然草』だけコメントします。

 

『徒然草』を読んでいると「私とはストライクゾーンが違うなぁ」と感じます。

でも、唯一、素直に共感できたケースがあります。第109段です。

『徒然草』第109段あらすじ

木登り名人と言われた植木職人が、部下を指図して高い木に登らせて枝を切らせた。

高く登らせてとても危ないと見えた間は、何一つ声をかけてやろうとしなかった。

ところが、作業を終えた部下が木を降り始め、飛び降りても大丈夫なくらいの高さまで降りてきたとき、名人は「しくじるまいぞ!心して降りよ!」と部下に声をかけた。

「高いところ、危ないうちは、誰だって自分で気をつける。しかし、しくじりはもう安心と思った時に起きるものだ」と名人は語った。

 

これは共感できます。

油断大敵。

怒られるべき失敗は、大抵、「明らかに難しいテーマに懸命に取り組んだ」ときよりも、「それほど難しくないテーマだったが、しかし、油断があった。集中力が低下した。甘く考えていた」とき、起こります。

サンデーモーニングのスポーツコーナーで「喝!」と言われてしまうシーンも、大抵、こういうとき。

もちろん、私も、心掛けなきゃいけません。

このブログも、あとで誤字脱字や勘違いや記憶違いに気がついて慌てて編集すること、しょっちゅうです。

『徒然草』第109段、素晴らしいと思います。

 

第86代天皇 後堀河(ごほりかわ)天皇 1221年~1232年 なお、「㉚」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系30代遡る」という意味です。

茂仁王(とよひとおう)。高倉天皇㉚の第2皇子である守貞親王の第3皇子。

1212年生まれ。1221年承久の乱の後、幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇の子孫を皇位継承者から排除。残った世俗にある有資格者は茂仁王だけだったため、9歳(数え10歳)で即位。20歳(数え21歳)で譲位し院政を始めるが、22歳(数え23歳)で崩御。

※ 守貞親王 もりさだしんのう。安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇㉙の同母兄。1221年時点で既に出家しており子が即位、太上天皇と追尊され法皇として院政を布いた。1223年薨去したあとに後高倉院の院号が贈られた。

1224年北条泰時が第3代執権に就任。

1225年北条政子が数え69歳で没。

1226年九条頼経(くじょうよりつね)が鎌倉幕府第4代将軍に就任。

1227年チンギス・ハン(成吉思汗 チョン・ジー・スー・ハン)が65歳(?)で没。

1232年北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定。

 

 

第87代天皇 四条(しじょう)天皇 在位期間1232年~1242年

秀仁(みつひと)親王。後堀河天皇の第1皇子。

1231年生まれ。1歳8か月(数え2歳)で即位。

父上皇もまもなく崩御し、朝廷の実権は外戚・九条道家(くじょうみちいえ)に移った。これで道家は鎌倉将軍家(3男が第4代将軍・九条頼経)も天皇家外戚(娘の子が四条天皇)も手中に収める。

しかし、在位のまま10歳(数え12歳)で崩御。近習や女房を転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に敷石をまいたところ、誤って自ら転倒し、3日後に崩御したと言われている。

1234年モンゴル2代皇帝オゴタイ・ハンが金を滅ぼし華北を支配、1235年首都カラコルム建設。

1241年小倉百人一首の撰者で新古今和歌集の撰者の一人、藤原定家(ふじわらのさだいえorていか)が数え80歳で没。56年もつけた日記『明月記』には「かに星雲」となった超新星爆発の記録もあり、国宝。『土佐日記』の写本も原本直接書写として国宝。『源氏物語』『更級日記』の写本も有名。

★「権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)」名義の藤原定家の百人一首の第97

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ

こぬひとをまつほのうらのゆうなぎに、やくやもしおのみもこがれつつ。

 (口語訳) どれほど待っても来ない人を待ち焦がれているのは、松帆の浦の夕凪のころに焼かれる藻塩のように、わが身も恋い焦がれて苦しいものだ。

 

 

第88代天皇 後嵯峨(ごさが)天皇㉗ 在位期間1242年~1246年

邦仁(くにひと)親王。土御門天皇㉘の第2皇子。鎌倉幕府第6代将軍・宗尊(むねたか)親王&後深草天皇㉖&亀山天皇の父。

1220年生まれ。幕府(第3代執権北条泰時)の後押しにより、21歳(数え23歳)で即位。

25歳(数え27歳)で譲位し院政を布いた。

母親の身分が低い第1皇子・宗尊親王を鎌倉幕府第6代将軍にした。

皇后・西園寺姞子(さいおんじきつし。大宮院[おおみやいん]。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫)との間にもうけた子のうち兄・後深草上皇よりも弟・亀山天皇を寵愛し、亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子にして次の「治天の君」を定めないまま1272年に51歳(数え53歳)で崩御。大宮院が「その内意は、『次の治天の君は亀山天皇』だった」との旨幕府に伝えた。このことが持明院統(じみょういんとう。後深草天皇の子孫。北朝。現皇室はこちら)と大覚寺統(だいかくじとう。亀山天皇の子孫。南朝。南北朝時代に関して1911年[明治44年]正統とされたのはこちら)の分立を引き起こした

1242年北条経時(ほうじょうつねとき)が第4代執権に就任。

1244年九条頼嗣(くじょうよりつぐ)が鎌倉幕府第5代将軍に就任。

 

 

第89代天皇 後深草(ごふかくさ)天皇㉖ 在位期間1246年~1260年1月(旧暦11月)

久仁(ひさひと)親王。持明院統。後嵯峨天皇㉗の子。宗尊親王の異母弟、亀山天皇の同母兄。伏見天皇㉕&鎌倉幕府第8代将軍・久明親王の父。ちなみに「後深草」は第54代天皇・仁明天皇㊸の別称「深草帝」にちなむ。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。

1243年生まれ。2歳(数え4歳)で即位。

1252年異母兄・宗尊親王を鎌倉幕府第6代将軍に任命。

16歳(旧暦での数え17歳)で弟に譲位。伏見天皇の代に院政を始めたが2年で停止。

61歳(数え62歳)で崩御。

1246年北条経時の死を切っ掛けに宮騒動が起こるが、北条時頼が第5代執権に就任。同年九条道家が失脚。

1253年北条時頼が鎌倉に建長寺を創建(臨済宗)。

★鎌倉五山

  別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇

第一位 建長寺(けんちょうじ) 創立者:第5代執権・北条時頼

第二位 円覚寺(えんがくじ) 創立者:第8代執権・北条時宗

第三位 寿福寺(じゅふくじ) 創立者:北条政子

第四位 浄智寺(じょうちじ) 創立者:第10代執権・北条師時(ほうじょうもろとき)

第五位 浄妙寺(じょうみょうじ) 創立者:源頼朝に仕えた足利氏2代当主・足利義兼

(神奈川県鎌倉市にある、建長寺の、山門。「三門」ともいう。巨大地震や火災のため創建当時の建物は失われており、この山門は1775年に建てられたもの)

1254年日蓮が鎌倉で辻説法を開始したと言われている。

1256年北条時頼は赤痢にかかり、北条長時が第6代執権に就任。回復した時頼は出家し最明寺入道(さいみょうじのにゅうどう)を名乗る。

時頼が諸国を旅して民情視察を行ったという廻国(かいこく)伝説が生まれ、能の『鉢木(はちのき)』が有名。

『鉢木』は痛快娯楽時代劇『水戸黄門』の原型であり、痛快娯楽時代劇の原点である」と言われている。

『鉢木』あらすじ

一族のために領地を奪われた佐野源左衛門常代(さのげんざえもんつねよ)は、妻とわびしく暮らしている。大雪の夜、1人の旅僧(たびそう)を泊め、秘蔵の鉢の木の梅・桜・松を焚いてもてなし、いざ鎌倉というときは真っ先に馳せ参ずる決意を語る。

僧は実は諸国を旅して民情視察を行っていた最明寺入道(北条時頼)で、その非常招集に痩せた馬に鞭打ち、錆びた薙刀を持った源左衛門が真っ先に駆けつけてくる。時頼は源左衛門の誠忠をたたえて、旧領の回復とともに、いつぞやの一泊の礼として梅・桜・松の名のつく3領地(加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田)を与える。源左衛門は喜び勇んで故郷へ帰っていく。

 

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(雑感)

 

今日のお題は6つ。

 

藤原定家について」

藤原定家に関連して、『美』とはなにか?」

「禅について」

日蓮について」

 

『鉢木』について」

「痛快娯楽時代劇について」

 

このうち最初の4つは「大事なのでお題にはしましたが、難しくてリスクが高いので、コメントはできません」パターンです。

あとの2つ、少し話がそれるんですが、コメントします。

 

 

まず『鉢木』の方ですが、鉢木→植物を育てる→最近話題の植物栽培法の「凍結解凍覚醒法」、と飛びます。

 

テレビでも話題になった「凍結解凍覚醒法」、凄いですよね。

詳細はネットで検索してみて下さい。書くのも大変です。

この凍結解凍覚醒法で、ぜひ、臭いと言われるドリアンを我が家の庭に植えて育ててみたいです。

 

 

今のところ、実際に作ってらっしゃるのはもっぱらバナナみたいですね。あとはココナッツやパッションフルーツみたいです。

 

 

でも私はやっぱりドリアンですね。物心ついた頃から嗅覚がなくて、世界最強に臭い匂いが平気なんですから。

 

 

あとは、カカオの木も育ててみたいです。

 

 

我が家の庭でカカオを育て、豆からチョコレートを作る。やってみたいです。

 

 

あと、コーヒーの木も良いですね。

 

 

コーヒーは必需品ですからね。庭で育ててコーヒーを作れるならそうしてみたいです。


 

なんか、まだ全然ブームになってませんよね、凍結解凍覚醒法

まだ個人栽培向けの種子販売はやってないようですが、それこそ、大いにビジネスチャンスだと思うのです。

私が開発企業に積極参加したいくらいです。

早く個人栽培向けの種子販売をスタートして欲しいですね。

ドリアンを山のように作っちゃいたいです。

 

 

次に、「痛快娯楽時代劇」の方ですが、そこから離れて「よくある、放蕩息子を懲らしめるエピソード」→「勘違いしてあんな感じのことをしている、周囲にいる不快な人達へメッセージ」です。

痛快娯楽時代劇でよくある、放蕩息子を懲らしめるエピソード。

勘違いして、あんな感じのことをしてる人達が私の周囲にいます。

 

しかし、私は本当の「物心ついた頃から嗅覚がない、嗅覚障害者」「嗅覚障害を人生のテーマとして取り組んでいる人」ですよ。

 

ブログのプロフィールも、以前書いた「圧迫面接の一件」も本当のこと。

 

何度も書いている、「残念な感情、悔しい感情、そういう感情のエネルギーは、嗅覚障害に取り組むエネルギに変えて、嗅覚障害に取り組んでいる」というのも本当のこと。

 

何と言っても「物心ついた頃から全く嗅覚がない」ということが珍しいので、なかなか相互理解は難しい。

それはわかってるので、非常に不快でもひたすら「嗅覚障害に取り組むエネルギーに変え」まくってますが、嗅覚障害のこと、圧迫面接の一件、その他このブログに書いてあることが真実であること、したがって、当然これからも人生のテーマとして嗅覚障害に取り組むこと、これは改めてはっきり書いておきます。

 

第82代天皇 後鳥羽(ごとば)天皇㉙ 在位期間1183年~1198年 なお、「㉙」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系29代遡る」という意味です。

尊成(たかひらorたかなり)親王。高倉天皇㉚の第4皇子。安徳天皇の異母弟、守貞親王(後堀河天皇の父。後高倉院)の同母弟。土御門天皇㉘&順徳天皇の父。

1180年生まれ。3歳(数え4歳)のとき、安徳天皇が退位しないまま三種の神器なしで後白河法皇㉛の院宣(いんぜん)を受ける形式で即位したため、在位期間が2年間重複している。この「後鳥羽天皇の三種の神器なき即位」は評価が難しい。特に北畠親房(きたばたけちかふさ)『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』のような立場を採った場合に難しくなる。

※ 君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。その一方、宋学の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。

1185年源頼朝が守護と地頭を設置。近年はこれをもって鎌倉幕府成立とする説が有力。

1189年源義経が自害。享年数え31歳。奥州藤原氏滅亡。

1192年後白河法皇が64歳(数え66歳)で崩御。そののち朝廷では九条兼実(くじょうかねざね)が実権を握り、源頼朝を征夷大将軍に任命。

1196年九条兼実が失脚し、源通親(みなもとのみちちか。村上源氏の嫡流。北畠親房&顕家親子を輩出した北畠氏や、岩倉具視を輩出した岩倉氏は、通親の子孫である支流)が朝廷での実権を握った。同年永長地震(えいちょうじしん。東海&東南海巨大地震)が発生。

1198年17歳(数え19歳)で譲位し、1202年源通親が急死すると、後鳥羽上皇が朝廷での実権を握った。院政を布いて3代の天皇に君臨。貴族間の対立を解消、将軍・源実朝ともうまくいっていた。新古今和歌集の下命者であり、実際は後鳥羽上皇の親撰。

しかし北条家と対立。将軍後継問題からついに討幕を決意し1221年承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こすが、幕府軍に敗北し、隠岐に流された。同地で58歳(数え60歳)で崩御。

文武両道で才能豊かであったが、「三種の神器なき即位」「土御門天皇に譲位を迫るなどの専制君主的な振る舞い」「無謀な挙兵」のため、『神皇正統記』などでの評価は厳しい。

★「後鳥羽院」名義での後鳥羽上皇の百人一首の第99

人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

ひともおしひともうらめしあじきなく、よをおもうゆえにものおもうみは。

(口語訳)人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、(嘆かわしいことではあるが)それと言うのも、この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。

(解説)「あぢきなく」=つまらなく

1187年アイユーブ朝のサラディンがエルサレム王国を滅ぼし、1189年第3回十字軍が始まり、1192年休戦条約成立。十字軍遠征の結果ヨーロッパに堅牢な石造りの城塞建築が広まり、1189年ドーバー城が石造りで再建され、1198年頃ロンドン塔のホワイト・タワー完成。

 

 

第83代天皇 土御門(つちみかど)天皇㉘ 在位期間1198年~1210年

為仁(ためひと)親王。後鳥羽天皇㉙の第1皇子。順徳天皇の異母兄。後嵯峨天皇㉗の父。

1195年12月(旧暦11月)or1196年1月(旧暦12月)生まれ。2歳(旧暦での数え4歳)で即位。後鳥羽上皇の院政下にあった。

1199年2月9日源頼朝が51歳(数え53歳)で没。同年2月16日康和地震(こうわじしん。南海巨大地震)が発生。

1202年源頼家を鎌倉幕府第2代将軍に任命。1203年源実朝を鎌倉幕府第3代将軍に任命。同年北条時政が初代執権に就任。1205年北条義時が第2代執権に就任。

温厚な性格が「頼りない」という理由で、後鳥羽上皇から無理強いされて14歳or15歳(旧暦での数え16歳)で譲位。承久の乱に加わらなかったが、自分だけ京に残るのは忍びないという理由で、乱後自ら望んで土佐に流された。35歳(旧暦での数え37歳)で阿波で崩御。

その11年後に四条天皇が崩御すると、こうした事績&人柄が幕府に評価されて、子の後嵯峨天皇が皇位に就くこととなる。

源実朝の『金槐和歌集』の歌

大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

おおうみのいそもとどろによするなみ、われてくだけてさけてちるかも。

(口語訳)大海の磯を轟かすように寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて、散るものよ。

「鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)」名義での源実朝の百人一首の第93

世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも

よのなかはつねにもがもななぎさこぐ、あまのおぶねのつなでかなしも。

(口語訳)この世の中は、いつまでも変わらないでいてほしいものだ。渚にそって漕いでいる、漁師の小船をひき綱で引いている風情はいいものだからなぁ。

1200年頃ヨーロッパではロマネスク美術の最盛期。

 

1200年南宋(なんそう ナン・ソン)の儒学者(じゅがくしゃ ルー・シュエ・ヂャ)で朱子学(しゅしがく チュー・ズ・シュエ)の祖・朱熹(しゅき チュー・シー。朱子は尊称)没。

『朱子語類 学二』の「精神一到何事か成らざらん。(口語訳)精神を集中して物事に当たればどんな難しい事柄でもできないことはない」が有名。

なお、下記の漢詩は明治時代に朱熹『偶成(ぐうせい)』とされていた。

少年易老學難成、

一寸光陰不可輕

しょうねんおいやすくがくなりがたし、

いっすんのこういんかろんずべからず。

(口語訳)若者はあっという間に年をとってしまい学問はなかなか完成しにくい、だから少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。

しかし、最近は室町時代の臨済宗の僧・観中中諦(かんちゅうちゅうたい)『進学斎』という漢詩であるという説が有力。

 

1206年モンゴル族の族長テムジンが部族長会議の決定によりチンギス・ハン(成吉思汗 チョン・ジー・スー・ハン)の称号を受け取り、モンゴル帝国が成立する。

 

 

第84代天皇 順徳(じゅんとく)天皇 在位期間1210年~1221年

守成(もりなり)親王。後鳥羽天皇㉙の第3皇子。土御門天皇㉘の異母弟。仲恭天皇の父。

1197年生まれ。13歳(数え14歳)で即位。1183年の平家の都落ちで三種の神器が持ち出される1か月前に伊勢神宮から献上された剣があり、順徳天皇が皇位に就くにあたり後鳥羽上皇によってこの剣が2代目の天叢雲剣(草薙剣)の形代とされた。壇ノ浦に沈んだ宝剣は、ついに見つからなかった。

後鳥羽上皇の院政下にあったため、文芸方面に取り組み、優れた歌人でもあった。

1219年源実朝が暗殺される。

討幕運動には父以上に熱心であったと言われ、承久の乱の直前に乱に備えて23歳(数え25歳)で譲位。しかし敗れて佐渡に流された。

44歳(数え46歳)で崩御。

★「順徳院」名義での順徳天皇の百人一首の第100

ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

ももしきやふるきのきばのしのぶにも、なおあまりあるむかしなりけり。

(口語訳)御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、(朝廷の栄えた)昔が懐かしく思われて、いくら偲んでも偲びきれないことだ。

1212年鴨長明の随筆『方丈記』成立。

『方丈記』冒頭

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

(口語訳)流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいてそこを流れる水はもとの水ではない。河の流れのよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消えてなくなり一方では形ができたりして、長い間そのままの状態でとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所とは、またこの流れと泡のようである。

1211年チンギス・ハン率いるモンゴル帝国の征服戦争が本格化。まず金を攻撃し1215年中都(燕京。現在の北京[ぺきん ベイ・ジン])を陥落させる。1218年西遼(せいりょう。カラ・キタイ)滅亡。1219年~1225年大西征。ホラズムを滅ぼし、アフガニスタンの各都市を破壊、南はインダス川、西はクリミア半島まで侵攻したのち引き上げた。

「このとき耶律楚材(やりつそざい)がチンギス・ハンに見いだされて側近になった。耶律楚材は『征服したのちは、国を豊かにし、民の生活を豊かにしなければならない。そうすれば民は従う』旨、チンギス・ハンに説き、これに感心したチンギス・ハンは耶律楚材を重く用いた」というエピソードが流布されている。

しかし、史実の耶律楚材はそれほどの側近ではなかったという説が有力。

 

 

第85代天皇 仲恭(ちゅうきょう)天皇 在位期間1221年

懐成(かねなり)親王。順徳天皇の第4皇子。

1218年生まれ。1221年5月13日(承久3年4月20日)承久の乱直前に2歳(数え4歳)で即位。同月、後鳥羽上皇は兵を集め執権・北条義時追討の院宣を発するが、鎌倉では北条政子が演説して御家人が結集。総大将・北条泰時率いる幕府軍は、鎌倉を出たとき18騎だったが最終的に総勢19万騎にまでに膨れ上がり(『吾妻鏡』)、6月の宇治川の戦いで朝廷軍は敗北。幕府の手で7月29日(承久3年7月9日)歴代最年少で退位させられた。在位わずか78日で在位期間も歴代最短。上皇になれず、九条廃帝と呼ばれた。15歳(数え17歳)で崩御。

明治になって弘文天皇と共に天皇の列に加わり、仲恭天皇と名付けられた。

 

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(雑感)

 

時代は大きく動きました。おかげで今回のお題は9つ。

まず8つ。

 

源頼朝をどう評価すべきか?

源義経をどう評価すべきか?

「武家政権をどう評価すべきか?」

「後鳥羽天皇の三種の神器なき即位をどう評価すべきか?」

「承久の乱をどう評価すべきか?」

北条氏政権をどう評価すべきか?

「朱子学について」

耶律楚材について

 

そして、8つとも、「大事なことですから、お題には取り上げます。しかし、難しくてリスクが高いですから、コメントはできません」が答えです。


 

さて、残る9つ目のお題は「」です。

良いですよねー、

私はエメラルドグリーンの海が好きです。


 

源実朝の有名な歌のような、男っぽい海も良いんですけどね。

 

 

あの実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」って歌、史上屈指の「男っぽい歌」だと思いませんか?

いわゆる「万葉調」「ますらおぶり(益荒男振)」ってやつですよね。

なんてったって、

 

われて、

 

くだけて、

 

裂けて、

 

散るかも!

 

ってところが素晴らしいですよね。男っぽい歌として、もちろん私も素晴らしいと思ってます。

 

 

ただ、実際に荒れた海でこういうシーンを見たこともあるんですが、正直、「怖い」「こわーい」ものです。東日本大震災の津波の記憶もあって、「なんかやっぱ、静かな海の方が良いなぁ」と思えるのです。

そうすると、いわゆる「古今調」「たおやめぶり(手弱女振)」?

ま、それは棚上げしときます。

 

 

とにかく、穏やかなエメラルドグリーンの海へ行ってのんびりしたいです。