嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -41ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

(京都市北区にある、金閣。金閣寺こと鹿苑寺の舎利殿)

 

第100代天皇 後小松(ごこまつ)天皇 在位期間1382年~1412年

幹仁(もとひと)親王。北朝6代。在位中に南北朝合一が達成される。後円融天皇の第1皇子。称光天皇の父。『一休さん』で有名な一休宗純(いっきゅうそうじゅん。1394年生~1481年87歳[数え88歳]で没)の実の父と言われている。

なお「後小松」は第58代天皇・光孝天皇㊷の別称「小松帝」にちなむ。

1377年生まれ。4歳(数え6歳)で即位。実権は室町幕府第3代将軍・足利義満にあった。

 

1386年義満は禅宗の五山を京都五山と鎌倉五山に分割し、両五山の上に別格として南禅寺を置くという改革を行う。

★京都五山

 別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇(第90代天皇)

第一位 天龍寺(てんりゅうじ) 創立者:室町幕府初代将軍・足利尊氏

第二位 相国寺(しょうこくじ) 創立者:室町幕府第3代将軍・足利義満

第三位 建仁寺(けんにんじ) 創立者:鎌倉幕府第2代将軍・源頼家

第四位 東福寺(とうふくじ) 創立者:九条道家(関白。源頼朝の同母妹・坊門姫の孫。次男の家系が五摂家の二条家。3男は鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経。4男の家系が五摂家の一条家。四条天皇の外祖父)

第五位 万寿寺(まんじゅじ) 創立者:白河上皇(第72代天皇㉞)

 

★鎌倉五山

 別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇(第90代天皇)

第一位 建長寺(けんちょうじ) 創立者:鎌倉幕府第5代執権・北条時頼

第二位 円覚寺(えんがくじ) 創立者:鎌倉幕府第8代執権・北条時宗

第三位 寿福寺(じゅふくじ) 創立者:北条政子(源頼朝の妻)

第四位 浄智寺(じょうちじ) 創立者:鎌倉幕府第10代執権・北条師時(ほうじょうもろとき)

第五位 浄妙寺(じょうみょうじ) 創立者:足利義兼(あしかがよしかね。源頼朝に仕えた足利氏第2代当主)

 

 

1392年、15歳(数え16歳)のとき、明徳の和約が成立し南朝の後亀山天皇より三種の神器を受ける(南北朝合一)。

1394年義満の子・足利義持(あしかがよしもち)を室町幕府第4代将軍に任命。

1397年義満は京都の北山に山荘の建設を開始(のちの鹿苑寺=金閣寺)、1399年以降ここを活動拠点とし、北山文化が栄える。

 

 

1408年義満が急病で49歳(数え51歳)で没。

35歳(数え36歳)で子(称光天皇)に譲位し院政を布くが、実権は幕府にあった。

この譲位は明徳の和約の条件だった両統迭立に反しており、反発して南朝の復興を図る勢力(いわゆる後南朝[ごなんちょう])の活動が応仁の乱の時代まで続く。

56歳(数え57歳)で崩御。

1392年高麗の武将だった李成桂(りせいけい イ・ソンゲ)が即位して李氏朝鮮(りしちょうせん 이씨 조선 イシ・チョソン)成立(~1910年[明治43年])。現在までのところ朝鮮半島最後の王朝かつ最後の統一国家。

1400年カンタベリー物語の作者・チョーサー没。

1405年明の永楽帝(えいらくてい ヨン・ラェ・ディ)の命令で鄭和の7度の大航海が始まる(~1433年)。

 

 

 

第101代天皇 称光(しょうこう)天皇 在位期間1412年~1428年

躬仁(みひと)親王。のちに「天皇が身に弓というのはふさわしくない」という理由で諱(いみな)を實仁(みひと)に変えた。後小松天皇の第1皇子。

1401年生まれ。11歳(数え12歳)で即位。病弱で皇子女にめぐまれず、その重圧のため言動にも問題があったと言われている。

1423年義持の子・足利義量(よしかず)を室町幕府第5代将軍に任命。だが2年で病死し引き続き義持が政務を見た。

1428年義持が没し6代将軍はくじ引きで弟・義教(よしのり)に決まった。代替わりの徳政令を求める正長の土一揆が起きている。日本初の農民一揆。

在位のまま27歳(数え28歳)で崩御。

 

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(雑感)

 

今日のお題は2つ、『一休さん』と「正長の土一揆」です。

正長の土一揆」は「大切なのでお題にしましたが、大変難しくリスクが高いので、コメントできません」パターン。

『一休さん』だけ、気楽にコメントします。

 

 

私は1968年(昭和43年)生まれの50歳なんですが、私くらいの世代にとっては、「後小松天皇」「足利義満」といえば一休さんですよね。しばらく前から、Youtubeでアニメ『一休さん』の動画が東映アニメ公式で公開されてます。懐かしいですね。

 

 「このはしわたるべからず

橋の真ん中を堂々と渡る

 

 屏風の虎退治

「では捕まえますから虎を屏風から出して下さい」

 

 超なが~い紙にお経を書くよう言われる

ホウキに墨汁をつけて超なが~い「し」という一文字を書く

 

水飴を独り占めしてる和尚さんから

「水飴は子供には毒、死ぬから食べちゃいかん」と言われる

「不始末をしでかしたので、責任を取って死のうと思い、

毒の水飴を全部食べました」

 

懐かしいですよね。一休さんの、頓智(とんち)。

 

一休さんみたいな「とんち」、私は得意じゃありません。得意な人が羨ましいです。良いですよね、ああいう明るい「とんち」。

 

調べてみると、アニメの『一休さん』は1975年(昭和50年)10月スタート。私が小学1年生のときです。もう40年以上経ってます。懐かしいわけですね。

 

 

一休さんと「金閣寺」、これがまたよく似合うんですよね。明るいですからね。

 

 

一休さんの声優さんだった藤田淑子さん、昨年亡くなられましたね。ご冥福をお祈りいたします。

東映アニメ公式で公開されてる『一休さん』の動画をここにはめ込もうと思ったんですが、はめ込むと視聴できないとのこと。やめておきます。興味ある方はYoutubeでご覧になってみてください。

北朝1 光厳(こうごん)天皇㉓ 在位期間1331年~1333年 なお、「㉓」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系23代遡る」という意味です。

量仁(かずひと)親王。北朝初代。持明院統。後伏見天皇㉔の第1皇子。母は1352年に「治天の君」となる広義門院(こうぎもんいん)。光明天皇の同母兄。崇光天皇㉒&後光厳天皇の父。

1313年生まれ。後醍醐天皇が元弘の乱を起こしたため、鎌倉幕府の手で18歳(数え19歳)で即位。

しかし、1333年、後醍醐天皇方の軍勢によって捕らえられ、鎌倉幕府は滅亡。19歳(数え21歳)で皇位を廃されて太上天皇と贈号され、即位そのものを否定される。

 

1335年、北条家残党が中先代の乱を起こすと、足利尊氏は鎌倉にいる1歳下の同母弟・直義(ただよし)を救援するため後醍醐天皇の許しなく鎌倉へ向かい、北条時行の軍を破る。鎌倉で幽閉中の大塔宮(だいとうのみやorおおとうのみや)護良(もりよしorもりなが)親王が直義に殺害され、尊氏が勝手に恩賞を与えたり新田義貞の関東の領地を奪ったりしたため、後醍醐天皇は義貞に足利討伐を命ずる。すると尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺に引きこもって断髪してしまう。しかし、足利勢が窮地に陥ると尊氏は天皇に反旗を翻すことを決意、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り進軍して京都を占領する。

1336年、足利軍はいったん北畠顕家らの軍勢に敗れ九州へ落ち延びるが、建武の新政に不満を持つ西国武士団を味方につけ、光厳上皇の院宣を奉じて逆襲。湊川の戦いに勝って入京した尊氏は、光厳上皇の院宣という形式で光明天皇を擁立し、光厳上皇の院政を後押しする。

ところが、足利家の執事・高師直(こうのもろなお)と直義の対立から足利家の内紛が起こる(観応の擾乱[かんのうのじょうらん]1349年~1352年)。

1351年、高師直ら高一族が滅ぼされるが、尊氏と直義の対立が続き、その成り行きで尊氏が南朝に一時降伏してしまう(正平一統[しょうへいいっとう])。

さらに1352年南朝方が降伏条件を破って京都を一時奪還、このとき光厳&光明&崇光の3上皇は連れ去られ幽閉されてしまう。

 

1357年解放され京に戻り、晩年は丹波に隠棲。

51歳(数え52歳)で崩御。

 

 

北朝2 光明(こうみょう)天皇 在位期間1336年~1348年

豊仁(ゆたひと)親王。北朝2代。後伏見天皇㉔の第2皇子。母は広義門院。光厳天皇㉓の同母弟。

1322年1月(旧暦12月)生まれ。1336年、足利尊氏の力で、三種の神器のないまま光厳上皇の院宣を受ける形式で14歳(旧暦での数え16歳)で即位(北朝の成立)。まもなく後醍醐天皇が足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方に渡した。のちに後醍醐天皇は「あれは贋物」と主張している。光厳上皇の院政下にあった。

同年、尊氏は建武式目を制定し、室町幕府が成立する。

1338年、北畠顕家と新田義貞が討死したのち、尊氏を征夷大将軍に任命。

26歳(旧暦での数え28歳)で甥・崇光天皇㉒に譲位。

しかし、1351年正平一統、翌年光厳上皇&崇光上皇とともに南朝方の手で幽閉される。

1355年一足早く解放され、帰京して出家。

58歳(旧暦での数え60歳)で崩御。

(福島県会津若松市の飯盛山にある、白虎隊の墓)

 

 

北朝3 崇光(すこう)天皇㉒ 在位期間1348年~1351年

益仁(ますひと)→興仁(おきひと)親王。北朝3代。光厳天皇㉓の第1皇子。後光厳天皇の同母兄。伏見宮栄仁(ふしみのみやよしひと)親王㉑の父。

1334年生まれ。14歳(数え15歳)で即位。

しかし、観応の擾乱の成り行きで尊氏が南朝に降伏(正平一統)、南朝方の手で17歳(数え18歳)で廃される。

翌1352年幽閉され、1357年解放されて京に戻る。

この不測の事態により、自身の崇光流と弟の後光厳流をめぐる皇位継承問題で悩むこととなり、生前は後光厳流に押し切られ、失意のうちに63歳(数え65歳)で崩御。

しかし、第1皇子・伏見宮栄仁親王㉑は伏見宮家(ふしみのみやけ)を興し、その孫が1428年に後花園天皇⑲となり、現皇室へと直系が続くこととなる。

崇光天皇㉒

第1皇子・伏見宮栄仁(よしひと)親王㉑

伏見宮貞成(さだふさ)親王=後崇光院(ごすこういん)⑳

第1王子・後花園天皇⑲

(白虎隊の墓)

 

 

北朝4 後光厳(ごこうごん)天皇 在位期間1352年~1371年

弥仁(いやひと)親王。北朝4代。光厳天皇㉓の第2皇子。崇光天皇㉒の同母弟。後円融天皇の父。

1338年生まれ。正平一統で崇光天皇が南朝の手で廃されると、尊氏・3男(嫡子)の義詮(よしあきら)・佐々木道誉(ささきどうよ)・元関白の二条良基(にじょうよしもと)らに14歳(数え15歳)で擁立される。

このとき三種の神器は南朝に戻され無かったうえに、「治天の君」たるべき光厳&光明&崇光の3上皇も南朝に連れ去られている窮地だったが、光厳&光明両上皇の生母・広義門院を「治天の君」とし、広義門院が伝国詔宣を行う形式をとった。

二条良基は、神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(天叢雲剣[草薙剣])となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている。

当時、過去に後白河法皇㉛が院宣という形式で後鳥羽天皇㉙を即位させた例にあるように、即位にあたって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、「『治天の君』による伝国詔宣により即位が可能である」という観念が存在していた。

しかし、この事実はのちに南朝に皇統の正統性が認められる原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は低下する。

※広義門院 こうぎもんいん。西園寺寧子(さいおんじねいしorやすこ)。日本史上唯一の「女性の治天の君」。1306年、すでに上皇になっていた後伏見上皇㉔の女御(にょうご)となる。上皇の妻は皇后・中宮と名乗れなかっただけで、立場的には正室。単なるお飾りの「治天の君」ではなく、1357年に数え66歳で没するまで精力的に政務を見た。

 

33歳(数え34歳)で譲位し院政を布くが、実権は幕府にあった。

35歳(数え37歳)で崩御。

1352年足利直義が数え47歳で没。ちなみに毒殺と書いているのは『太平記』だけ。

 

1358年足利尊氏が52歳(数え54歳)で没し、足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任。

 

南北朝時代の歴史書『梅松論(ばいしょうろん)』では、尊氏と親交のあった禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)が、尊氏の人間的魅力として以下3点を挙げている。

1、死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ。

2、かつて敵だったが味方になった者への寛容さ、降伏してきた相手に対する寛容さ。

3、富への執着の無さ、部下への気前の良さ。

『梅松論』ポイント

君主の条件は、まず「有徳」であるとされ、次に血統主義であるとされる。究極的には、「有徳」は血統主義に優先するという。

1367年12月義詮が没し、翌年、数え11歳の子・足利義満が第3代将軍として家督を継いだ。正式な征夷大将軍就任は1369年。管領・細川頼之が政治をみた。

1368年応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)。守護に従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、守護が「守護大名」になるきっかけとなった

 

 

北朝5 後円融(ごえんゆう)天皇 在位期間1371年~1382年

緒仁(おひと)親王。北朝5代。後光厳天皇の第2皇子。後小松天皇の父。

1359年1月(旧暦12月)生まれ。崇光流と後光厳流の皇位継承問題が浮上する中、管領・細川頼之の後押しで12歳(旧暦での数え14歳)で即位。

23歳(旧暦での数え25歳)で譲位し院政を布くが、実権は足利義満にあった。義満は幕府の権威を高めるため朝廷への介入を深め、このため義満との仲は険悪だったと言われている。

34歳(旧暦での数え36歳)で崩御。

 

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(雑感)

 

今日のお題は6つ。

 

北朝について」

室町幕府について」

後光厳天皇の三種の神器なき即位について」

『梅松論』について」

足利尊氏について」

足利尊氏の人間的魅力として、『死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ』が伝えられている。この『死を恐れない』ということについて」

 

このうち最初の5つは「大切なのでお題にしましたが、大変難しくリスクが高いので、コメントはできません」パターンです。

最後の6つ目、「『死を恐れない』ということについて」だけコメントします。

 

死を恐れない

 

ホントでしょうか?

足利尊氏はホントにそういう人だったんでしょうか?

そもそも史実かどうかが大問題なわけですが、「史実は違う、はい、おしまい」で片づけるのも微妙です。

一応、「史実です。足利尊氏はそういう人でした」という前提で、以下、コメントします。

ホントに「死の恐怖を克服し、死を恐れなかった」と評価できる人、いたと思います。

そのパターン、4つに分けてみました。

1、いわゆる心中事件

克服できた理由:現世では添い遂げられないから、輪廻転生を本気で信じ、来世で添い遂げようと恋人と誓った。

※実際は経済的困窮に陥り苦痛から逃れるため心中するケースが多いと思います。それは3つ目のパターンに含まれる、ということにします。

2、攻撃として死を選ぶ。

例:仏教徒の抗議の焼身自殺、特攻。

克服できた理由:他に有効な攻撃方法が全くないため、唯一残った有効な攻撃方法として選択した。

3、一種の「逃げ」として死を選ぶ。

例:自分の犯罪の発覚を恐怖し自殺するパターン、長期間の苦痛な事柄で疲れ果てて自殺するパターン。

克服できた理由:死よりも怖いこと、死よりも苦痛なことから、逃げたかった。

4、「武士らしいベストの選択をする。より早く死ぬ選択であっても、『生き恥を晒すより死んだ方が良い』と考える」パターン

例:足利尊氏のような、危険な戦場で勇敢に戦う武将。中世の敗軍の将の自刃。

克服できた理由:『葉隠』の真意として後述。

まず、1つ目の心中事件ですけど、現代じゃ、少ないでしょう。

江戸時代とは違いますからね。恋愛の制限なんてほぼありません。輪廻転生を本気で信じてる人が多いとも思えません。

近松門左衛門『曾根崎心中』『心中天網島』井原西鶴『好色五人女』を読むとカルチャーショックを受けます。

「現代じゃ、少ないでしょう」という理由で、これ以上はコメントしません。

次に、攻撃としての死の選択です。

いわゆる焼身自殺と、特攻です。

「そこまでして、攻撃したいのか?」

「最後まで生きることを諦めないのが、大事じゃないのか?」

私にはそう思えます。

何しろ、私自身は、「嗅覚障害という人生のテーマに取り組みたい」というのが本音ですからね。攻撃として死を選ぶという発想は、ちょっと考えられません。

でも、健常者は私と立場が違いますからね。こういう発想も健常者なら可能なのかもしれません。これ以上はコメントしにくいです。

3つ目、「逃げ」としての死の選択です。

これは私も他人事とは言い切れません。未来を全て予測することはできず、どんなに怖いこと、苦痛なことが待ち受けてるか、わからないからです。「そんなことがありませんように。そんな超怖いこと、超苦痛なことが将来待ち受けてませんように」と願うばかりです。

(会津若松駅前の、白虎隊士の像)

最後に、「武士らしい選択をする。より早く死ぬ選択、死ぬ可能性がより高い選択であっても、『生き恥をさらすより死んだ方が良い』と考える」パターン。

 

有名なのは『葉隠(はがくれ)』ですよね。

『葉隠』(1716年ころ佐賀藩士・山本常朝[やまもとつねあさorやまもとじょうちょう]が口述し同僚が筆記) そのうちの「聞書(ききがき)第一」の有名な箇所

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。

二つ二つの場にて、図に当たることのわかることは、及ばざることなり。我人(われひと)、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。

図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(じょうじゅうしにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。

三島由紀夫『葉隠入門』での現代語訳

武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死二つのうち、いずれを取るかといえば、早く死ぬ方をえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。「事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ」などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。

とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれ少なかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうを選んだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。

ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

この『葉隠』、よく読むと、「武士たるもの、どんなに不利な状況でも死を恐れず戦え。捕虜となって生き恥をさらすなんて許されない、死ね」なんて苛烈なニュアンスではありません。

 

武士は、他の職業と違って、二者択一の判断が迫られたときに、死ぬ可能性が高い方を選ぶことが正しい場合がある。これこそ、武士道の本質である。武士の奉公としてベストな選択をしよう。二者択一の判断が迫られたとき、『まず、絶対に自分が死なないこと、これが最優先』と考えて必ず安全な方を選択する態度はダメ。『生き残ってやりたいことがあったとしても、達成できるかどうかわからない。負けて生き残るのは腰抜けと言われる恥。一方、戦死、殉職は、残念なことだが、恥じゃない』『可能性で言えば、武士はいつでも死ぬ可能性はあるんだ』と常日頃から思っていれば、きっとできる」と、近代戦争以前の時代(=兵器の破壊力が恐るべきものになる前の時代)の、武士階級の奉公の心得として、ちょっと厳しいことを言ってるに過ぎない。それが真意だと感じるのです。

そうすると、足利尊氏の人間的魅力として挙げられた、中世の武士の「死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ」こそが、『葉隠』の真意に近いと思えます。

戊辰戦争での会津藩の武士の妻子の自刃(理由:籠城戦の足手まといとなることを苦にした)や白虎隊の自刃(理由:敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった)は、すでに19世紀後半であり近代戦争の兵器が使われているという時代の変化、妻子である点や白虎隊の年齢(数え16歳と17歳)を考えると、ちょっとやり過ぎで微妙な気がするのです(うーん、自信ないですが・・・)。

そして、太平洋戦争後期の「戦陣訓」を根拠とした強制的なバンザイ突撃や玉砕や集団自決、こういうものは、『葉隠』の真意とは異なるものと思うのです。

 

さて、私は「嗅覚障害に取り組む」ということを人生のテーマとしてます。

「嗅覚障害に取り組む」こと自体に、より早く死ぬ危険があるかというと、そうは思えません。

武士の奉公、足利尊氏『葉隠』の生き方とは、違うんでしょうね。

私の先祖は農家ですし。私は嗅覚障害者という身体障害者ですし。現代の兵器の破壊力は足利尊氏の時代とは比較にならない恐ろしい破壊力ですし。

最後のパターンについては、考えをまとめることはせず、棚上げにします。

 

(南朝があった吉野の山々)

 

第96代天皇 後醍醐(ごだいご)天皇 在位期間1318年~1339年

尊治(たかはる)親王。大覚寺統。南朝初代。後宇多天皇の第2皇子。後二条天皇の異母弟。後村上天皇の父。

1288年生まれ。嫡流である兄・後二条天皇の遺児が皇位に就くまでの中継ぎとして29歳(数え31歳)で即位。当初は後宇多法皇の院政下にあったが3年で停止、親政を開始する。

賢帝の誉れ高く、延喜・天暦の治=醍醐天皇・村上天皇の治世を理想とし、多くの善政を行った」と『太平記』で伝えられている一方、「既に30歳前後で多くの子供もいたため、自分の子供が皇位に就くことのない中継ぎという立場に不満を抱き、親政と倒幕を目指した」という説が有力。皇子女は実に多く、ウィキペディアの後醍醐天皇のページには43人記載されている。

倒幕を策謀するがたびたび失敗、1331年元弘の乱でついに捕らわれ隠岐に配流される。まもなく隠岐を脱出、楠木正成ら悪党と呼ばれた諸勢力と手を組み挙兵。幕府軍の足利尊氏が味方につき、1333年討幕を成し遂げた。

こののち「建武の新政」と呼ばれる親政を行う。天皇自身が国の実権を掌握した状態で親政を行った最後の天皇。

しかし、「建武の新政は、実態は中国の専制君主制を模範とした改革であり、独断的な政策に、武家勢力はもちろん、名門公家勢力も反発した」という説が有力。

1335年足利尊氏が離反。

1336年東国から進軍した足利軍が京都を占領。足利軍はいったん北畠顕家や楠木正成&新田義貞の軍に敗れ九州に落ち延びるが、光厳上皇㉓の院宣(いんぜん)を奉じて逆襲。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との戦術的和睦を進言するが、天皇はこれを退け新田義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし湊川の戦いで新田&楠木軍は敗れ正成は敗死。勝った足利軍が入京すると天皇は比叡山に逃れる。

(東京都千代田区皇居外苑にある、楠木正成像)

 

1336年、尊氏は光厳上皇の院宣という形式で光明天皇を擁立(北朝の成立)。後醍醐天皇は足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡す。

同年、尊氏は建武式目を制定し、室町幕府が成立する。

このあと、後醍醐天皇は脱出して大和吉野に落ち延び南朝を開き、「尊氏に渡した神器は贋物である」と主張した。

1338年、北畠顕家と新田義貞が相次いで討死し、尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命される。

 

1339年病に倒れ、義良親王(後村上天皇)に譲位した翌日、50歳(数え52歳)で崩御。これを聞いた尊氏は天龍寺(京都五山第一位。世界遺産)を創建して後醍醐天皇を弔った。

(京都市右京区嵯峨にある、天龍寺。建物は応仁の乱や禁門の変などで何度も焼失してるが、この曹源池庭園[そうげんちていえん]は初代住職・夢窓疎石が作った当時の面影を残しており、世界遺産)

1326年北条貞顕(ほうじょうさだあき)が第15代執権に、同年北条守時(ほうじょうもりとき)が第16代執権に就任。

1337年英仏百年戦争開始(~1453年)。

 

 

第97代天皇 後村上(ごむらかみ)天皇 在位期間1339年~1368年

義良(のりよしorのりなが)親王。南朝2代。後醍醐天皇の第7皇子。長慶天皇&後亀山天皇の父。

1328年生まれ。1333年数え6歳のときから北畠親房(きたばたけちかふさ)&顕家(あきいえ)親子と行動を共にしていた。

吉野に戻り数え12歳で即位。

1339年北畠親房『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を執筆、1343年改訂したのち後村上天皇に献じた。

『神皇正統記』のポイント

君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。その一方、宋学の影響を受け、血統の他に「有徳」を強調している。つまり、「社会を安定させる力が高評価の基準であり、その力の本質は『』である。後鳥羽上皇㉙は無謀な挙兵で社会の安定を乱し『徳』を欠いたと非難すべきであり、逆に官軍を討伐した北条義時&泰時はその後の善政により社会を安定させた力すなわち『有徳』を高く評価すべきである」という。

 

1349年から1352年にかけての足利家の内紛(観応の擾乱[かんのうのじょうらん])では、成り行きで1351年に北朝が南朝に降伏し漁夫の利を得た形になり(正平一統[しょうへいいっとう])、北朝の崇光天皇㉒は廃され三種の神器(後醍醐天皇が贋物と主張したもの)も取り戻している。翌年北畠親房らは更なる失地回復を試み降伏条件を破って足利家に戦いを挑み、いったん京都を奪還し光厳&光明&崇光の3上皇を連れ去ることに成功。しかし反撃され敗北、吉野に撤退、せっかくの正平一統も破談になった。

このあとも南朝方(もしくは反幕府勢力)がたびたび京都を奪還するが、一時的にすぎず、すぐ反撃され撤退。和議を試みても決裂する。

 

1354年北畠親房が数え62歳で没。

1358年足利尊氏が52歳(数え54歳)で没、足利義詮(あしかがよしあきら)が北朝の後光厳天皇から室町幕府第2代将軍に任命される。

数え41歳で崩御。

1351年紅巾の乱勃発。

1361年正平地震(しょうへいじしん。東南海&南海巨大地震)が発生。

1368年紅巾の乱の主導者の一人・朱元璋(太祖洪武帝)が明(1368年~1644年)を建国。

 

 

第98代天皇 長慶(ちょうけい)天皇 在位期間1368年~1383年

寛成(ゆたなり)親王。南朝3代。後村上天皇の第1皇子。後亀山天皇の同母兄。

1343年生まれ。数え26歳のとき住吉で即位。数え41歳で譲位し、数え52歳で崩御。

記録が少なく南北朝合一の際の動静や晩年の地など不明で、長いこと在位が疑問視されていた。研究の結果、大正になってはじめて天皇の列に加えられた。

1381年イングランドの農民がワット・タイラーの乱を起こす。

 

 

第99代天皇 後亀山(ごかめやま)天皇 在位期間1383年~1392年

煕成(ひろなり)親王。南朝4代。後村上天皇の第2皇子。長慶天皇の同母弟。

諱(いみな)が「~仁」ではない最後の男性天皇で、このあとの男性天皇は現在まで全員「~仁」2文字パターン。

1350年or1347年生まれ。数え34歳or37歳で即位。

1392年両統迭立の条件で南北朝合一の和議が成立(明徳の和約)、京都の大覚寺(現、京都府京都市右京区嵯峨)に戻り三種の神器を北朝の後小松天皇に渡して数え43歳or46歳で譲位し、南北朝時代は終わった。そのまま大覚寺で隠遁生活に入った。

しかし、1410年吉野に出奔。大覚寺統が継ぐことは全く期待できず反発したためと言われている。1414年、懸念通り、後小松天皇の子・称光天皇が即位。

1416年室町幕府から所領回復を条件に京都に戻るよう要請を受け、大覚寺に戻った。1424年数え75歳or78歳で崩御。

 

★大納言公任(だいなごん きんとう)の百人一首の第55(拾遺集)

滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ

たきのおとはたえてひさしくなりぬれど、なこそながれてなおきこえけれ

(口語訳)水の流れが絶えて滝音が聞こえなくなってから、もう長い月日が過ぎてしまったが、(見事な滝であったと)その名は今も伝えられ、よく世間にも知れ渡っていることだ。

※この滝は大覚寺の中にあった(名古曽の滝 なこそのたき)。

 

(京都市右京区嵯峨の大覚寺)

 

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(雑感)

 

後醍醐天皇について」

『太平記』について」

楠木正成について

南北朝時代について」

南朝について」

『神皇正統記』について」

 

今回は、6つのお題全て、「大事なのでお題にしましたが、大変難しくリスクが高いので、コメントはできません」としか言いようがありません。難しい時代ですからね。南北朝時代の南朝。ま、歴史のプロを目指してるブログじゃないですから。こんなときもあります。

難しい。リスクが高い。時代が近くなるにしたがって、こういう場合が増えそうです。