第82代天皇 後鳥羽(ごとば)天皇㉙ 在位期間1183年~1198年 なお、「㉙」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系29代遡る」という意味です。
尊成(たかひらorたかなり)親王。高倉天皇㉚の第4皇子。安徳天皇の異母弟、守貞親王(後堀河天皇の父。後高倉院)の同母弟。土御門天皇㉘&順徳天皇の父。
1180年生まれ。3歳(数え4歳)のとき、安徳天皇が退位しないまま三種の神器なしで後白河法皇㉛の院宣(いんぜん)を受ける形式で即位したため、在位期間が2年間重複している。この「後鳥羽天皇の三種の神器なき即位」は評価が難しい。特に北畠親房(きたばたけちかふさ)の『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』のような立場※を採った場合に難しくなる。
※ 君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。その一方、宋学の影響を受け、血統の他に有徳を強調している。
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1185年源頼朝が守護と地頭を設置。近年はこれをもって鎌倉幕府成立とする説が有力。
1189年源義経が自害。享年数え31歳。奥州藤原氏滅亡。
1192年後白河法皇が64歳(数え66歳)で崩御。そののち朝廷では九条兼実(くじょうかねざね)が実権を握り、源頼朝を征夷大将軍に任命。
1196年九条兼実が失脚し、源通親(みなもとのみちちか。村上源氏の嫡流。北畠親房&顕家親子を輩出した北畠氏や、岩倉具視を輩出した岩倉氏は、通親の子孫である支流)が朝廷での実権を握った。同年永長地震(えいちょうじしん。東海&東南海巨大地震)が発生。
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1198年17歳(数え19歳)で譲位し、1202年源通親が急死すると、後鳥羽上皇が朝廷での実権を握った。院政を布いて3代の天皇に君臨。貴族間の対立を解消、将軍・源実朝ともうまくいっていた。新古今和歌集の下命者であり、実際は後鳥羽上皇の親撰。
しかし北条家と対立。将軍後継問題からついに討幕を決意し1221年承久の乱(じょうきゅうのらん)を起こすが、幕府軍に敗北し、隠岐に流された。同地で58歳(数え60歳)で崩御。
文武両道で才能豊かであったが、「三種の神器なき即位」「土御門天皇に譲位を迫るなどの専制君主的な振る舞い」「無謀な挙兵」のため、『神皇正統記』などでの評価は厳しい。
★「後鳥羽院」名義での後鳥羽上皇の百人一首の第99
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は
ひともおしひともうらめしあじきなく、よをおもうゆえにものおもうみは。
(口語訳)人が愛しくも思われ、また恨めしく思われたりするのは、(嘆かわしいことではあるが)それと言うのも、この世をつまらなく思う、もの思いをする自分にあるのだなぁ。
(解説)「あぢきなく」=つまらなく
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1187年アイユーブ朝のサラディンがエルサレム王国を滅ぼし、1189年第3回十字軍が始まり、1192年休戦条約成立。十字軍遠征の結果ヨーロッパに堅牢な石造りの城塞建築が広まり、1189年ドーバー城が石造りで再建され、1198年頃ロンドン塔のホワイト・タワー完成。
第83代天皇 土御門(つちみかど)天皇㉘ 在位期間1198年~1210年
為仁(ためひと)親王。後鳥羽天皇㉙の第1皇子。順徳天皇の異母兄。後嵯峨天皇㉗の父。
1195年12月(旧暦11月)or1196年1月(旧暦12月)生まれ。2歳(旧暦での数え4歳)で即位。後鳥羽上皇の院政下にあった。
1199年2月9日源頼朝が51歳(数え53歳)で没。同年2月16日康和地震(こうわじしん。南海巨大地震)が発生。
1202年源頼家を鎌倉幕府第2代将軍に任命。1203年源実朝を鎌倉幕府第3代将軍に任命。同年北条時政が初代執権に就任。1205年北条義時が第2代執権に就任。
温厚な性格が「頼りない」という理由で、後鳥羽上皇から無理強いされて14歳or15歳(旧暦での数え16歳)で譲位。承久の乱に加わらなかったが、自分だけ京に残るのは忍びないという理由で、乱後自ら望んで土佐に流された。35歳(旧暦での数え37歳)で阿波で崩御。
その11年後に四条天皇が崩御すると、こうした事績&人柄が幕府に評価されて、子の後嵯峨天皇が皇位に就くこととなる。
★源実朝の『金槐和歌集』の歌
大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも
おおうみのいそもとどろによするなみ、われてくだけてさけてちるかも。
(口語訳)大海の磯を轟かすように寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて、散るものよ。
★「鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)」名義での源実朝の百人一首の第93
世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも
よのなかはつねにもがもななぎさこぐ、あまのおぶねのつなでかなしも。
(口語訳)この世の中は、いつまでも変わらないでいてほしいものだ。渚にそって漕いでいる、漁師の小船をひき綱で引いている風情はいいものだからなぁ。
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1200年頃ヨーロッパではロマネスク美術の最盛期。
1200年南宋(なんそう ナン・ソン)の儒学者(じゅがくしゃ ルー・シュエ・ヂャ)で朱子学(しゅしがく チュー・ズ・シュエ)の祖・朱熹(しゅき チュー・シー。朱子は尊称)没。
『朱子語類 学二』の「精神一到何事か成らざらん。(口語訳)精神を集中して物事に当たればどんな難しい事柄でもできないことはない」が有名。
なお、下記の漢詩は明治時代に朱熹の『偶成(ぐうせい)』とされていた。
少年易老學難成、
一寸光陰不可輕
しょうねんおいやすくがくなりがたし、
いっすんのこういんかろんずべからず。
(口語訳)若者はあっという間に年をとってしまい学問はなかなか完成しにくい、だから少しの時間でも軽々しく過ごしてはならない。
しかし、最近は室町時代の臨済宗の僧・観中中諦(かんちゅうちゅうたい)の『進学斎』という漢詩であるという説が有力。
1206年モンゴル族の族長テムジンが部族長会議の決定によりチンギス・ハン(成吉思汗 チョン・ジー・スー・ハン)の称号を受け取り、モンゴル帝国が成立する。
第84代天皇 順徳(じゅんとく)天皇 在位期間1210年~1221年
守成(もりなり)親王。後鳥羽天皇㉙の第3皇子。土御門天皇㉘の異母弟。仲恭天皇の父。
1197年生まれ。13歳(数え14歳)で即位。1183年の平家の都落ちで三種の神器が持ち出される1か月前に伊勢神宮から献上された剣があり、順徳天皇が皇位に就くにあたり後鳥羽上皇によってこの剣が2代目の天叢雲剣(草薙剣)の形代とされた。壇ノ浦に沈んだ宝剣は、ついに見つからなかった。
後鳥羽上皇の院政下にあったため、文芸方面に取り組み、優れた歌人でもあった。
1219年源実朝が暗殺される。
討幕運動には父以上に熱心であったと言われ、承久の乱の直前に乱に備えて23歳(数え25歳)で譲位。しかし敗れて佐渡に流された。
44歳(数え46歳)で崩御。
★「順徳院」名義での順徳天皇の百人一首の第100
ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり
ももしきやふるきのきばのしのぶにも、なおあまりあるむかしなりけり。
(口語訳)御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、(朝廷の栄えた)昔が懐かしく思われて、いくら偲んでも偲びきれないことだ。
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1212年鴨長明の随筆『方丈記』成立。
★『方丈記』冒頭
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(口語訳)流れ過ぎていく河の流れは途絶えることがなく、それでいてそこを流れる水はもとの水ではない。河の流れのよどみに浮かんでいる水の泡は、一方では形が消えてなくなり一方では形ができたりして、長い間そのままの状態でとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所とは、またこの流れと泡のようである。
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1211年チンギス・ハン率いるモンゴル帝国の征服戦争が本格化。まず金を攻撃し1215年中都(燕京。現在の北京[ぺきん ベイ・ジン])を陥落させる※。1218年西遼(せいりょう。カラ・キタイ)滅亡。1219年~1225年大西征。ホラズムを滅ぼし、アフガニスタンの各都市を破壊、南はインダス川、西はクリミア半島まで侵攻したのち引き上げた。
※「このとき耶律楚材(やりつそざい)がチンギス・ハンに見いだされて側近になった。耶律楚材は『征服したのちは、国を豊かにし、民の生活を豊かにしなければならない。そうすれば民は従う』旨、チンギス・ハンに説き、これに感心したチンギス・ハンは耶律楚材を重く用いた」というエピソードが流布されている。
しかし、史実の耶律楚材はそれほどの側近ではなかったという説が有力。
第85代天皇 仲恭(ちゅうきょう)天皇 在位期間1221年
懐成(かねなり)親王。順徳天皇の第4皇子。
1218年生まれ。1221年5月13日(承久3年4月20日)承久の乱直前に2歳(数え4歳)で即位。同月、後鳥羽上皇は兵を集め執権・北条義時追討の院宣を発するが、鎌倉では北条政子が演説して御家人が結集。総大将・北条泰時率いる幕府軍は、鎌倉を出たとき18騎だったが最終的に総勢19万騎にまでに膨れ上がり(『吾妻鏡』)、6月の宇治川の戦いで朝廷軍は敗北。幕府の手で7月29日(承久3年7月9日)歴代最年少で退位させられた。在位わずか78日で在位期間も歴代最短。上皇になれず、九条廃帝と呼ばれた。15歳(数え17歳)で崩御。
明治になって弘文天皇と共に天皇の列に加わり、仲恭天皇と名付けられた。
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(雑感)
時代は大きく動きました。おかげで今回のお題は9つ。
まず8つ。
「源頼朝をどう評価すべきか?」
「源義経をどう評価すべきか?」
「武家政権をどう評価すべきか?」
「後鳥羽天皇の三種の神器なき即位をどう評価すべきか?」
「承久の乱をどう評価すべきか?」
「北条氏政権をどう評価すべきか?」
「朱子学について」
「耶律楚材について」
そして、8つとも、「大事なことですから、お題には取り上げます。しかし、難しくてリスクが高いですから、コメントはできません」が答えです。
さて、残る9つ目のお題は「海」です。
良いですよねー、海。
私はエメラルドグリーンの海が好きです。
源実朝の有名な歌のような、男っぽい海も良いんですけどね。
あの実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」って歌、史上屈指の「男っぽい歌」だと思いませんか?
いわゆる「万葉調」「ますらおぶり(益荒男振)」ってやつですよね。
なんてったって、
われて、
くだけて、
裂けて、
散るかも!
ってところが素晴らしいですよね。男っぽい歌として、もちろん私も素晴らしいと思ってます。
ただ、実際に荒れた海でこういうシーンを見たこともあるんですが、正直、「怖い」「こわーい」ものです。東日本大震災の津波の記憶もあって、「なんかやっぱ、静かな海の方が良いなぁ」と思えるのです。
そうすると、いわゆる「古今調」「たおやめぶり(手弱女振)」?
ま、それは棚上げしときます。
とにかく、穏やかなエメラルドグリーンの海へ行ってのんびりしたいです。











