第86代天皇 後堀河(ごほりかわ)天皇 1221年~1232年 なお、「㉚」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系30代遡る」という意味です。
茂仁王(とよひとおう)。高倉天皇㉚の第2皇子である守貞親王※の第3皇子。
1212年生まれ。1221年承久の乱の後、幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇の子孫を皇位継承者から排除。残った世俗にある有資格者は茂仁王だけだったため、9歳(数え10歳)で即位。20歳(数え21歳)で譲位し院政を始めるが、22歳(数え23歳)で崩御。
※ 守貞親王 もりさだしんのう。安徳天皇の異母弟、後鳥羽天皇㉙の同母兄。1221年時点で既に出家しており子が即位、太上天皇と追尊され法皇として院政を布いた。1223年薨去したあとに後高倉院の院号が贈られた。
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1224年北条泰時が第3代執権に就任。
1225年北条政子が数え69歳で没。
1226年九条頼経(くじょうよりつね)が鎌倉幕府第4代将軍に就任。
1227年チンギス・ハン(成吉思汗 チョン・ジー・スー・ハン)が65歳(?)で没。
1232年北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定。
第87代天皇 四条(しじょう)天皇 在位期間1232年~1242年
秀仁(みつひと)親王。後堀河天皇の第1皇子。
1231年生まれ。1歳8か月(数え2歳)で即位。
父上皇もまもなく崩御し、朝廷の実権は外戚・九条道家(くじょうみちいえ)に移った。これで道家は鎌倉将軍家(3男が第4代将軍・九条頼経)も天皇家外戚(娘の子が四条天皇)も手中に収める。
しかし、在位のまま10歳(数え12歳)で崩御。近習や女房を転ばせて楽しもうと試みて御所の廊下に敷石をまいたところ、誤って自ら転倒し、3日後に崩御したと言われている。
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1234年モンゴル2代皇帝オゴタイ・ハンが金を滅ぼし華北を支配、1235年首都カラコルム建設。
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1241年小倉百人一首の撰者で新古今和歌集の撰者の一人、藤原定家(ふじわらのさだいえorていか)が数え80歳で没。56年もつけた日記『明月記』には「かに星雲」となった超新星爆発の記録もあり、国宝。『土佐日記』の写本も原本直接書写として国宝。『源氏物語』『更級日記』の写本も有名。
★「権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)」名義の藤原定家の百人一首の第97
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
こぬひとをまつほのうらのゆうなぎに、やくやもしおのみもこがれつつ。
(口語訳)どれほど待っても来ない人を待ち焦がれているのは、松帆の浦の夕凪のころに焼かれる藻塩のように、わが身も恋い焦がれて苦しいものだ。
第88代天皇 後嵯峨(ごさが)天皇㉗ 在位期間1242年~1246年
邦仁(くにひと)親王。土御門天皇㉘の第2皇子。鎌倉幕府第6代将軍・宗尊(むねたか)親王&後深草天皇㉖&亀山天皇の父。
1220年生まれ。幕府(第3代執権北条泰時)の後押しにより、21歳(数え23歳)で即位。
25歳(数え27歳)で譲位し院政を布いた。
母親の身分が低い第1皇子・宗尊親王を鎌倉幕府第6代将軍にした。
皇后・西園寺姞子(さいおんじきつし。大宮院[おおみやいん]。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫)との間にもうけた子のうち兄・後深草上皇よりも弟・亀山天皇を寵愛し、亀山天皇の子(後宇多天皇)を皇太子にして次の「治天の君」を定めないまま1272年に51歳(数え53歳)で崩御。大宮院が「その内意は、『次の治天の君は亀山天皇』だった」との旨幕府に伝えた。このことが持明院統(じみょういんとう。後深草天皇の子孫。北朝。現皇室はこちら)と大覚寺統(だいかくじとう。亀山天皇の子孫。南朝。南北朝時代に関して1911年[明治44年]正統とされたのはこちら)の分立を引き起こした。
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1242年北条経時(ほうじょうつねとき)が第4代執権に就任。
1244年九条頼嗣(くじょうよりつぐ)が鎌倉幕府第5代将軍に就任。
第89代天皇 後深草(ごふかくさ)天皇㉖ 在位期間1246年~1260年1月(旧暦11月)
久仁(ひさひと)親王。持明院統。後嵯峨天皇㉗の子。宗尊親王の異母弟、亀山天皇の同母兄。伏見天皇㉕&鎌倉幕府第8代将軍・久明親王の父。ちなみに「後深草」は第54代天皇・仁明天皇㊸の別称「深草帝」にちなむ。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。
1243年生まれ。2歳(数え4歳)で即位。
1252年異母兄・宗尊親王を鎌倉幕府第6代将軍に任命。
16歳(旧暦での数え17歳)で弟に譲位。伏見天皇の代に院政を始めたが2年で停止。
61歳(数え62歳)で崩御。
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1246年北条経時の死を切っ掛けに宮騒動が起こるが、北条時頼が第5代執権に就任。同年九条道家が失脚。
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1253年北条時頼が鎌倉に建長寺を創建(臨済宗)。
★鎌倉五山
別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇
第一位 建長寺(けんちょうじ) 創立者:第5代執権・北条時頼
第二位 円覚寺(えんがくじ) 創立者:第8代執権・北条時宗
第三位 寿福寺(じゅふくじ) 創立者:北条政子
第四位 浄智寺(じょうちじ) 創立者:第10代執権・北条師時(ほうじょうもろとき)
第五位 浄妙寺(じょうみょうじ) 創立者:源頼朝に仕えた足利氏2代当主・足利義兼
(神奈川県鎌倉市にある、建長寺の、山門。「三門」ともいう。巨大地震や火災のため創建当時の建物は失われており、この山門は1775年に建てられたもの)
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1254年日蓮が鎌倉で辻説法を開始したと言われている。
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1256年北条時頼は赤痢にかかり、北条長時が第6代執権に就任。回復した時頼は出家し最明寺入道(さいみょうじのにゅうどう)を名乗る。
時頼が諸国を旅して民情視察を行ったという廻国(かいこく)伝説が生まれ、能の『鉢木(はちのき)』が有名。
「『鉢木』は痛快娯楽時代劇『水戸黄門』の原型であり、痛快娯楽時代劇の原点である」と言われている。
★『鉢木』あらすじ
一族のために領地を奪われた佐野源左衛門常代(さのげんざえもんつねよ)は、妻とわびしく暮らしている。大雪の夜、1人の旅僧(たびそう)を泊め、秘蔵の鉢の木の梅・桜・松を焚いてもてなし、いざ鎌倉というときは真っ先に馳せ参ずる決意を語る。
僧は実は諸国を旅して民情視察を行っていた最明寺入道(北条時頼)で、その非常招集に痩せた馬に鞭打ち、錆びた薙刀を持った源左衛門が真っ先に駆けつけてくる。時頼は源左衛門の誠忠をたたえて、旧領の回復とともに、いつぞやの一泊の礼として梅・桜・松の名のつく3領地(加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田)を与える。源左衛門は喜び勇んで故郷へ帰っていく。
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(雑感)
今日のお題は6つ。
「藤原定家について」
「藤原定家に関連して、『美』とはなにか?」
「禅について」
「日蓮について」
「『鉢木』について」
「痛快娯楽時代劇について」
このうち最初の4つは「大事なのでお題にはしましたが、難しくてリスクが高いので、コメントはできません」パターンです。
あとの2つ、少し話がそれるんですが、コメントします。
まず『鉢木』の方ですが、鉢木→植物を育てる→最近話題の植物栽培法の「凍結解凍覚醒法」、と飛びます。
テレビでも話題になった「凍結解凍覚醒法」、凄いですよね。
詳細はネットで検索してみて下さい。書くのも大変です。
この凍結解凍覚醒法で、ぜひ、臭いと言われるドリアンを我が家の庭に植えて育ててみたいです。
今のところ、実際に作ってらっしゃるのはもっぱらバナナみたいですね。あとはココナッツやパッションフルーツみたいです。
でも私はやっぱりドリアンですね。物心ついた頃から嗅覚がなくて、世界最強に臭い匂いが平気なんですから。
あとは、カカオの木も育ててみたいです。
我が家の庭でカカオを育て、豆からチョコレートを作る。やってみたいです。
あと、コーヒーの木も良いですね。
コーヒーは必需品ですからね。庭で育ててコーヒーを作れるならそうしてみたいです。
なんか、まだ全然ブームになってませんよね、凍結解凍覚醒法。
まだ個人栽培向けの種子販売はやってないようですが、それこそ、大いにビジネスチャンスだと思うのです。
私が開発企業に積極参加したいくらいです。
早く個人栽培向けの種子販売をスタートして欲しいですね。
ドリアンを山のように作っちゃいたいです。
次に、「痛快娯楽時代劇」の方ですが、そこから離れて「よくある、放蕩息子を懲らしめるエピソード」→「勘違いしてあんな感じのことをしている、周囲にいる不快な人達へメッセージ」です。
痛快娯楽時代劇でよくある、放蕩息子を懲らしめるエピソード。
勘違いして、あんな感じのことをしてる人達が私の周囲にいます。
しかし、私は本当の「物心ついた頃から嗅覚がない、嗅覚障害者」「嗅覚障害を人生のテーマとして取り組んでいる人」ですよ。
ブログのプロフィールも、以前書いた「圧迫面接の一件」も本当のこと。
何度も書いている、「残念な感情、悔しい感情、そういう感情のエネルギーは、嗅覚障害に取り組むエネルギに変えて、嗅覚障害に取り組んでいる」というのも本当のこと。
何と言っても「物心ついた頃から全く嗅覚がない」ということが珍しいので、なかなか相互理解は難しい。
それはわかってるので、非常に不快でもひたすら「嗅覚障害に取り組むエネルギーに変え」まくってますが、嗅覚障害のこと、圧迫面接の一件、その他このブログに書いてあることが真実であること、したがって、当然これからも人生のテーマとして嗅覚障害に取り組むこと、これは改めてはっきり書いておきます。
















