日本史メモ 第40回 北朝1 光厳天皇 ~ 北朝5 後円融天皇 | 嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

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北朝1 光厳(こうごん)天皇㉓ 在位期間1331年~1333年 なお、「㉓」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系23代遡る」という意味です。

量仁(かずひと)親王。北朝初代。持明院統。後伏見天皇㉔の第1皇子。母は1352年に「治天の君」となる広義門院(こうぎもんいん)。光明天皇の同母兄。崇光天皇㉒&後光厳天皇の父。

1313年生まれ。後醍醐天皇が元弘の乱を起こしたため、鎌倉幕府の手で18歳(数え19歳)で即位。

しかし、1333年、後醍醐天皇方の軍勢によって捕らえられ、鎌倉幕府は滅亡。19歳(数え21歳)で皇位を廃されて太上天皇と贈号され、即位そのものを否定される。

 

1335年、北条家残党が中先代の乱を起こすと、足利尊氏は鎌倉にいる1歳下の同母弟・直義(ただよし)を救援するため後醍醐天皇の許しなく鎌倉へ向かい、北条時行の軍を破る。鎌倉で幽閉中の大塔宮(だいとうのみやorおおとうのみや)護良(もりよしorもりなが)親王が直義に殺害され、尊氏が勝手に恩賞を与えたり新田義貞の関東の領地を奪ったりしたため、後醍醐天皇は義貞に足利討伐を命ずる。すると尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺に引きこもって断髪してしまう。しかし、足利勢が窮地に陥ると尊氏は天皇に反旗を翻すことを決意、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り進軍して京都を占領する。

1336年、足利軍はいったん北畠顕家らの軍勢に敗れ九州へ落ち延びるが、建武の新政に不満を持つ西国武士団を味方につけ、光厳上皇の院宣を奉じて逆襲。湊川の戦いに勝って入京した尊氏は、光厳上皇の院宣という形式で光明天皇を擁立し、光厳上皇の院政を後押しする。

ところが、足利家の執事・高師直(こうのもろなお)と直義の対立から足利家の内紛が起こる(観応の擾乱[かんのうのじょうらん]1349年~1352年)。

1351年、高師直ら高一族が滅ぼされるが、尊氏と直義の対立が続き、その成り行きで尊氏が南朝に一時降伏してしまう(正平一統[しょうへいいっとう])。

さらに1352年南朝方が降伏条件を破って京都を一時奪還、このとき光厳&光明&崇光の3上皇は連れ去られ幽閉されてしまう。

 

1357年解放され京に戻り、晩年は丹波に隠棲。

51歳(数え52歳)で崩御。

 

 

北朝2 光明(こうみょう)天皇 在位期間1336年~1348年

豊仁(ゆたひと)親王。北朝2代。後伏見天皇㉔の第2皇子。母は広義門院。光厳天皇㉓の同母弟。

1322年1月(旧暦12月)生まれ。1336年、足利尊氏の力で、三種の神器のないまま光厳上皇の院宣を受ける形式で14歳(旧暦での数え16歳)で即位(北朝の成立)。まもなく後醍醐天皇が足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方に渡した。のちに後醍醐天皇は「あれは贋物」と主張している。光厳上皇の院政下にあった。

同年、尊氏は建武式目を制定し、室町幕府が成立する。

1338年、北畠顕家と新田義貞が討死したのち、尊氏を征夷大将軍に任命。

26歳(旧暦での数え28歳)で甥・崇光天皇㉒に譲位。

しかし、1351年正平一統、翌年光厳上皇&崇光上皇とともに南朝方の手で幽閉される。

1355年一足早く解放され、帰京して出家。

58歳(旧暦での数え60歳)で崩御。

(福島県会津若松市の飯盛山にある、白虎隊の墓)

 

 

北朝3 崇光(すこう)天皇㉒ 在位期間1348年~1351年

益仁(ますひと)→興仁(おきひと)親王。北朝3代。光厳天皇㉓の第1皇子。後光厳天皇の同母兄。伏見宮栄仁(ふしみのみやよしひと)親王㉑の父。

1334年生まれ。14歳(数え15歳)で即位。

しかし、観応の擾乱の成り行きで尊氏が南朝に降伏(正平一統)、南朝方の手で17歳(数え18歳)で廃される。

翌1352年幽閉され、1357年解放されて京に戻る。

この不測の事態により、自身の崇光流と弟の後光厳流をめぐる皇位継承問題で悩むこととなり、生前は後光厳流に押し切られ、失意のうちに63歳(数え65歳)で崩御。

しかし、第1皇子・伏見宮栄仁親王㉑は伏見宮家(ふしみのみやけ)を興し、その孫が1428年に後花園天皇⑲となり、現皇室へと直系が続くこととなる。

崇光天皇㉒

第1皇子・伏見宮栄仁(よしひと)親王㉑

伏見宮貞成(さだふさ)親王=後崇光院(ごすこういん)⑳

第1王子・後花園天皇⑲

(白虎隊の墓)

 

 

北朝4 後光厳(ごこうごん)天皇 在位期間1352年~1371年

弥仁(いやひと)親王。北朝4代。光厳天皇㉓の第2皇子。崇光天皇㉒の同母弟。後円融天皇の父。

1338年生まれ。正平一統で崇光天皇が南朝の手で廃されると、尊氏・3男(嫡子)の義詮(よしあきら)・佐々木道誉(ささきどうよ)・元関白の二条良基(にじょうよしもと)らに14歳(数え15歳)で擁立される。

このとき三種の神器は南朝に戻され無かったうえに、「治天の君」たるべき光厳&光明&崇光の3上皇も南朝に連れ去られている窮地だったが、光厳&光明両上皇の生母・広義門院を「治天の君」とし、広義門院が伝国詔宣を行う形式をとった。

二条良基は、神器なしの新天皇即位に躊躇する公家に対して「尊氏が剣(天叢雲剣[草薙剣])となり、良基が璽(八尺瓊勾玉)となる。何ぞ不可ならん」と啖呵を切ったと言われている。

当時、過去に後白河法皇㉛が院宣という形式で後鳥羽天皇㉙を即位させた例にあるように、即位にあたって神器の存在は必ずしも要件とはなっておらず、「『治天の君』による伝国詔宣により即位が可能である」という観念が存在していた。

しかし、この事実はのちに南朝に皇統の正統性が認められる原因の1つとなり、幕府と北朝の権威は低下する。

※広義門院 こうぎもんいん。西園寺寧子(さいおんじねいしorやすこ)。日本史上唯一の「女性の治天の君」。1306年、すでに上皇になっていた後伏見上皇㉔の女御(にょうご)となる。上皇の妻は皇后・中宮と名乗れなかっただけで、立場的には正室。単なるお飾りの「治天の君」ではなく、1357年に数え66歳で没するまで精力的に政務を見た。

 

33歳(数え34歳)で譲位し院政を布くが、実権は幕府にあった。

35歳(数え37歳)で崩御。

1352年足利直義が数え47歳で没。ちなみに毒殺と書いているのは『太平記』だけ。

 

1358年足利尊氏が52歳(数え54歳)で没し、足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任。

 

南北朝時代の歴史書『梅松論(ばいしょうろん)』では、尊氏と親交のあった禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)が、尊氏の人間的魅力として以下3点を挙げている。

1、死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ。

2、かつて敵だったが味方になった者への寛容さ、降伏してきた相手に対する寛容さ。

3、富への執着の無さ、部下への気前の良さ。

『梅松論』ポイント

君主の条件は、まず「有徳」であるとされ、次に血統主義であるとされる。究極的には、「有徳」は血統主義に優先するという。

1367年12月義詮が没し、翌年、数え11歳の子・足利義満が第3代将軍として家督を継いだ。正式な征夷大将軍就任は1369年。管領・細川頼之が政治をみた。

1368年応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)。守護に従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、守護が「守護大名」になるきっかけとなった

 

 

北朝5 後円融(ごえんゆう)天皇 在位期間1371年~1382年

緒仁(おひと)親王。北朝5代。後光厳天皇の第2皇子。後小松天皇の父。

1359年1月(旧暦12月)生まれ。崇光流と後光厳流の皇位継承問題が浮上する中、管領・細川頼之の後押しで12歳(旧暦での数え14歳)で即位。

23歳(旧暦での数え25歳)で譲位し院政を布くが、実権は足利義満にあった。義満は幕府の権威を高めるため朝廷への介入を深め、このため義満との仲は険悪だったと言われている。

34歳(旧暦での数え36歳)で崩御。

 

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(雑感)

 

今日のお題は6つ。

 

北朝について」

室町幕府について」

後光厳天皇の三種の神器なき即位について」

『梅松論』について」

足利尊氏について」

足利尊氏の人間的魅力として、『死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ』が伝えられている。この『死を恐れない』ということについて」

 

このうち最初の5つは「大切なのでお題にしましたが、大変難しくリスクが高いので、コメントはできません」パターンです。

最後の6つ目、「『死を恐れない』ということについて」だけコメントします。

 

死を恐れない

 

ホントでしょうか?

足利尊氏はホントにそういう人だったんでしょうか?

そもそも史実かどうかが大問題なわけですが、「史実は違う、はい、おしまい」で片づけるのも微妙です。

一応、「史実です。足利尊氏はそういう人でした」という前提で、以下、コメントします。

ホントに「死の恐怖を克服し、死を恐れなかった」と評価できる人、いたと思います。

そのパターン、4つに分けてみました。

1、いわゆる心中事件

克服できた理由:現世では添い遂げられないから、輪廻転生を本気で信じ、来世で添い遂げようと恋人と誓った。

※実際は経済的困窮に陥り苦痛から逃れるため心中するケースが多いと思います。それは3つ目のパターンに含まれる、ということにします。

2、攻撃として死を選ぶ。

例:仏教徒の抗議の焼身自殺、特攻。

克服できた理由:他に有効な攻撃方法が全くないため、唯一残った有効な攻撃方法として選択した。

3、一種の「逃げ」として死を選ぶ。

例:自分の犯罪の発覚を恐怖し自殺するパターン、長期間の苦痛な事柄で疲れ果てて自殺するパターン。

克服できた理由:死よりも怖いこと、死よりも苦痛なことから、逃げたかった。

4、「武士らしいベストの選択をする。より早く死ぬ選択であっても、『生き恥を晒すより死んだ方が良い』と考える」パターン

例:足利尊氏のような、危険な戦場で勇敢に戦う武将。中世の敗軍の将の自刃。

克服できた理由:『葉隠』の真意として後述。

まず、1つ目の心中事件ですけど、現代じゃ、少ないでしょう。

江戸時代とは違いますからね。恋愛の制限なんてほぼありません。輪廻転生を本気で信じてる人が多いとも思えません。

近松門左衛門『曾根崎心中』『心中天網島』井原西鶴『好色五人女』を読むとカルチャーショックを受けます。

「現代じゃ、少ないでしょう」という理由で、これ以上はコメントしません。

次に、攻撃としての死の選択です。

いわゆる焼身自殺と、特攻です。

「そこまでして、攻撃したいのか?」

「最後まで生きることを諦めないのが、大事じゃないのか?」

私にはそう思えます。

何しろ、私自身は、「嗅覚障害という人生のテーマに取り組みたい」というのが本音ですからね。攻撃として死を選ぶという発想は、ちょっと考えられません。

でも、健常者は私と立場が違いますからね。こういう発想も健常者なら可能なのかもしれません。これ以上はコメントしにくいです。

3つ目、「逃げ」としての死の選択です。

これは私も他人事とは言い切れません。未来を全て予測することはできず、どんなに怖いこと、苦痛なことが待ち受けてるか、わからないからです。「そんなことがありませんように。そんな超怖いこと、超苦痛なことが将来待ち受けてませんように」と願うばかりです。

(会津若松駅前の、白虎隊士の像)

最後に、「武士らしい選択をする。より早く死ぬ選択、死ぬ可能性がより高い選択であっても、『生き恥をさらすより死んだ方が良い』と考える」パターン。

 

有名なのは『葉隠(はがくれ)』ですよね。

『葉隠』(1716年ころ佐賀藩士・山本常朝[やまもとつねあさorやまもとじょうちょう]が口述し同僚が筆記) そのうちの「聞書(ききがき)第一」の有名な箇所

武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。

二つ二つの場にて、図に当たることのわかることは、及ばざることなり。我人(われひと)、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。

図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身(じょうじゅうしにみ)になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果たすべきなり。

三島由紀夫『葉隠入門』での現代語訳

武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死二つのうち、いずれを取るかといえば、早く死ぬ方をえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。「事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ」などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。

とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれ少なかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうを選んだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。

ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

この『葉隠』、よく読むと、「武士たるもの、どんなに不利な状況でも死を恐れず戦え。捕虜となって生き恥をさらすなんて許されない、死ね」なんて苛烈なニュアンスではありません。

 

武士は、他の職業と違って、二者択一の判断が迫られたときに、死ぬ可能性が高い方を選ぶことが正しい場合がある。これこそ、武士道の本質である。武士の奉公としてベストな選択をしよう。二者択一の判断が迫られたとき、『まず、絶対に自分が死なないこと、これが最優先』と考えて必ず安全な方を選択する態度はダメ。『生き残ってやりたいことがあったとしても、達成できるかどうかわからない。負けて生き残るのは腰抜けと言われる恥。一方、戦死、殉職は、残念なことだが、恥じゃない』『可能性で言えば、武士はいつでも死ぬ可能性はあるんだ』と常日頃から思っていれば、きっとできる」と、近代戦争以前の時代(=兵器の破壊力が恐るべきものになる前の時代)の、武士階級の奉公の心得として、ちょっと厳しいことを言ってるに過ぎない。それが真意だと感じるのです。

そうすると、足利尊氏の人間的魅力として挙げられた、中世の武士の「死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべている勇敢さ」こそが、『葉隠』の真意に近いと思えます。

戊辰戦争での会津藩の武士の妻子の自刃(理由:籠城戦の足手まといとなることを苦にした)や白虎隊の自刃(理由:敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった)は、すでに19世紀後半であり近代戦争の兵器が使われているという時代の変化、妻子である点や白虎隊の年齢(数え16歳と17歳)を考えると、ちょっとやり過ぎで微妙な気がするのです(うーん、自信ないですが・・・)。

そして、太平洋戦争後期の「戦陣訓」を根拠とした強制的なバンザイ突撃や玉砕や集団自決、こういうものは、『葉隠』の真意とは異なるものと思うのです。

 

さて、私は「嗅覚障害に取り組む」ということを人生のテーマとしてます。

「嗅覚障害に取り組む」こと自体に、より早く死ぬ危険があるかというと、そうは思えません。

武士の奉公、足利尊氏『葉隠』の生き方とは、違うんでしょうね。

私の先祖は農家ですし。私は嗅覚障害者という身体障害者ですし。現代の兵器の破壊力は足利尊氏の時代とは比較にならない恐ろしい破壊力ですし。

最後のパターンについては、考えをまとめることはせず、棚上げにします。