第90代天皇 亀山(かめやま)天皇 在位期間1260年1月(旧暦11月)~1274年 なお、「㉗」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系27代遡る」という意味です。
恒仁(つねひと)親王。大覚寺統。後嵯峨天皇㉗の第7皇子。宗尊親王(鎌倉幕府第6代将軍)の異母弟、後深草天皇㉖の同母弟。後宇多天皇の父。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。
1249年生まれ。両親から寵愛され、兄からの譲位を受ける形で10歳(旧暦での数え11歳)で即位。
父上皇は亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子にして次の「治天の君」を定めないまま1272年に崩御、母・大宮院が「その内意は、『次の治天の君は亀山天皇』だった」との旨幕府に伝えた。このことが持明院統と大覚寺統の両統迭立を招いた。
24歳(数え26歳)で譲位し、院政を布いた。
元寇の際に後宇多天皇と共に「身を以って国難に代える祈願」と伊勢神宮に願文(がんもん)を残している。この「身」は亀山上皇なのか後宇多天皇なのかが大正年間に論争となり未決着だという。
また、元寇の際に「敵國降伏」を祈願し、筥崎宮(はこざきぐう。現、福岡県福岡市東区)の楼門に「敵國降伏」の額が掲げられた。現在の額は2003年(平成15年)に復元作成されたもの。
(筥崎宮の楼門、そして「敵國降伏」の額)
しかし、1285年の霜月騒動で滅ぼされた安達泰盛(あだちやすもり)と協調路線をとっていたため、幕府との関係が悪化。さらに、幕府は持明院統と接近することとなり、持明院統と大覚寺統の分立が深刻化した。
法皇となってから1291年南禅寺(京都五山別格&鎌倉五山別格)を創建。56歳(数え57歳)で崩御。
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1263年北条時頼が36歳(数え37歳)で没。
1264年北条政村が第7代執権に就任。
同年モンゴル帝国5代皇帝フビライ・ハンが首都を大都(現、北京[ぺきん ベイ・ジン])に置く。
1266年宗尊親王の嫡男・維康王(これやすおう)を鎌倉幕府第7代将軍に任命(1270年臣籍降下して源維康[みなもとのこれやす]となる。1287年親王となる)。
1268年1月フビライの使者が来日、同年3月北条時宗が第8代執権に就任。
1271年9月日蓮の龍ノ口法難の伝承。
同年11月フビライが国号を「元(げん ユゥエン)」と定める。
第91代天皇 後宇多(ごうだ)天皇 在位期間1274年~1287年
世仁(よひと)親王。大覚寺統。亀山天皇の第2皇子。後二条天皇&後醍醐天皇の父。
1267年生まれ。6歳(数え8歳)で即位、亀山上皇の院政下にあった。治世中に2度の元寇(文永の役、弘安の役)があった。
19歳(数え21歳)で持明院統へ譲位。
後二条天皇の代に院政を布いた。
後醍醐天皇が即位すると再び院政を始めたが3年で停止。
56歳(数え58歳)で崩御。
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1274年文永の役。
1275年元の正使としてモンゴル人の杜世忠(とせいちゅう ドゥー・シー・ヂョン)・ウイグル人2名・唐人1名・高麗人1名の計5名が来日するが、北条時宗は鎌倉龍ノ口で斬首にした。杜世忠は、李白(りはく リー・バイ)の漢詩を踏まえた辞世の句を残した。
★李白の七言絶句『別内赴徴三首 其二(ビエ・ネイ・フー・チョン・サン・ショウ チー・アール うちにわかれてちょうにおもむくさんしゅ・そのに) (意訳)妻子と別れて出世のため都に赴くときに詠んだ3首その2』
出門妻子強牽衣 チュー・メン・チー・ズ・チャン・チエン・イー
問我西行幾日歸 ウェン・ウォ・シー・シン・ジー・リー・グイ
來時儻佩黄金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン
莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー
門を出ずれば妻子強く衣を牽き(もんをいずればさいしつよくいをひき)、
我に問う、西行幾日か帰ると(われにとう、さいこういくにちかかえると)。
来る時儻し黄金の印を佩ぶれば(きたるときもしおうごんのいんをおぶれば)、
蘇秦が機を下られざるを見る莫からん(そしんがきをくだられざるをみるなからん)。
(意訳)門を出ると、妻子は私の袖や衣にすがりついてきた。
そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。
そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、
蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。
(解説)742年、李白が数え42歳のとき、離れ離れに暮らしていた妻子と一緒に暮らすため妻子の住む街に向かうが、その途中で唐の都・長安での出世話が舞い込んだため、妻子に会ってすぐ一人で長安に向かうことになった。妻と子(数え10歳の娘と数え7歳の息子)は別れを悲しんだが、李白は意気揚々と明るくユーモアを交えて答えた。
蘇秦(そしん スー・チン。生年不詳~紀元前317年?没)は戦国時代(せんごくじだい チャン・グオ・シー・ダイ。紀元前453年or紀元前403年~紀元前221年)の縦横家(じゅうおうか ゾン・ハン・ジャー)。合従策(がっしょうさく フー・ツォン・ツー)、故事成語「鶏口牛後(けいこうぎゅうご ジー・コウ・ニィウ・ホウ。鶏口となるも牛後となるなかれ) (意味)大きな集団の中で尻にいて使われるよりも、小さな集団であっても長となる方が良い」で有名。若い頃出世できず郷里に帰ったら、妻は機織りの手を休めず出迎えもしないなど、家族から冷たい仕打ちを受けたという故事に基づいている。
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そして、杜世忠の辞世の句は、この李白の漢詩を二文字だけ変えたもの。
★杜世忠の辞世の句
出門妻子贈寒衣 チュー・メン・チー・ズ・ツン・ハン・イー
問我西行幾日歸 ウェン・ウォ・シー・シン・ジー・リー・グイ
來時儻佩黄金印 ライ・シー・タン・ペイ・ホゥアン・ジン・イン
莫見蘇秦不下機 モー・ジィエン・スー・チン・ブー・シィア・チー
門を出ずれば妻子は寒衣を贈り(もんをいずればさいしはかんいをおくり)、
我に問う、西行幾日か帰ると。
来る時儻し黄金の印を佩ぶれば、
蘇秦が機を下られざるを見る莫からん。
(意訳)門を出ると、妻子は寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。
そして「都に行ったらいつ帰ってくるの?」と尋ねた。
そこで「もし、帰って来たとき、出世して黄金の印綬を帯びていたら、
蘇秦の妻は機織りして出迎えなかった故事を学んで出迎えてくれ」と明るくユーモアを交えて答えた。
(解説)出世して家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念の思いが伝わる。神奈川県藤沢市の常立寺(じょうりゅうじ)には杜世忠らを弔う元使塚があり、2005年(平成17年)には朝青龍や白鵬らモンゴル出身力士が参拝。その後も毎年藤沢巡業の際にモンゴル出身力士が参拝するようになった。2007年(平成19年)には来日したモンゴル大統領夫妻も参拝している。
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1279年元のフビライが南宋を滅ぼす。
1281年弘安の役。
1284年北条時宗が32歳(数え34歳)で病没し北条貞時が第9代執権に就任。
1285年霜月騒動が起こり、安達泰盛ら有力御家人が平頼綱(たいらのよりつな)率いる御内人(みうちびと)勢力に滅ぼされる。
第92代天皇 伏見(ふしみ)天皇㉕ 在位期間1287年~1298年
煕仁(ひろひと)親王。持明院統。後深草天皇㉖の第2皇子。後伏見天皇㉔&花園天皇の父。
1265年生まれ。22歳(数え23歳)で即位。
当初は後深草上皇の院政下にあったが2年で停止、以後は親政を開始。
1289年弟・久明(ひさあき)親王を鎌倉幕府第8代将軍に任命。
33歳(数え34歳)で子の胤仁(たねひと)親王(後伏見天皇)に譲位し院政を布いた。
花園天皇の代に再び院政を布いた。
52歳(数え53歳)で崩御。
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1291年スイス連邦の原型である原初同盟が結成される。ウィリアム・テルの伝説はこの時代が舞台。
1293年鎌倉大地震が発生、この混乱に乗じて執権北条貞時が内管領(ないかんれい)・平頼綱を滅ぼす(平禅門の乱[へいぜんもんのらん])。
1294年フビライ・ハン没。
1297年永仁の徳政令。
第93代天皇 後伏見(ごふしみ)天皇㉔ 在位期間1298年~1301年
胤仁(たねひと)親王。持明院統。伏見天皇㉕の第1皇子。花園天皇の異母兄。光厳天皇㉓&光明天皇の父。
1288年生まれ。10歳(数え11歳)で即位。伏見上皇の院政下にあった。
12歳(数え14歳)で大覚寺統の後二条天皇へ譲位。
弟・花園天皇が即位すると父・伏見上皇が再び院政を始めたが、父の出家にともない代わって後伏見上皇が院政を布いた。
1331年元弘の乱で後醍醐天皇が幕府に捕らえられ光厳天皇が即位すると再び院政を布いたが、1333年鎌倉幕府が滅亡すると出家した。
1336年に48歳(数え49歳)で崩御。
なお、1306年に後伏見上皇の女御(にょうご。夫がすでに上皇なので皇后・中宮を名乗れなかっただけで、立場的には正室)となっていた西園寺寧子(さいおんじねいしorやすこ。広義門院)は、こののち、1352年に日本史上唯一の「女性の治天の君」となる。南北朝騒乱のさなか、正平一統で、「孫の弥仁(やひと)親王(後光厳天皇)を即位させなければならない。しかし、三種の神器も三上皇(光厳、光明、崇光)も南朝に奪われた」という窮地を脱する解決策としてだった。広義門院はこのあと1357年に数え66歳で没するまで精力的に政務に取り組み、単なるお飾りではない、まさに「治天の君」だったという。
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1299年オスマン・ベイ(オスマン1世)がオスマン帝国(~1922年)を建国。
第94代天皇 後二条(ごにじょう)天皇 在位期間1301年~1308年
邦治(くにはる)親王。大覚寺統。後宇多天皇の第1皇子。後醍醐天皇の異母兄。
1285年生まれ。15歳(数え17歳)で即位、後宇多上皇の院政下にあった。
在位のまま23歳(数え24歳)で崩御。
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1301年北条師時(ほうじょうもろとき)が第10代執権に就任。
1308年守邦(もりくに)親王が鎌倉幕府第9代将軍に就任。
第95代天皇 花園(はなぞの)天皇 在位期間1308年~1318年
富仁(とみひと)親王。持明院統。伏見天皇㉕の第3皇子。後伏見天皇㉔の異母弟。
1297年生まれ。11歳(数え12歳)で即位。はじめ伏見上皇、のち後伏見上皇の院政下にあった。
20歳(数え22歳)で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位。
「1331年元弘の乱で後醍醐天皇が鎌倉幕府に捕らえられ光厳天皇㉓即位。1333年鎌倉幕府滅亡し後醍醐天皇が復権。1336年北朝誕生」と、動乱の時代に突入する中、学問と文芸に取り組んだ。
1348年に51歳(数え52歳)で崩御。
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1311年北条宗宣(むねのぶ)が第11代執権に、1312年北条煕時(ひろとき)が第12代執権に、1315年北条基時(もととき)が第13代執権に、1316年北条高時が第14代執権に就任。
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1317年から1331年の間に吉田兼好の随筆『徒然草(つれづれぐさ)』成立と従来言われてきたが、最近は筆者の経歴ともども否定する説が強い。
★『徒然草』冒頭
つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
(口語訳)することもなく手持ちぶさたなのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくとりとめもないことを、あてもなく書きつけていると、思わず熱中して異常なほど、狂ったような気持ちになるものだ。
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(雑感)
今回のお題は6つ。
「元寇について」
「北条時宗について」
「杜世忠について」
「神風、日本神国論、ひいては皇国史観について」
「『永仁の徳政令で問題が表面化したように、貨幣経済の進展により御家人が窮乏した。これが鎌倉幕府滅亡の一因となった』という唯物史観的な歴史評価について」
「『徒然草』について」
このうち最初の5つは、「大事なことですのでお題にしましたが、難しくリスクが高いので、コメントできません」パターン。
『徒然草』だけコメントします。
『徒然草』を読んでいると「私とはストライクゾーンが違うなぁ」と感じます。
でも、唯一、素直に共感できたケースがあります。第109段です。
★『徒然草』第109段あらすじ
木登り名人と言われた植木職人が、部下を指図して高い木に登らせて枝を切らせた。
高く登らせてとても危ないと見えた間は、何一つ声をかけてやろうとしなかった。
ところが、作業を終えた部下が木を降り始め、飛び降りても大丈夫なくらいの高さまで降りてきたとき、名人は「しくじるまいぞ!心して降りよ!」と部下に声をかけた。
「高いところ、危ないうちは、誰だって自分で気をつける。しかし、しくじりはもう安心と思った時に起きるものだ」と名人は語った。
これは共感できます。
油断大敵。
怒られるべき失敗は、大抵、「明らかに難しいテーマに懸命に取り組んだ」ときよりも、「それほど難しくないテーマだったが、しかし、油断があった。集中力が低下した。甘く考えていた」とき、起こります。
サンデーモーニングのスポーツコーナーで「喝!」と言われてしまうシーンも、大抵、こういうとき。
もちろん、私も、心掛けなきゃいけません。
このブログも、あとで誤字脱字や勘違いや記憶違いに気がついて慌てて編集すること、しょっちゅうです。
『徒然草』第109段、素晴らしいと思います。




































