(南朝があった吉野の山々)
第96代天皇 後醍醐(ごだいご)天皇 在位期間1318年~1339年
尊治(たかはる)親王。大覚寺統。南朝初代。後宇多天皇の第2皇子。後二条天皇の異母弟。後村上天皇の父。
1288年生まれ。嫡流である兄・後二条天皇の遺児が皇位に就くまでの中継ぎとして29歳(数え31歳)で即位。当初は後宇多法皇の院政下にあったが3年で停止、親政を開始する。
「賢帝の誉れ高く、延喜・天暦の治=醍醐天皇・村上天皇の治世を理想とし、多くの善政を行った」と『太平記』で伝えられている一方、「既に30歳前後で多くの子供もいたため、自分の子供が皇位に就くことのない中継ぎという立場に不満を抱き、親政と倒幕を目指した」という説が有力。皇子女は実に多く、ウィキペディアの後醍醐天皇のページには43人記載されている。
倒幕を策謀するがたびたび失敗、1331年元弘の乱でついに捕らわれ隠岐に配流される。まもなく隠岐を脱出、楠木正成ら悪党と呼ばれた諸勢力と手を組み挙兵。幕府軍の足利尊氏が味方につき、1333年討幕を成し遂げた。
こののち「建武の新政」と呼ばれる親政を行う。天皇自身が国の実権を掌握した状態で親政を行った最後の天皇。
しかし、「建武の新政は、実態は中国の専制君主制を模範とした改革であり、独断的な政策に、武家勢力はもちろん、名門公家勢力も反発した」という説が有力。
1335年足利尊氏が離反。
1336年東国から進軍した足利軍が京都を占領。足利軍はいったん北畠顕家や楠木正成&新田義貞の軍に敗れ九州に落ち延びるが、光厳上皇㉓の院宣(いんぜん)を奉じて逆襲。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との戦術的和睦を進言するが、天皇はこれを退け新田義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし湊川の戦いで新田&楠木軍は敗れ正成は敗死。勝った足利軍が入京すると天皇は比叡山に逃れる。
(東京都千代田区皇居外苑にある、楠木正成像)
1336年、尊氏は光厳上皇の院宣という形式で光明天皇を擁立(北朝の成立)。後醍醐天皇は足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡す。
同年、尊氏は建武式目を制定し、室町幕府が成立する。
このあと、後醍醐天皇は脱出して大和吉野に落ち延び南朝を開き、「尊氏に渡した神器は贋物である」と主張した。
1338年、北畠顕家と新田義貞が相次いで討死し、尊氏は北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命される。
1339年病に倒れ、義良親王(後村上天皇)に譲位した翌日、50歳(数え52歳)で崩御。これを聞いた尊氏は天龍寺(京都五山第一位。世界遺産)を創建して後醍醐天皇を弔った。
(京都市右京区嵯峨にある、天龍寺。建物は応仁の乱や禁門の変などで何度も焼失してるが、この曹源池庭園[そうげんちていえん]は初代住職・夢窓疎石が作った当時の面影を残しており、世界遺産)
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1326年北条貞顕(ほうじょうさだあき)が第15代執権に、同年北条守時(ほうじょうもりとき)が第16代執権に就任。
1337年英仏百年戦争開始(~1453年)。
第97代天皇 後村上(ごむらかみ)天皇 在位期間1339年~1368年
義良(のりよしorのりなが)親王。南朝2代。後醍醐天皇の第7皇子。長慶天皇&後亀山天皇の父。
1328年生まれ。1333年数え6歳のときから北畠親房(きたばたけちかふさ)&顕家(あきいえ)親子と行動を共にしていた。
吉野に戻り数え12歳で即位。
1339年北畠親房が『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を執筆、1343年改訂したのち後村上天皇に献じた。
★『神皇正統記』のポイント
君主の条件としてまず三種の神器の保有を皇位の必要不可欠の条件とする。その一方、宋学の影響を受け、血統の他に「有徳」を強調している。つまり、「社会を安定させる力が高評価の基準であり、その力の本質は『徳』である。後鳥羽上皇㉙は無謀な挙兵で社会の安定を乱し『徳』を欠いたと非難すべきであり、逆に官軍を討伐した北条義時&泰時はその後の善政により社会を安定させた力すなわち『有徳』を高く評価すべきである」という。
1349年から1352年にかけての足利家の内紛(観応の擾乱[かんのうのじょうらん])では、成り行きで1351年に北朝が南朝に降伏し漁夫の利を得た形になり(正平一統[しょうへいいっとう])、北朝の崇光天皇㉒は廃され三種の神器(後醍醐天皇が贋物と主張したもの)も取り戻している。翌年北畠親房らは更なる失地回復を試み降伏条件を破って足利家に戦いを挑み、いったん京都を奪還し光厳&光明&崇光の3上皇を連れ去ることに成功。しかし反撃され敗北、吉野に撤退、せっかくの正平一統も破談になった。
このあとも南朝方(もしくは反幕府勢力)がたびたび京都を奪還するが、一時的にすぎず、すぐ反撃され撤退。和議を試みても決裂する。
1354年北畠親房が数え62歳で没。
1358年足利尊氏が52歳(数え54歳)で没、足利義詮(あしかがよしあきら)が北朝の後光厳天皇から室町幕府第2代将軍に任命される。
数え41歳で崩御。
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1351年紅巾の乱勃発。
1361年正平地震(しょうへいじしん。東南海&南海巨大地震)が発生。
1368年紅巾の乱の主導者の一人・朱元璋(太祖洪武帝)が明(1368年~1644年)を建国。
第98代天皇 長慶(ちょうけい)天皇 在位期間1368年~1383年
寛成(ゆたなり)親王。南朝3代。後村上天皇の第1皇子。後亀山天皇の同母兄。
1343年生まれ。数え26歳のとき住吉で即位。数え41歳で譲位し、数え52歳で崩御。
記録が少なく南北朝合一の際の動静や晩年の地など不明で、長いこと在位が疑問視されていた。研究の結果、大正になってはじめて天皇の列に加えられた。
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1381年イングランドの農民がワット・タイラーの乱を起こす。
第99代天皇 後亀山(ごかめやま)天皇 在位期間1383年~1392年
煕成(ひろなり)親王。南朝4代。後村上天皇の第2皇子。長慶天皇の同母弟。
諱(いみな)が「~仁」ではない最後の男性天皇で、このあとの男性天皇は現在まで全員「~仁」2文字パターン。
1350年or1347年生まれ。数え34歳or37歳で即位。
1392年両統迭立の条件で南北朝合一の和議が成立(明徳の和約)、京都の大覚寺(現、京都府京都市右京区嵯峨)に戻り三種の神器を北朝の後小松天皇に渡して数え43歳or46歳で譲位し、南北朝時代は終わった。そのまま大覚寺で隠遁生活に入った。
しかし、1410年吉野に出奔。大覚寺統が継ぐことは全く期待できず反発したためと言われている。1414年、懸念通り、後小松天皇の子・称光天皇が即位。
1416年室町幕府から所領回復を条件に京都に戻るよう要請を受け、大覚寺に戻った。1424年数え75歳or78歳で崩御。
★大納言公任(だいなごん きんとう)の百人一首の第55(拾遺集)
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
たきのおとはたえてひさしくなりぬれど、なこそながれてなおきこえけれ
(口語訳)水の流れが絶えて滝音が聞こえなくなってから、もう長い月日が過ぎてしまったが、(見事な滝であったと)その名は今も伝えられ、よく世間にも知れ渡っていることだ。
※この滝は大覚寺の中にあった(名古曽の滝 なこそのたき)。
(京都市右京区嵯峨の大覚寺)
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(雑感)
「後醍醐天皇について」
「『太平記』について」
「楠木正成について」
「南北朝時代について」
「南朝について」
「『神皇正統記』について」
今回は、6つのお題全て、「大事なのでお題にしましたが、大変難しくリスクが高いので、コメントはできません」としか言いようがありません。難しい時代ですからね。南北朝時代の南朝。ま、歴史のプロを目指してるブログじゃないですから。こんなときもあります。
難しい。リスクが高い。時代が近くなるにしたがって、こういう場合が増えそうです。