嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -40ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

第105代天皇 後奈良(ごなら)天皇⑯ 在位期間1526年~1557年 なお、「⑯」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系16代遡る」という意味です。

知仁(ともひと)親王。後柏原天皇⑰の第2皇子。正親町天皇⑮の父。なお「後奈良」は第51代天皇・平城天皇の別称「奈良帝」にちなむ。

1497年1月(旧暦12月)生まれ。29歳(旧暦での数え31歳)で即位。

応仁の乱後の朝廷財政窮乏のため、即位の礼は即位11年目に北条氏、大内氏、今川氏など諸大名から寄付金を集めて行われた。

在位のまま60歳(旧暦での数え62歳)で崩御。

1526年ティムールの子孫バーブルがデリーとアグラを中心にムガル帝国を建国(~1858年)。

1529年陽明学※1の祖・王陽明(おうようめい ワン・ヤン・ミン)没。

※1 陽明学 ようめいがく ヤン・ミン・シュエ。儒教の一派で、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張し、読書のみならず仕事や日常生活の中での実践を通して心に理を求める実践的な学問。

陽明学の信奉者とされる日本人=大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作、佐久間象山、西郷隆盛、河合継之助、岩崎弥太郎、渋沢栄一、東郷平八郎、幸徳秋水、三島由紀夫など。

 

1534年6月23日(天文3年5月12日)織田信長誕生。

(愛知県清須市の清洲公園にある、織田信長像)

 

1537年3月17日(天文6年2月6日)豊臣秀吉誕生。

(愛知県名古屋市中村区の中村公園にある、豊臣秀吉の子供時代の像)

 

1543年1月31日(天文11年12月26日)徳川家康誕生。

(愛知県岡崎市の岡崎公園にある、徳川家康の子供時代の像)

 

1543年ポーランド出身の天文学者コペルニクスが『天体の回転について』で地動説を唱える。

1543年種子島に鉄砲伝来。

 

1546年12代将軍義晴が失脚、義晴の子・足利義輝(あしかがよしてる)が室町幕府第13代将軍に就任。

1547年ロシアでイワン4世(雷帝)が最初のツァーリ(皇帝)になる。

1549年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。

(長崎県平戸市にある、平戸ザビエル記念教会)

 

1552年織田信秀が没し信長が継ぐ。

1553年第1次川中島の戦い。

武田信玄が武田軍旗に記した字句

疾如風徐如林侵 ジー・ルー・フォン、シュー・ルー・リン、チン・

掠如火不動如山 ルュエ・ルー・フオ、ブー・ドン・ルー・シャン

疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、

侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。

孫武※2の兵法書『孫子(そんし スン・ズ)』軍争篇(ぐんそうへん ジュン・チョン・ピエン)第七(だいなな ディー・チー)

故其疾如風、 グー・チー・ジー・ルー・フォン

其徐如林、 チー・シュー・ルー・リン

侵掠如火、 チン・リュエ・ルー・フオ

難知如陰、 ナン・ヂー・ルー・イン

不動如山、 ブー・ドン・ルー・シャン

動如雷霆、 ドン・ルー・レイ・ティン

故に其の疾きこと風の如く、

其の徐かなること林の如く、

侵掠すること火の如く、

知りがたきこと陰の如く、

動かざること山の如く、

動くこと雷霆(らいてい)の如し。

(口語訳)(戦争というものは敵をだますことであり、有利になるように動き、分散・集合して変化していくものである。)

だから、軍隊が移動するときは風のように速く、

陣容は林のように静かに敵方の近くでも見破られにくく、

攻撃するのは火のように勢いに乗じて、

どのような動きに出るか判らない雰囲気は陰のように、

敵方の奇策・陽動戦術に惑わされず陣形を崩さないのは山のように、

攻撃の発端は敵の無策・想定外を突いて雷のように敵方を混乱させながら実行されるべきである。

 

※2 孫武 そんぶ スン・ウー。孫子(そんし スン・ズ)は尊称。生没年不詳。中国(ちゅうごく ヂョン・グオ)の春秋時代(しゅんじゅうじだい チュン・チィウ・シー・ダイ。紀元前770年~紀元前453年or紀元前403年)、斉(せい チー)の出身。「臥薪嘗胆※3で有名な呉王(ごおう ウー・ワン)闔閭(こうりょ ハー・リー)&呉王・夫差(ふさ フー・チャエ)親子に仕え、呉を覇者※4とした。同僚に「死屍に鞭打つ※5で有名な伍子胥(ごししょ ウー・ズ・シー)がいた。

孫武が残した兵法書『孫子』は、「戦争は政治の延長にしかすぎない」というテーゼで有名なクラウゼヴィッツ『戦争論』と並ぶ兵法の古典的名著と言われている。

「全面核戦争を絶対に避けなければならない現代においては、総力戦を提唱したクラウゼヴィッツ『戦争論』こそ時代遅れであり、『孫子』の『戦争の真の目的は平和であって勝利ではない』『直接的な戦闘よりも策略や謀略を用いた間接的戦略を重視する』『守勢を重んじ、敵が自滅するのを待つ』といった兵法こそ通用している」とも言われている。

★★『孫子』の名言

兵は詭道なり

兵者詭道也 ビン・ヂャ、グイ・ダオ・イエ

(口語訳)戦争とは騙し合いである。

算多きは勝ち、算少なきは勝たず

多算勝、少算不勝 ドゥオ・スゥアン・ション、シャオ・スゥアン・ブー・ション

(口語訳)勝利の条件が多い方は実戦でも勝利するし、勝利の条件が少ない方は実戦でも敗北する。

百戦百勝は善の善なる者に非ず

百戦百勝、非善之善者 バイ・チャン・バイ・ション、フェイ・シャン・ヂー・シャン・ヂャ

(口語訳)百回戦って百回勝つのが最善ではない。戦わずして勝つのが最善である。

彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず

知彼知己者、百戰不殆 ヂー・ビー・ヂー・ジー・ヂャ、バイ・チャン・ブー・ダイ

(口語訳)敵の実情を知り、己の実情を知っていれば、百回戦っても敗れることがない。

善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり

善戦者、勝於易勝者也 シャン・チャン・ヂャ、ション・ユー・イー・ション・ヂャ・イエ

(口語訳)戦上手と呼ばれた人は、勝ちやすい状況で勝つべくして勝った人たちである。

戦いは、正を以って合し、奇を以って勝つ

戦者、以正合、以奇勝 チャン・ヂャ、イー・チョン・フー、イー・チー・ション

(口語訳)戦いとは、正攻法を用いて敵と対峙し、奇策を巡らせて勝つものである。

人を致して人に致されず

致人而不致於人 チー・レン・アール、ブー・チー・ユー・レン

(口語訳)戦巧者は自分が主導権を取り、相手のペースで動かされない。

実を避けて虚を撃つ

避實而撃虚 ビー・シー・アール、ジー・シュー

(口語訳)敵が備えをする実の部分を避けて、備えが手薄な虚の部分を攻撃する。

囲師(いし)には必ず闕(か)く

囲師必闕 ウェイ・シー、ビー・チュエ

(口語訳)包囲した敵軍には逃げ道を開けておき、窮地に追い込まれた敵軍を攻撃し続けてはならない。

先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん

先奪其所愛、則聴矣 シエン・ドゥオ・チー・スオ・アイ、ツー・ティン・イー

(口語訳)まず敵が大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思いどおりにできる。

 

※3 臥薪嘗胆 がしんしょうたん ウォー・シン・チャン・ダン。敵を討とうとして苦労し、努力すること。目的を達成するため苦労を重ねること。

中国の春秋時代、紀元前496年呉王(ごおう ウー・ワン)闔閭(こうりょ ハー・リー)は即位したばかりの越王(えつおう ユエ・ワン)勾践(こうせん ゴウ・ジエン)と戦争を始めるが敗死し、後を継いだ子の夫差(ふさ フー・チャエ)は、父の仇を忘れないために薪の中に臥して身を苦しめ、紀元前494年ついに勾践を降伏させた。勾践は会稽山(かいけいざん グァイ・ジー・シャン)にこもって許しを請うた。夫差伍子胥(ごししょ ウー・ズ・シー)の進言を退けて許し、しかも、のちに伍子胥を粛正した。しかし勾践はこの「会稽の恥(かいけいのはじ)」をすすぐと決意し、苦い胆(きも)を室にかけてそれを嘗(な)めては敗戦の恨みを思い出して、紀元前473年ついに夫差を破ってその恨みを晴らした。『十八史略(じゅうはっしりゃく シー・バー・シー・リュエ) 春秋戦国(しゅんじゅうせんごく チュン・チィウ・チャン・グオ) 呉(ご ウー)』のエピソード。

夫差は、「子胥に合わせる顔がない」と言い残し自害。勾践は諸侯を会盟し覇者となった。

日本では日清戦争後の三国干渉(1895年[明治28年])に反発するマスコミ&国民のスローガンとして流行した。

 

※4 覇者 はしゃ バー・ヂャ。中国の春秋時代の中期&後期に諸国の同盟の中心となり諸国を従えて周王(しゅうおう ヂョウ・ワン)からその地位を認められた諸侯をいう。斉(せい チー)の桓公(かんこう フアン・ゴン。太公望[たいこうぼう タイ・ゴン・ウォン]の子孫)が紀元前651年に諸侯との会盟でその地位を得たのに始まる。指定された期日と場所に参集した諸侯(or代理人)のうちで牛耳(ぎゅうじ)をとるよう決められた者が盟長=覇者となり、いけにえの牛の耳を切りその血を盟長から順次すすり盟誓の約文をつくる。桓公ののちも晋(しん ジン)の文公(ぶんこう ウェン・ゴン)、楚(そ チュー)の荘王(そうおう チョン・ワン)、呉王(ごおう ウー・ワン)の闔閭(こうりょ ハー・リー)、越王(えつおう ユエ・ワン)の勾践(こうせん ゴウ・ジエン)が覇者となり、これらを春秋五覇(しゅんじゅうごは チュン・チィウ・ウー・バー)という。呉・越のかわりに秦(しん チン)の穆公(ぼくこう ムー・ゴン)、宋(そう ソン)の襄公(じょうこう シャン・ゴン)を入れる説もある。 

 

※5 死屍に鞭打つ ししにむちうつ。「死者に鞭打つ」ともいう。死んだ人の生前の言行を非難したり攻撃したりする。紀元前516年に没した楚(そ チュー)の平王(へいおう ピン・ワン)伍子胥の父と兄のかたきであったところ、紀元前506年に伍子胥が平王の死体を掘り出して300回も鞭打ったという『史記(しき シー・ジー) 伍子胥伝(ごししょでん ウー・ズ・シー・ユン)』のエピソードに由来する故事成語。

1554年武田信玄・北条氏康・今川義元の3者が三国同盟を結ぶ。

1555年毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼす。

(広島県廿日市市にある、厳島の戦いの舞台となった宮島の、厳島神社。なお、「厳島」と「宮島」の使い分けは特にルールがなく、漢字の平易さから「宮島」を選ぶことも多いという程度のことらしい)

 

1556年斎藤道三が子の義龍に討たれる。

(岐阜県岐阜市にある、岐阜城。1567年に奪取した織田信長が稲葉山城から岐阜城へと名を改めた。現在そびえてるのは1956年[昭和31年]に完成した鉄筋コンクリート造りの復興天守)

 

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(雑感)

 

日本史メモも44回目、時代は戦国時代まっただ中です。「やっとよく知ってる人がたくさん出てきた」という気がしますよね。戦国時代が舞台の大河ドラマは、だいたい、この時代から第1話がスタートしますもんね。

これ以降の時代のことなら、よく知ってらっしゃる方が大勢いらっしゃるでしょう。うかつにコメントできません。お題としては「戦国時代について」「陽明学について」「孫武の兵法書『孫子』について」といったところですが、「私よりよく知ってらっしゃる方が多いでしょう。コメントは差し控えることにします」とします。

(ポルトガルのリスボンにある、発見のモニュメント。大航海時代を記念したモニュメントで、この中にはマゼランやバスコ・ダ・ガマやザビエルの像もある)

 

第103代天皇 後土御門(ごつちみかど)天皇⑱ 在位期間1464年~1500年 なお、「⑱」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系18代遡る」という意味です。

成仁(ふさひと)親王。後花園天皇⑲の第1皇子。後柏原天皇⑰の父。

1442年生まれ。22歳(数え23歳)で即位。後花園上皇の院政下にあり、上皇は1471年に崩御。

1467年、応仁の乱(~1477年)が起こる。室町幕府第8代将軍・足利義政の花の御所で10年間の避難生活を余儀なくされた。その避難生活中、「義政がたびたび開いた酒宴にいつも同席していた」「義政の正妻・日野富子の侍女に皇女を産ませた」と伝えられている。

応仁の乱のあと朝廷財政は極度に悪化。当時の天皇は崩御する前に譲位するのが慣例だったが、譲位&新天皇即位の費用すら準備できないため、後土御門&後柏原&後奈良⑯の3天皇は譲位すらできなかった。ようやく譲位できるようになるのは織田信長&豊臣秀吉によって朝廷財政が回復した正親町天皇⑮の代。

在位のまま58歳(数え59歳)で崩御。葬儀費用すらなく、40日以上も御所に遺体が置かれたままだったという。泉涌寺(せんにゅうじ。南北朝時代から孝明天皇⑤までの歴代天皇の葬儀を行った寺)が奔走して崩御から43日目にようやく葬儀が行われた。

1473年義政&日野富子の子・足利義尚(あしかがよしひさ)が室町幕府第9代将軍に就任。

1474年、延暦寺から攻撃されていた浄土真宗本願寺派(一向宗)の蓮如(れんにょ)が、越前に滞在。こののち北陸などで一向宗が広まる。

 

1482年足利義政が東山山荘の造営を開始し翌年から居住。のちの慈照寺(じしょうじ)、いわゆる銀閣寺。東山文化を代表する建築物で、「古都京都の文化財」の一部として世界遺産。現存する当時の建物は銀閣(慈照寺観音殿)と東求堂(とうぐどう)のみ。

(京都市左京区にある、国宝、世界遺産、慈照寺[いわゆる銀閣寺]の銀閣。)

 

1485年山城国一揆(やましろのくにいっき)が起こる(~1493年)。

1488年加賀一向一揆が起こる(~1588年)。

1489年9代将軍義尚が六角攻めの陣中で没し、足利義材(あしかがよしき。1498年に義尹[よしただ]、1513年に義稙[よしたね]と改名。義政の弟・義視の子)が室町幕府第10代将軍に就任。

1493年管領・細川政元や日野富子が起こした明応の政変により義材が将軍職を追われる。1494年足利義澄(あしかがよしずみ。堀越公方となった義政の兄・足利政知[あしかがまさとも]の子)が室町幕府第11代将軍に就任。

ちなみに、堀越公方家では内紛が起きており、明応の政変と関連しつつ、北条早雲/伊勢宗瑞(いせそうずい。伊勢新九郎盛時[いせしんくろうもりとき]or長氏[ながうじ])が1493年に堀越公方を滅ぼし伊豆半島を手に入れている。1495年の大地震(津波で鎌倉の大仏殿が流される)や1498年の明応地震(東海&東南海&南海巨大地震。津波で浜名湖が海とつながる)の大津波と早雲の小田原城奪取を関連付ける説もある。

(神奈川県小田原市にある、小田原城。過去何度も巨大地震の被害を受けており、現在の天守閣は1960年[昭和35年]築造)

1492年イタリア人コロンブスがスペインの援助でバハマ諸島に到達し大西洋航路を発見。

(スペインのバルセロナにある、コロンブスの塔)

 

1497年~1499年ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマが、東回り航路でアフリカ南端の喜望峰を経てインドに至るインド航路を開拓する。これが第1回の航海で、第2回の航海では強力な海軍を率いて反対勢力を制圧し現地に商館を設置。この手法がヨーロッパ諸国がアジアに植民地主義を展開する手法となった。第3回の航海では、ポルトガル国王の命でインド総督or副王として1524年インドに赴任。しかし同年同地で病没。

 

 

第104代天皇 後柏原(ごかしわばら)天皇⑰ 在位期間1500年~1526年

勝仁(かつひと)親王。後土御門天皇⑱の第1皇子。後奈良天皇⑯の父。なお「後柏原」は第50代天皇・桓武天皇㊺の別称「柏原帝」にちなむ。

1464年生まれ。35歳(数え37歳)で即位。応仁の乱後の朝廷財政窮乏のため即位の礼の費用が集まらず、即位22年目にようやく献金で行われた。

位のまま61歳(数え63歳)で崩御。

1508年大内義興(おおうちよしおき)の支援を受けた足利義尹(あしかがよしただ。かつての10代将軍義材[よしき]が1498年に改名)が再起上洛し、義澄派を破って将軍職に復帰する。1513年義尹はまた「義稙」と改名。

しかし、大内軍が帰ると義稙がまた失脚し、1521年義澄の子・足利義晴(あしかがよしはる)が室町幕府第12代将軍に就任。

1517年ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン・ルターが「九十五か条の論題」を発表し宗教改革が始まる。

 

1519年ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)が67歳で没。

 

1519年北条早雲/伊勢宗瑞没(生年不詳のため没年齢不詳)。

(神奈川県小田原市にある、北条早雲像)

 

1520年ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティ(Raffaello Santi)(ラファエロ・サンツィオ[Raffaello Sanzio]など他に複数の表記がある)が37歳で没。

 

1519年~1522年、マゼランの艦隊が史上初の世界一周。

スペイン王カルロス1世の命によりスペイン船5隻265名でセビリアを出港。

マゼランは、いわゆる「お雇い外国人指揮官」のポルトガル人で、1521年にフィリピンのマクタン島(現在、セブ島と橋で繋がってる小さな島)で戦死。原因は下記の通り。

・セブ島の王とマクタン島のラプラプ王の勢力争いに安易に加担した。

・ムスリムのラプラプ王に対しキリスト教改宗を強制しようとした。

・ラプラプ王は周到に準備して大型船の入れない浅瀬へと誘い込んだ。

・小型ボートに乗った49人だけで突入し、1500人のラプラプ王の軍が現れても、相手を侮って突撃した。

・そもそも「お雇い外国人指揮官」だったマゼランとスペイン人乗組員たちとの絆は弱く、最後はマゼランを残して逃げ帰った。

世界一周して戻ってきたのはビクトリア号1隻と18名。最後に指揮をとったスペイン人エルカーノも次の航海で病死。航海記録を残したピガフェッタはイタリア人。

(フィリピンのセブ島にあるマゼランクロス。マゼランが打ち込んだという巨大な十字架は彼の死後失われた。現在の十字架は、フィリピンでのキリスト教布教が成功してからスペイン人が打ち込んだレプリカ)

 

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(雑感)

 

今回のお題は「パイオニア(開拓者)」です。

コロンブスバスコ・ダ・ガママゼラン。彼らは、まさに、パイオニア(開拓者)ですよね。

 

そして、私も、「実名を公表して、物心ついた頃から全く嗅覚がないという嗅覚障害に取り組む、パイオニア」を自負してます

なにしろ、ホントですから。

他でもない、正真正銘の、実名を公表して嗅覚障害に取り組むことのパイオニア、それが私です。

パイオニアであること、私は気に入ってます。

誇りに思ってます。

生き甲斐を感じてます。

しかし。

 

マゼランの最期。全く、ひどいものですよね。

 

あきれて物も言えないと言いますか、ガッカリと言いますか、とにかく酷い末路です。

 

コロンブスだって激しく微妙です。

ネイティヴアメリカンを大虐殺。

死ぬまで「あそこはインド」と信じていた。そのため新大陸アメリカの名称は南米へ航海したイタリア人アメリゴ・ベスプッチのラテン名「Americus」に由来、ということに。

やはり、あきれて物も言えません。ガッカリです。

(イタリアのジェノヴァにある、コロンブスの生家)

 

バスコ・ダ・ガマは、マゼランコロンブスに比べればずっとマシ。大航海時代のパイオニアの中ではベストと言っても良い人生を送ってます。

とは言え、ヨーロッパ諸国によるアジアの植民地化の始まりであることを考えれば、手放しで礼賛する気にはなれません。

 

こうしてリアルな歴史を学ぶと、パイオニアだからと言って単純に「良いねぇ、良いよねぇ、パイオニア♪」と浮かれるわけにいきません。

これはマジで洒落にならないことです。私だって、実名を公表して嗅覚障害に取り組む、パイオニアなわけですからね。

もちろん、マゼランみたいな悲惨な最期を迎えたくはありません。

マゼランコロンブスも、現地や周囲の人と協調する姿勢が無さ過ぎですよね。

現実は甘くなかったわけです。

バスコ・ダ・ガマの、武力による植民地支配だって、結局、のちの世で否定されてます。良くありません。

現地や周囲の人と協調すること、協調主義が大切なわけです。

 

つまり、パイオニアとして心掛けないといけないのは、現地や周囲の人と協調すること、協調主義なわけですね。

現地や周囲の人と戦うのは避ける。それが大切。そう思うのです。

 

さて、私は大丈夫でしょうか?「現地や周囲の人と協調すること、協調主義」、できてるでしょうか?

うーん、どうでしょう。

何しろ、私の周囲ときたら、長いこと、なぜか「不思議な現象が起こる」ということが多いのです。

困ったものです。

パイオニアにとって、現地や周囲の人と協調すること、協調主義が大切だ!そうしよう!」と決めたとしても、ちゃんと実践できるかどうか?ちょっと自信がありません。

うーん、ホント、困ったものです。

ちなみに、コロンブスと言えば「コロンブスの卵」が有名ですよね。

 

あのエピソード、私の「圧迫面接の一件」の体験の説明で、よく使います。

 

「圧迫面接の概念を知らなかった。その状態で19歳のときに中央大学真法会の面接で圧迫面接を受けてパニックになった。偶然、概念を知ったのは、20年もたってから。20年たってやっと誤解に気付き、原因が嗅覚障害にあると悟る切っ掛けになった。おかげで20年が無駄になった。真法会が圧迫面接のあと、すぐに、圧迫面接の概念を教えてくれていれば、こんなことにならなかったのに」という体験の説明です。

 

「コロンブスの卵のエピソードを知らない人に、『卵を立ててみて』と言って、コロンブスの卵のエピソードを教えないようなものだ。そのまま20年間、ずーっと卵を立てようと努力し続けていたようなものだ。偶然、エピソードを知って、『この20年間の努力は無駄だった』と悟るようなものだ」

(フランスの首都パリ、ルーブル美術館の前のピラミッド広場にある、ジャンヌ・ダルク像) 

 

第102代天皇 後花園(ごはなぞの)天皇⑲ 在位期間1428年~1464年 なお、「⑲」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系19代遡る」という意味です。

彦仁王(ひこひとおう)。伏見宮貞成親王⑳の第1王子。後土御門天皇⑱の父。

1419年生まれ。9歳(数え10歳)で即位。

文芸や学問の才があり、飢饉の最中にもかかわらず御所の改築に夢中だった足利義政を諫めた逸話で知られる。

45歳(数え46歳)で譲位し院政を布く。

1471年1月(旧暦12月)51歳(旧暦での数え52歳)で崩御。

※ 伏見宮貞成親王 ふしみのみやさだふさしんのう。1425年に称光天皇の後継ぎ問題で揉めた末に出家しており、出家後の法名は道欽入道(どうきんにゅうどう)親王。1428年当時まだ数え57歳で存命していた。院政を布いていた後小松上皇が崩御したのち、後堀河天皇の父・後高倉院の先例にならい太上天皇と追尊され法皇として遇されることになった。院号は後崇光院(ごすこういん)。84歳(数え85歳)で崩御。

 

第93代天皇・後伏見(ごふしみ)天皇㉔

北朝初代・光厳(こうごん)天皇㉓

北朝3代・崇光(すこう)天皇㉒

伏見宮栄仁(ふしみのみやよしひと)親王㉑

伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王(道欽入道親王、後崇光院)⑳

第102代天皇・後花園(ごはなぞの)天皇⑲

 

1429年4代将軍義持の弟でくじ引きで決まった足利義教(あしかがよしのり)が室町幕府第6代将軍に就任。

1441年将軍義教が赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺害される(嘉吉の乱[かきつのらん])。

翌1442年義教の8歳(数え9歳)の子・足利義勝(よしかつ)が第7代将軍に就任するが、翌1443年赤痢で没。

義勝の7歳(数え8歳)の弟・足利義政(あしかがよしまさ)が家督を継ぎ、1449年第8代将軍に就任。

1428年ベトナム(大越)が明から独立。

(フランスの世界遺産・モンサンミッシェルにある、ジャンヌ・ダルクの像)

 

1428年、英仏百年戦争(1337年~1453年)中のフランスに、ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc 1412年1月6日生~1431年5月30日19歳で没)が出現する。

1429年3月シノンでシャルル王太子(シャルル7世)に面会して信頼を得た、17歳の無学な農民の娘・ジャンヌは、4月にフランス軍を率いて、イングランド軍に包囲されたオルレアンの救援を開始する。

5月オルレアン開放。

連戦連勝で7月ランスに入城。ランスのノートルダム大聖堂でシャルル7世が戴冠する。

しかし、1430年ブルゴーニュ公国軍に捕まりイングランドに引き渡され、1431年処刑された。

(ランスにある、世界遺産のノートルダム大聖堂)

1450年ころ神聖ローマ帝国(現在はドイツ)のマインツでグーテンベルクが活版印刷を開始。

1453年5月オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを攻略し東ローマ帝国滅亡。

1453年10月英仏百年戦争終結。フランスはカレー以外の全ての国土を奪回して講和した。この戦争の結果、フランスでは封建諸侯・騎士が大打撃を受けて、以後、中産市民層の台頭、国王による中央集権化が進んだ。

1455年イングランドで薔薇戦争が始まる(~1485年)。百年戦争と薔薇戦争の結果、イングランドでも封建諸侯・騎士が自滅し、中産市民層の台頭、国王による中央集権化が進んだ。

 

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(雑感)

 

今回のお題は「ジャンヌ・ダルク」です。

 

(ニューカレドニアにある、ジャンヌ・ダルクの像)

 

ジャンヌ・ダルクって、人類史上でも最大レベルの、「まさか!?こんなことがあるのか!?ビックリ!の大活躍をしてる人」ですよね。

 

「日本史メモ」を作っていて多くの歴史的人物を調べてるわけですが、ジャンヌ・ダルクが、一番じゃないでしょうか。「まさか!?こんなことがあるのか!?ビックリ!」って意味で。

 

人によっては「奇跡」「神」「神が実在する証(あかし)だ」と表現し、「そう表現する人がいるのも、わからなくはないよなぁ」と思える、それくらいの物凄いこと、やってます。

 

しかし、私は「奇跡」でも「神」でもなく、「神が実在する証だ」とも思いません。

 

人類史上、ごく稀なケースとして、『まさか!?こんなことがあるのか!?ビックリ!の大活躍』が、戦争という分野で起こる。実質、3,4か月間。

 

ごく稀にしかない、そういうケースのうちの一つが、ジャンヌ・ダルク

 

そう思ってます。

 

ポイントは二つ。

戦争という分野であること」

「大活躍、快進撃は、1429年の4月から7月までの、実質、4か月間ということ」

 

これって、似てるケースがありますよね。

すぐ思い浮かぶのは、木曽義仲と、太平洋戦争初期の日本軍です。

 

木曽義仲は、1183年3月に鎌倉の源頼朝と和議を結び、平家との対決に集中できる体制を整えます。そして、5月の俱利伽羅峠の戦いから、7月末の平家都落ち・義仲入京まで、破竹の勢いで大活躍します。実質、3か月間

 

太平洋戦争初期の日本軍は、1941年12月8日に真珠湾攻撃。そのあと広大な太平洋地域を次々と占領。翌1942年3月にジャワ島占領、同月マッカーサーが「I shall return.」と言い残してフィリピンから逃亡します。実質、4か月間

 

木曽義仲は、そのあとすぐ、後白河法皇から朝日将軍という縁起の悪い称号を贈られたり京都の治安回復に失敗したりして、翌1184年3月にあっという間に討死してしまいます。

 

太平洋戦争では、1942年4月ドーリットル空襲。5月珊瑚海海戦で戦術的には勝利するも戦略的には南方戦線で足踏み状態。そして6月5日のミッドウェー海戦で戦局が変わってしまいます。あとはご存知の通り。

 

どうも、戦争という分野では、3,4か月間だったら、「まさか!?こんなことがあるのか!?ビックリ!の大活躍」がある、そう感じます。

実際に、ジャンヌ・ダルク木曽義仲太平洋戦争初期の日本軍という例があるんですから。

 

そして、3,4か月間の勝因は、「奇跡」とか「神」とかじゃなくて、「味方の一致団結」「相手が油断していた」「相手が混乱し浮足立った」「相手が敗れ去ることを期待する当時のムード」など複雑に絡み合った多くの理由があった。そうとしか思えません。

 

「この国orあの国が快進撃するなんて、有り得ないよ」と、先入観を持ったり油断したりしてはいけない。

「この国orあの国のまさかの快進撃が凄い。このままずーっと続きそうだ」と、浮かれはしゃいでもいけないし、混乱し浮足立ってもいけない。

 

戦争というリアルで大事な分野のことですからね。覚えておきたいです。