嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -38ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

第114代天皇 中御門(なかみかど)天皇 在位期間1709年~1735年 なお、「⑩」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系10代遡る」という意味です。

慶仁(やすひと)親王。東山天皇⑩の第5皇子。閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王⑨の同母兄。桜町天皇の父。

1702年1月(旧暦12月)生まれ。7歳(旧暦での数え9歳)で即位。

6代将軍・徳川家宣の正室・近衛熙子(このえひろこ。天英院)は関白・近衛基煕(このえもとひろ)の娘で、このパイプを生かし、幕府との関係は良好だった。

文芸の才があり、笛の名手だったという。

1729年、8代将軍・徳川吉宗がベトナムから輸入し長崎から江戸へ歩いて移動していたインドゾウを、御所に連れてこさせて上覧。インドゾウはお辞儀をして挨拶し、天皇は上機嫌だったというエピソードが伝わっている。

吉宗は好奇心が強く、江戸城にあったオランダの動物図鑑を見てこのゾウを輸入しゾウブームを巻き起こした。他に馬やクジャクやダチョウなども輸入した。

 

(インドゾウ。吉宗が輸入したインドゾウは、現在の東京都中央区の浜離宮庭園で飼われたあと中野区で飼われ、1742年もしくは1749年まで生きたという)

 

33歳(旧暦での数え35歳)で子の昭仁(てるひと)親王(桜町天皇)に譲位し、35歳(旧暦での数え37歳)で崩御。

1713年家宣の4男で3歳(数え5歳)の徳川家継が江戸幕府第7代将軍に就任。

(『暴れん坊将軍』第1話 東映時代劇YouTube公式動画)

1716年紀州藩主・徳川吉宗(1684年生~1751年66歳[数え68歳]で没)が第8代将軍に就任。

徳川家康

10男・頼宜(よりのぶ。初代紀州藩主)

長男・光貞(みつさだ。第2代紀州藩主)

4男・吉宗(よしむね。第5代紀州藩主→第8代将軍)

1716年画家&工芸家の尾形光琳が数え59歳で没。

代表作は3つの国宝作品。

光琳の代表作その1 『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』 東京都港区南青山にある根津美術館所蔵

(2016年4月の、根津美術館で『燕子花図屏風』が公開されるニュース。時事通信社公式動画。毎年4月~5月ころ、カキツバタの季節に合わせて、公開されている)

※ちなみに、カキツバタ(燕子花)とハナショウブ(花菖蒲)とアヤメの違いは以下の通り。

上の2枚の写真がカキツバタ(燕子花)。花びらの元に、白い縦の線がある。水辺に生えていて、陸地には生えてない。

上の写真はハナショウブ(花菖蒲)。花びらの元に、黄色い部分がある。水辺のほか陸地でも生えている。

下の2枚の写真は私が撮った写真で、皇居東御苑にある二の丸庭園のハナショウブ。

上の2枚の写真がアヤメ。花びらの元に、黄色い部分、白い部分があり、紫色の筋が入る。水辺ではなく、陸地に生えている。

なお、ショウブ(菖蒲)は、また全く別の植物で、ショウブの花はガマの穂のような形で薄い黄色。5月5日の端午の節句の「菖蒲湯」は、このショウブの葉をお風呂に入れる。

★光琳の代表作その2 『紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)』 静岡県熱海市にあるMOA(エムオーエー)美術館所蔵

(2018年『紅白梅図屏風』公開のお知らせ。MOA美術館公式動画)

 

光琳の代表作その3 『八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)』 東京都台東区上野公園にある東京国立博物館所蔵

(Ⓒ東京国立博物館 研究情報アーカイブズ 画像検索 漆工 八橋蒔絵螺鈿硯箱)

1722年清の第5代皇帝・雍正帝(ようせいてい)が即位(~1735年)。

1725年近松門左衛門が旧暦での数え72歳で没。

代表作は浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』『心中天網島(しんじゅう てんのあみじま)』『女殺油地獄(おんなころし あぶらのじごく)』

(大阪府大阪市北区曾根崎の露天[つゆのてん]神社にある、『曽根崎心中』の主役カップル、お初と徳兵衛のモニュメント。1703年に遊女・お初と町人・徳兵衛がここで心中した実話をもとに、近松門左衛門が『曽根崎心中』を発表してブームとなり、「お初天神」と呼ばれるようになった)

 

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(雑感)

 

昨日、新しい元号が「令和 れいわ Reiwa」と発表されましたね。

とは言え、「大勢の方々がコメントされてますし、これからもそうでしょう。私は遠慮します」という理由で、私はコメントを控えます。

 

今日のお題は「徳川吉宗について」「動物について」「尾形光琳について」「近松門左衛門について」で、このうち「動物について」だけコメントします。

あとは「私よりも詳しい方が大勢いらっしゃるでしょう。私はコメントを控えます」パターンです。

 

動物、うちで飼ってるのは池の魚だけです。

吉宗が輸入した動物のリストを見ていて、ふと「急に見たくなったなあ」と思った動物がいまして、クジャク(孔雀)です。写真でも綺麗ですが、実物を生で見ても綺麗ですよね。

そうそう、ザギトワとマサルも拝見したいですね。チャンスはなかなかなさそうです。秋田犬、飼ってみたい気もしますが、世話が大変そうで、ちゃんと面倒を見てあげる自信がないですね。

(ザギトワとマサルがCM撮影。時事通信社公式動画)

パンダも機会があれば見に行きたいです。シャンシャン、大きくなりましたね。まだ見に行ってないです。和歌山の白浜アドベンチャーワールドは行く機会がなかなかないでしょうね。

(2019年2月の上野動物園のシャンシャン。およそ1歳8か月。時事通信社の公式動画)

 

(和歌山県西牟婁郡白浜町[にしむろぐんしらはまちょう]のアドベンチャーワールドのパンダ) 

 

第112代天皇 霊元(れいげん)天皇⑪ 在位期間1663年~1687年 なお、「⑪」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系11代遡る」という意味です。

識仁(さとひと)親王。後水尾天皇⑫の第19皇子。明正天皇&後光明天皇&後西天皇の異母弟。東山天皇⑩の父。

1654年生まれ。8歳(数え10歳)で即位。

1680年家光の4男&家綱の異母弟・徳川綱吉を江戸幕府第5代将軍に任命。同年、51年間も院政を布いていた後水尾法皇が84歳(数え85歳)で崩御。朝廷の復権を望み、朝廷人事も自ら決定したが、花見の宴で泥酔事件を起こす等の出来事もあり、摂政・近衛基煕(このえもとひろ)や幕府と対立した。

子の東山天皇に32歳(数え34歳)で譲位したのち院政を布き、1687年新天皇の大嘗祭を実現させた。歌人で能書家でもあった。東山天皇は1709年中御門天皇に譲位し院政を開始したが半年後に崩御したため、霊元上皇が再び院政を布く。このときは近衛基煕や幕府との関係も改善された。1713年に法皇となった。現時点で最後の法皇。78歳(数え79歳)で崩御。

 

 

第113代天皇 東山(ひがしやま)天皇⑩ 在位期間1687年~1709年

朝仁(あさひと)親王。霊元天皇⑪の第5皇子。中御門天皇&閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王⑨の父。

1675年生まれ。11歳(数え13歳)で即位。

将軍徳川綱吉が朝廷を重んじる立場をとったため幕府との関係は良好だった。

在位中の1688年から1704年までの元号が元禄。上方を中心に文化が発達、元禄文化と呼ばれる。小説の井原西鶴、俳句の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、絵画&工芸の尾形光琳、浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ。最初の浮世絵師。代表作は『見返り美人』)が代表的人物。

在位中に赤穂事件が起きている。父・霊元上皇と吉良義央(きらよしなか)が対立的な立場だったため、吉良義央を嫌っていたという。

33歳(数え35歳)で子の中御門天皇に譲位し院政を開始するが、天然痘のため半年後に34歳(旧暦での数え35歳)で崩御。

1687年、イギリスの数学者&物理学者&天文学者でケンブリッジ大学教授のアイザック・ニュートン (Isaac Newton 1643年生~1727年84歳で没)が、『プリンキピア(ラテン語)Principia (原題の翻訳表記)自然哲学の数学的諸原理』を出版、この中で、万有引力の法則を発表する。

【いきさつ】

1665年~1666年ロンドンでペストが大流行し、ニュートンは故郷ウールスソープに疎開する。疎開中の18か月間に「ニュートンの三大業績」と呼ばれる微積分法の証明、プリズムによる分光の実験、万有引力の着想が行われた。1684年に友人のエドモンド・ハレー(Edmond Halley 約75年周期でハレー彗星が来るとつきとめた天文学者。次のハレー彗星の近日点通過は2061年7月。前回の近日点通過は1986年[昭和61年]2月。)がケンブリッジ大学を訪ね「惑星が距離の2乗に反比例する力で太陽に引き寄せられると仮定した場合、惑星が描く曲線はどのようなものだろう?」と質問したところ、ニュートンは「楕円だろう。」と即答し「すでに自分自身でそうした計算を試みて答えを得ていた。」と答えた。同年、ニュートンはハレーに「回転している物体の運動について」という論文を送付した。これを読んだハレーがニュートンにこの論文も含めてニュートンの力学研究の成果を出版することを薦め、1687年『プリンキピア』初版が出版された。

【万有引力の法則】

ニュートンは、惑星の公転は惑星に太陽が引力を及ぼすためと考えた。

これに先立って、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年生~1630年58歳で没)は、惑星が楕円軌道を運行していることに気づいて、ケプラーの法則を得ていた。

第1法則 惑星は太陽を1つの焦点とする楕円上を運動する。

第2法則 惑星と太陽とを結ぶ線分が一定時間に通過する面積は一定である。(面積速度一定の法則)

第3法則 惑星の公転周期Tの2乗と軌道楕円の長半径(半長軸の長さ)aの3乗の比は、全ての惑星で一定になる。

T²/a³=k (kは定数)

惑星の公転軌道を近似的に円と考えると、ケプラーの第2法則から、惑星は等速円運動をする。

太陽が惑星に及ぼす力F[N]が向心力であり、「F=物体の質量×加速度」であるから、惑星の質量をm[kg]、角速度をω[rad/s]、軌道半径をr[m]とすると、運動方程式

F=mrω²

が成り立つ。

 

※等速円運動における物体の加速度a[m/s²]が a=rω² であることの証明は、下図の通り。

(🄫インターネット上のホームページ「物理のかぎしっぽ」さんの、等速円運動の説明ページ)

 

ここで、公転周期をT[s]とすると、

ω=2π/T

であるから、これを上の式に代入すると

F=mr×(2π/T)²

となる。さらにケプラーの第3法則により

T²/r³=k (kは定数)

が成り立つので

F=mr×(4π²/kr³)=(4π²/k)×(m/r²)

となり、惑星にはたらく向心力の大きさFは、惑星の質量mに比例し、軌道半径rの2乗に反比例することがわかる。

一方、作用反作用の法則から考えると、太陽も惑星から、大きさが等しく向きが反対の引力を受けており、それは太陽の質量にも比例していると考えられる。

ニュートンは、「2つの物体が及ぼしあう万有引力の大きさFは、2物体の質量m₁、m₂の積に比例し、距離rの2乗に反比例する」と結論づけた。これを万有引力の法則といい、

F=G×(m₁m₂/r²)

という式で表される。

Gは物体によらない定数で、万有引力定数とよばれる。

G≒6.67×(10のマイナス11乗)[N・m²/kg²]

F[N]は万有引力の大きさ。m₁、m₂[kg]は物体1と物体2の質量。r[m]は物体1と物体2の距離。

 

rad」は弧度法における角度の単位でラジアンという。半径と等しい長さの円弧に対する中心角を1ラジアンという。このような角度の表し方を弧度法という。半径をr[m]、円弧の長さをl[m]、中心角をθ[rad]とすると、次のようになる。

θ=l/r また、 l=rθ

角度1°を弧度法[rad]で表すと、次のようになる。

1[°]=π/180[rad] あるいは 1[rad]=180/π[°](≒57.3[°])

ω」はギリシャ文字のオメガ

θ」はギリシャ文字のシータ

π」はギリシャ文字のパイで、円周率。小数点以下が無限に続くが、小数点以下70桁まで表すと以下の通り。

3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209749445923078164

 

(山形県山形市にある、立石寺[りっしゃくじ]。別名:山寺[やまでら]。芭蕉が訪れて「閑さや~」の句を詠んだ。)

 

1689年、俳人の松尾芭蕉が、弟子の曾良(そら)を伴い、(江戸から)武蔵→東北→北陸→大垣(→1691年最終的に江戸)へ旅をした。1694年に芭蕉が亡くなったのち、1702年に紀行記『おくのほそ道』が刊行された。

『おくのほそ道』冒頭

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

つきひははくたいのかかくにして、ゆきこうとしもまたたびびとなり。

(口語訳)月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものである。

夏草や兵どもが夢のあと

なつくさやつわものどもがゆめのあと。

(解説)今見れば夏草が生い茂るばかりだが、ここは昔、義経や武人たちが功名を夢みて奮戦した跡である。そんな功名も一場の夢と消えて、ただ夏草が無心に茂っている。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

しずかさやいわにしみいるせみのこえ。

(解説)蝉の声=やかましいにもかかわらず芭蕉が閑さやとおいたのは、この閑さが蝉の鳴きしきる現実世界とは別次元の心の中の閑さだから。

(ニイニイゼミ。昭和初期、この句で芭蕉が詠んだのはアブラゼミかニイニイゼミかが論争となり、芭蕉が立石寺を訪れたタイミング、セミの活動シーズンの研究や実地調査の結果、ニイニイゼミで決着した。)

 

ちなみに、下記の芭蕉の代表作は1686年の作。

古池や蛙飛びこむ水の音

ふるいけやかわずとびこむみずのおと。

(解説)春の静けさの中、時折古池にかえるが飛び込む音が聞こえる。その音がいっときの余韻を残し、再びもとの静寂さを取り戻す。

 

1694年、芭蕉の最後の句。

旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる。

(解説)旅の途中、病気で倒れて床に伏していても、夢の中では、私は草木が枯れた冬の野を駆け巡っている。

この句を詠んだ4日後、芭蕉は大阪の宿で没(生年不明のため没年齢不詳)。遺言により近江にある木曽義仲の墓の隣に埋葬された。

1693年井原西鶴が数え52歳で没。代表作は浮世草子『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』『好色五人女(こうしょくごにんおんな)』『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』

1701年1月(旧暦12月)、水戸藩(水戸徳川家)第2代藩主・徳川光圀が72歳(旧暦での数え73歳)で没。1969年(昭和44年)から2011年(平成23年)までレギュラー放映されスペシャルを合わせて1227回も放映された痛快娯楽時代劇『水戸黄門』の主人公として有名。

光圀が1657年に着手した歴史書『大日本史』の編纂はその死後も続き、1720年にひとまず幕府に献上されたのち、1906年(明治39年)完成した。神武天皇から後小松天皇までの歴史を、中国の正史に習い、漢文の紀伝体で記述。皇統を明らかにし、南朝を正統とするなど、大義名分を主張する点で、尊王思想の育成に大きな役割を果たした。神功皇后を皇位から除外し、大友皇子を第39代・弘文天皇として皇位に加え、南朝を正統としたことを、「三大特筆」とする。

1701年4月21日(元禄14年3月14日)松之大廊下の刃傷事件。

1703年1月30日(元禄15年12月14日)赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

いわゆる赤穂事件。いわゆる忠臣蔵の題材となる。

1703年12月元禄地震(相模トラフ巨大地震)が発生。

1707年10月宝永地震(東海&東南海&南海巨大地震)が発生。

 

【1】このとき高知県室戸市の室戸岬にある室津港で180cm隆起した。

そして147年後の1854年に安政南海地震が発生している。

次までの年数/隆起cm=147/180≒0.817

このデータだと、1946年昭和南海地震(室津港で115cm隆起)の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.817≒94

94年後の2040年(令和22年)かもしれない。

 

【2】1854年安政南海地震では室津港で120cm隆起し、92年後の1946年(昭和21年)に昭和南海地震が発生している。

次までの年数/隆起cm=92/120≒0.767

このデータだと、1946年昭和南海地震の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.767≒88

88年後の2034年(令和16年)かもしれない。

 

【3】2つのデータを平均すると

(147+92)/(180+120)=239/300≒0.797

このデータだと、1946年昭和南海地震の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.797≒92

92年後の2038年(令和20年)かもしれない。

 

2025年(令和7年)現在、79年経過。【1】あと15年、【2】あと9年、【3】あと13年。

(南海トラフ地震対策の動画。内閣府防災の公式動画)

 

1707年12月、宝永地震から49日後、富士山の宝永大噴火。

池上彰司会のテレビ番組で同氏が「新井白石の『折たく柴の記』に、当時江戸でも火山灰が降り積もったと書いてあります。」と言及することが多い。『折たく柴の記』は1716年ころ成立した新井白石(1725年68歳[数え69歳]で没)の随筆。1707年当時、白石が仕えていた徳川家宣は5代将軍綱吉の養子として江戸城西の丸に住んでいたため、白石も江戸に居住していた。1716年は7代将軍家継が没し8代将軍吉宗が就任した年で、白石が失脚した年。

(富士山の南東側の斜面にある宝永火口)

 

1709年、家光の3男・綱重(つなしげ)の長男である、徳川家宣(いえのぶ)が、江戸幕府第6代将軍に就任。

 

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(雑感)

 

今回のお題は9つ。

 

元禄文化について」

ニュートンについて」

松尾芭蕉について」

井原西鶴について」

徳川光圀について」

『大日本史』について」

赤穂事件、忠臣蔵について」

南海トラフ巨大地震について」

富士山噴火について」

 

そして、全て、「難しく、リスクが高いので、コメントできません」ないし「私より詳しい方が大勢いらっしゃるでしょうから、コメントは控えます」パターンです。お題は豊富ですがコメントは難しい時代ですね。

 

 

第110代天皇 後光明(ごこうみょう)天皇 在位期間1643年~1654年 なお、「⑫」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系12代遡る」という意味です。

紹仁(つぐひと)親王。後水尾天皇⑫の第4皇子。明正天皇の異母弟、後西天皇&霊元天皇⑪の異母兄。

1633年生まれ。10歳(数え11歳)で即位。

剣術とお酒を好み、仏教や『源氏物語』は嫌いだったと言われている。

天然痘のため在位のまま21歳(数え22歳)で崩御。

1651年由井正雪の乱があり、幕府は末期養子の禁を解くなど浪人対策に努め武断政治から文治政治へ転換した。同年家光の長男・徳川家綱が江戸幕府第4代将軍に就任。

1643年ブルボン王朝第3代フランス王ルイ14世が4歳で即位(~1715年)。在位期間72年は記録が信頼できる中世以降の国家元首としてギネス世界記録。

1644年李自成の乱で明が滅ぶと、明の将軍・呉三桂の要請で清軍が山海関(さんかいかん シャン・ハイ・グゥアン)から万里の長城(ばんりのちょうじょう ワン・リー・チャン・チョン)を越え李自成を破り、清の第3代皇帝・順治帝(じゅんちてい)は瀋陽(しんよう シェン・ヤン。このあと奉天[ほうてん フォン・ティエン]と名が変わり、現在また戻っている。遼寧省[りょうねいしょう リャオ・ニン・シャン])から北京(ぺきん ベイ・ジン)に遷都して中国支配を開始(~1912年[明治45年])。

(中国・北京にある世界遺産[せかいいさん シー・ジィエ・イー・チャン]・故宮博物院[こきゅうはくぶついん グー・ゴン・ボー・ウー・ユゥエン]。かつての紫禁城[しきんじょう ズ・ジン・チョン]の太和殿[たいわでん タイ・フー・ディエン]。紫禁城は明の永楽帝[えいらくてい ヨン・ラェ・ディ]の時代から歴代皇帝の居城。1644年李自成の乱のときなど焼失・再建が数回あり、太和殿は1697年の再建。)

 

 

第111代天皇 後西(ごさい)天皇 在位期間1655年1月(旧暦11月)~1663年

良仁(ながひと)親王。後水尾天皇⑫の第8皇子。明正天皇&後光明天皇の異母弟。霊元天皇⑪の異母兄。なお、「後西」は第53代天皇・淳和天皇の別称「西院帝」にちなむ。

1638年1月(旧暦11月)生まれ。後光明天皇の次の天皇は異母弟・識仁(さとひと)親王(霊元天皇)と決まっていたが、決まった直後に後光明天皇が崩御し識仁親王がまだ生後3か月だったため、中継ぎとして17歳(数え18歳)で即位した。

学問や文芸の才があったと言われている。

25歳(旧暦での数え27歳)で識仁親王(霊元天皇)に譲位。はじめから予定されていた譲位だったが、譲位理由について諸説ある。47歳(旧暦での数え49歳)で崩御。

1657年明暦の大火。江戸城天守閣が焼失したが、将軍家綱の補佐役を務めていた保科正之(ほしなまさゆき。1611年生~1673年2月[旧暦12月]61歳[旧暦での数え62歳]で没)の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりで、城の守りには必要ない」「江戸の都市整備が優先」という方針のため、再建されなかった。

1661年清の第4代皇帝・康熙帝(こうきてい)が即位(~1722年)。

 

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(雑感)

 

今日のお題は「お城の天守閣」です。

上の写真は皇居の本丸天守台。江戸城の天守閣を建てるために築かれた石垣です。

明暦の大火でそれまでの天守閣は焼失し、とりあえず、この天守台だけ築かれて、結局それっきりなんだそうです。

現在は頻繁に開放されていて大勢の人でにぎわってます。私も行ったことがあり、上の2枚の写真も私が撮った写真です。

日本で現存する天守閣は12。

01 青森県弘前市にある、弘前城。桜の名所として有名ですね。

2015年(平成27年)、石垣の修理のため、天守閣をリフトアップし約100m移動させる「曳屋(ひきや)」が行われました。元に戻るのは2021年(令和3年)だそうです。

(弘前城の天守閣の曳屋のニュース。共同通信社の公式動画)

02 長野県松本市にある、松本城。国宝です。

別名:烏城(からすじょう)。

2011年(平成23年)の東日本大震災では天守の壁など25か所にひびが入ったそうです。

最近のニュースでは、ここの三層の乾小天守(いぬいこてんしゅ)が現存する日本最古の天守閣かもしれないとのこと。

03 福井県坂井市にある、丸岡城。

現存する最古の天守閣・・・と従来言われていたのですが、どうも違うらしいとのニュースが。

天守の柱などについて、年輪、放射性炭素、酸素同位体比の3つの年代調査を実施した結果、江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建てられたとみられる、という結論が出たそうなのです。

松本城の乾小天守(いぬいこてんしゅ)か、犬山城天守閣が、現存する最古の天守閣とのこと。

04 愛知県犬山市にある、犬山城。国宝です。

もしかするとこちらが現存する日本最古の天守閣かもしれない、とのこと。

05 滋賀県彦根市にある、彦根城。国宝です。

06 兵庫県姫路市にある、姫路城。世界遺産、国宝です。

別名:白鷺城(はくろじょうorしらさぎじょう)

やっぱり姫路城、見事ですし綺麗です。素晴らしいですよね。

07 島根県松江市にある、松江城。国宝です。

08 岡山県高梁(たかはし)市にある、備中松山城。

現存天守で2階建ての天守閣はこれだけです。

09 香川県丸亀市にある、丸亀城。

10 愛媛県松山市にある、松山城。

11 愛媛県宇和島市にある、宇和島城。

12 高知県高知市にある、高知城。

以上が現存12天守。

国宝は、松本城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城の5つ。

それ以外は全て重要文化財です。

こちらは、愛知県名古屋市中区&北区にある、名古屋城。

別名:金鯱城(きんこじょう)。

1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲で焼失。

1959年(昭和34年)、天守閣や金の鯱(しゃちほこ)が再建されました。

もっとも、鉄筋コンクリート造りで内部と外部にエレベーターがあるため議論の対象となることも多く、21世紀に入り、ついに木造復元事業が決定。2018年(平成30年)5月から天守閣入場禁止となりました。

2022年(令和4年)12月に木造復元工事完成予定・・・なんですが、文化庁の有識者会議で「石垣の保全策や埋蔵文化財調査が不十分」と反対意見が強かったそうで、ちょっと先行き不透明みたいです。

 

熊本県熊本市中央区にある、熊本城。

別名:銀杏城(ぎんなんじょう)。

石垣の勾配曲線の変化による「武者返し」が特徴で、下の方は勾配が緩やかですが、次第に急になり、最後ほぼ垂直になってます。これが西南戦争でも役に立ったそうです。カッコ良いですね。

1877年(明治10年)、西南戦争で西郷軍が総攻撃に入る2日前に火災が発生し焼失。

1960年(昭和35年)に再建。

しかし、2016年(平成28年)の熊本地震で被災、現在も修復中です。

写真は熊本地震前の写真を選びました。

(©株式会社山と渓谷社「Fantastic View 幻想絶景 Yama-Kei Calendar 2022」)

(©株式会社山と渓谷社「Fantastic View 幻想絶景 Yama-Kei Calendar 2022」)

 

(Ⓒ新日本カレンダー株式会社「NK-28 ヨーロッパ<2023年版>」)

 

これはヨーロッパのお城。ドイツ南部のバイエルン州にあるノイシュヴァンシュタイン城(Schloss Neuschwanstein シュロス・ノイシュヴァンシュタイン)です。

ディズニーのお城のモデルや、ジグゾーパズルの題材として有名ですよね。

1869年(明治2年)~1886年(明治19年)、バイエルン王ルートヴィヒ2世がロマンチック趣味で造った鉄筋コンクリート造りの城です。

ルートヴィヒ2世は更にもっとお城を造ろうとしますが、乱費を批判され、謎の死を遂げます。

 

うーん、やっぱり、世の中甘くないのです。

大事なことですよね。

 

江戸城天守閣を再建しなかった保科正之

趣味で鉄筋コンクリート造りのノイシュヴァンシュタイン城を作り、更にもっとお城を造ろうとしたルートヴィヒ2世。

 

色々と考えさせられます。

天守閣がなくても大人気のお城もあります。

 

まず、竹田城。

兵庫県北部の朝来(あさご)市にある山城です。

「天空の城」と呼ばれる、雲海とのコラボは、ホントに素敵ですよね。

「日本のマチュピチュ」と呼ばれるのもうなずけます。

マチュピチュは無理でも、この「天空の城」は一度見てみたいものです。

雲海がよく出るのは9月~11月の晴れ&無風&日の出前~朝8時だそうで、但馬南部地方に濃霧注意報が出た時がチャンスだそうです。

天守閣がなくても大人気のお城と言えば、もう一つ、五稜郭ですよね。

言わずと知れた、北海道函館市にある、「函館の夜景」と並ぶ観光名所です。

土方歳三(1835年生~1869年6月20日[明治2年5月11日]戦死。享年34歳[数え35歳])の最後の地としても有名ですね。

土方は、細くなって函館山につながってるエリアで乱戦になり、馬に乗っていた土方の腹部に新政府軍の銃弾が命中し、落馬、戦死したと言われてます(異説もあります)。

 

「今の時代、お城や天守閣なんて、不要だ」

 

「むしろ、今の時代こそ、観光のためにあった方が良い」

 

「江戸城や安土城の天守閣を再建しよう」

 

「昔の天守閣を忠実に木造復元した方が良い」

 

「忠実な木造復元にこだわらず、バリアフリー化した方が良い」

 

色々な意見がありますよね。

 

この点については、私は、「大変難しく、リスクが高いので、コメントはできません」パターンです。