日本史メモ 第49回 112 霊元天皇、113 東山天皇 | 嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

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リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

第112代天皇 霊元(れいげん)天皇⑪ 在位期間1663年~1687年 なお、「⑪」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系11代遡る」という意味です。

識仁(さとひと)親王。後水尾天皇⑫の第19皇子。明正天皇&後光明天皇&後西天皇の異母弟。東山天皇⑩の父。

1654年生まれ。8歳(数え10歳)で即位。

1680年家光の4男&家綱の異母弟・徳川綱吉を江戸幕府第5代将軍に任命。同年、51年間も院政を布いていた後水尾法皇が84歳(数え85歳)で崩御。朝廷の復権を望み、朝廷人事も自ら決定したが、花見の宴で泥酔事件を起こす等の出来事もあり、摂政・近衛基煕(このえもとひろ)や幕府と対立した。

子の東山天皇に32歳(数え34歳)で譲位したのち院政を布き、1687年新天皇の大嘗祭を実現させた。歌人で能書家でもあった。東山天皇は1709年中御門天皇に譲位し院政を開始したが半年後に崩御したため、霊元上皇が再び院政を布く。このときは近衛基煕や幕府との関係も改善された。1713年に法皇となった。現時点で最後の法皇。78歳(数え79歳)で崩御。

 

 

第113代天皇 東山(ひがしやま)天皇⑩ 在位期間1687年~1709年

朝仁(あさひと)親王。霊元天皇⑪の第5皇子。中御門天皇&閑院宮直仁(かんいんのみやなおひと)親王⑨の父。

1675年生まれ。11歳(数え13歳)で即位。

将軍徳川綱吉が朝廷を重んじる立場をとったため幕府との関係は良好だった。

在位中の1688年から1704年までの元号が元禄。上方を中心に文化が発達、元禄文化と呼ばれる。小説の井原西鶴、俳句の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門、絵画&工芸の尾形光琳、浮世絵の菱川師宣(ひしかわもろのぶ。最初の浮世絵師。代表作は『見返り美人』)が代表的人物。

在位中に赤穂事件が起きている。父・霊元上皇と吉良義央(きらよしなか)が対立的な立場だったため、吉良義央を嫌っていたという。

33歳(数え35歳)で子の中御門天皇に譲位し院政を開始するが、天然痘のため半年後に34歳(旧暦での数え35歳)で崩御。

1687年、イギリスの数学者&物理学者&天文学者でケンブリッジ大学教授のアイザック・ニュートン (Isaac Newton 1643年生~1727年84歳で没)が、『プリンキピア(ラテン語)Principia (原題の翻訳表記)自然哲学の数学的諸原理』を出版、この中で、万有引力の法則を発表する。

【いきさつ】

1665年~1666年ロンドンでペストが大流行し、ニュートンは故郷ウールスソープに疎開する。疎開中の18か月間に「ニュートンの三大業績」と呼ばれる微積分法の証明、プリズムによる分光の実験、万有引力の着想が行われた。1684年に友人のエドモンド・ハレー(Edmond Halley 約75年周期でハレー彗星が来るとつきとめた天文学者。次のハレー彗星の近日点通過は2061年7月。前回の近日点通過は1986年[昭和61年]2月。)がケンブリッジ大学を訪ね「惑星が距離の2乗に反比例する力で太陽に引き寄せられると仮定した場合、惑星が描く曲線はどのようなものだろう?」と質問したところ、ニュートンは「楕円だろう。」と即答し「すでに自分自身でそうした計算を試みて答えを得ていた。」と答えた。同年、ニュートンはハレーに「回転している物体の運動について」という論文を送付した。これを読んだハレーがニュートンにこの論文も含めてニュートンの力学研究の成果を出版することを薦め、1687年『プリンキピア』初版が出版された。

【万有引力の法則】

ニュートンは、惑星の公転は惑星に太陽が引力を及ぼすためと考えた。

これに先立って、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(1571年生~1630年58歳で没)は、惑星が楕円軌道を運行していることに気づいて、ケプラーの法則を得ていた。

第1法則 惑星は太陽を1つの焦点とする楕円上を運動する。

第2法則 惑星と太陽とを結ぶ線分が一定時間に通過する面積は一定である。(面積速度一定の法則)

第3法則 惑星の公転周期Tの2乗と軌道楕円の長半径(半長軸の長さ)aの3乗の比は、全ての惑星で一定になる。

T²/a³=k (kは定数)

惑星の公転軌道を近似的に円と考えると、ケプラーの第2法則から、惑星は等速円運動をする。

太陽が惑星に及ぼす力F[N]が向心力であり、「F=物体の質量×加速度」であるから、惑星の質量をm[kg]、角速度をω[rad/s]、軌道半径をr[m]とすると、運動方程式

F=mrω²

が成り立つ。

 

※等速円運動における物体の加速度a[m/s²]が a=rω² であることの証明は、下図の通り。

(🄫インターネット上のホームページ「物理のかぎしっぽ」さんの、等速円運動の説明ページ)

 

ここで、公転周期をT[s]とすると、

ω=2π/T

であるから、これを上の式に代入すると

F=mr×(2π/T)²

となる。さらにケプラーの第3法則により

T²/r³=k (kは定数)

が成り立つので

F=mr×(4π²/kr³)=(4π²/k)×(m/r²)

となり、惑星にはたらく向心力の大きさFは、惑星の質量mに比例し、軌道半径rの2乗に反比例することがわかる。

一方、作用反作用の法則から考えると、太陽も惑星から、大きさが等しく向きが反対の引力を受けており、それは太陽の質量にも比例していると考えられる。

ニュートンは、「2つの物体が及ぼしあう万有引力の大きさFは、2物体の質量m₁、m₂の積に比例し、距離rの2乗に反比例する」と結論づけた。これを万有引力の法則といい、

F=G×(m₁m₂/r²)

という式で表される。

Gは物体によらない定数で、万有引力定数とよばれる。

G≒6.67×(10のマイナス11乗)[N・m²/kg²]

F[N]は万有引力の大きさ。m₁、m₂[kg]は物体1と物体2の質量。r[m]は物体1と物体2の距離。

 

rad」は弧度法における角度の単位でラジアンという。半径と等しい長さの円弧に対する中心角を1ラジアンという。このような角度の表し方を弧度法という。半径をr[m]、円弧の長さをl[m]、中心角をθ[rad]とすると、次のようになる。

θ=l/r また、 l=rθ

角度1°を弧度法[rad]で表すと、次のようになる。

1[°]=π/180[rad] あるいは 1[rad]=180/π[°](≒57.3[°])

ω」はギリシャ文字のオメガ

θ」はギリシャ文字のシータ

π」はギリシャ文字のパイで、円周率。小数点以下が無限に続くが、小数点以下70桁まで表すと以下の通り。

3.1415926535897932384626433832795028841971693993751058209749445923078164

 

(山形県山形市にある、立石寺[りっしゃくじ]。別名:山寺[やまでら]。芭蕉が訪れて「閑さや~」の句を詠んだ。)

 

1689年、俳人の松尾芭蕉が、弟子の曾良(そら)を伴い、(江戸から)武蔵→東北→北陸→大垣(→1691年最終的に江戸)へ旅をした。1694年に芭蕉が亡くなったのち、1702年に紀行記『おくのほそ道』が刊行された。

『おくのほそ道』冒頭

月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

つきひははくたいのかかくにして、ゆきこうとしもまたたびびとなり。

(口語訳)月日は永遠の旅人であり、来ては過ぎゆく年もまた旅人のようなものである。

夏草や兵どもが夢のあと

なつくさやつわものどもがゆめのあと。

(解説)今見れば夏草が生い茂るばかりだが、ここは昔、義経や武人たちが功名を夢みて奮戦した跡である。そんな功名も一場の夢と消えて、ただ夏草が無心に茂っている。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

しずかさやいわにしみいるせみのこえ。

(解説)蝉の声=やかましいにもかかわらず芭蕉が閑さやとおいたのは、この閑さが蝉の鳴きしきる現実世界とは別次元の心の中の閑さだから。

(ニイニイゼミ。昭和初期、この句で芭蕉が詠んだのはアブラゼミかニイニイゼミかが論争となり、芭蕉が立石寺を訪れたタイミング、セミの活動シーズンの研究や実地調査の結果、ニイニイゼミで決着した。)

 

ちなみに、下記の芭蕉の代表作は1686年の作。

古池や蛙飛びこむ水の音

ふるいけやかわずとびこむみずのおと。

(解説)春の静けさの中、時折古池にかえるが飛び込む音が聞こえる。その音がいっときの余韻を残し、再びもとの静寂さを取り戻す。

 

1694年、芭蕉の最後の句。

旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる

たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる。

(解説)旅の途中、病気で倒れて床に伏していても、夢の中では、私は草木が枯れた冬の野を駆け巡っている。

この句を詠んだ4日後、芭蕉は大阪の宿で没(生年不明のため没年齢不詳)。遺言により近江にある木曽義仲の墓の隣に埋葬された。

1693年井原西鶴が数え52歳で没。代表作は浮世草子『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』『好色五人女(こうしょくごにんおんな)』『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』

1701年1月(旧暦12月)、水戸藩(水戸徳川家)第2代藩主・徳川光圀が72歳(旧暦での数え73歳)で没。1969年(昭和44年)から2011年(平成23年)までレギュラー放映されスペシャルを合わせて1227回も放映された痛快娯楽時代劇『水戸黄門』の主人公として有名。

光圀が1657年に着手した歴史書『大日本史』の編纂はその死後も続き、1720年にひとまず幕府に献上されたのち、1906年(明治39年)完成した。神武天皇から後小松天皇までの歴史を、中国の正史に習い、漢文の紀伝体で記述。皇統を明らかにし、南朝を正統とするなど、大義名分を主張する点で、尊王思想の育成に大きな役割を果たした。神功皇后を皇位から除外し、大友皇子を第39代・弘文天皇として皇位に加え、南朝を正統としたことを、「三大特筆」とする。

1701年4月21日(元禄14年3月14日)松之大廊下の刃傷事件。

1703年1月30日(元禄15年12月14日)赤穂浪士の吉良邸討ち入り。

いわゆる赤穂事件。いわゆる忠臣蔵の題材となる。

1703年12月元禄地震(相模トラフ巨大地震)が発生。

1707年10月宝永地震(東海&東南海&南海巨大地震)が発生。

 

【1】このとき高知県室戸市の室戸岬にある室津港で180cm隆起した。

そして147年後の1854年に安政南海地震が発生している。

次までの年数/隆起cm=147/180≒0.817

このデータだと、1946年昭和南海地震(室津港で115cm隆起)の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.817≒94

94年後の2040年(令和22年)かもしれない。

 

【2】1854年安政南海地震では室津港で120cm隆起し、92年後の1946年(昭和21年)に昭和南海地震が発生している。

次までの年数/隆起cm=92/120≒0.767

このデータだと、1946年昭和南海地震の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.767≒88

88年後の2034年(令和16年)かもしれない。

 

【3】2つのデータを平均すると

(147+92)/(180+120)=239/300≒0.797

このデータだと、1946年昭和南海地震の次に来る南海トラフ巨大地震

115×0.797≒92

92年後の2038年(令和20年)かもしれない。

 

2023年(令和5年)現在、77年経過。【1】あと17年、【2】あと11年、【3】あと15年。

(南海トラフ地震対策の動画。内閣府防災の公式動画)

 

1707年12月、宝永地震から49日後、富士山の宝永大噴火。

池上彰司会のテレビ番組で同氏が「新井白石の『折たく柴の記』に、当時江戸でも火山灰が降り積もったと書いてあります。」と言及することが多い。『折たく柴の記』は1716年ころ成立した新井白石(1725年68歳[数え69歳]で没)の随筆。1707年当時、白石が仕えていた徳川家宣は5代将軍綱吉の養子として江戸城西の丸に住んでいたため、白石も江戸に居住していた。1716年は7代将軍家継が没し8代将軍吉宗が就任した年で、白石が失脚した年。

(富士山の南東側の斜面にある宝永火口)

 

1709年、家光の3男・綱重(つなしげ)の長男である、徳川家宣(いえのぶ)が、江戸幕府第6代将軍に就任。

 

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(雑感)

 

今回のお題は9つ。

 

元禄文化について」

ニュートンについて」

松尾芭蕉について」

井原西鶴について」

徳川光圀について」

『大日本史』について」

赤穂事件、忠臣蔵について」

南海トラフ巨大地震について」

富士山噴火について」

 

そして、全て、「難しく、リスクが高いので、コメントできません」ないし「私より詳しい方が大勢いらっしゃるでしょうから、コメントは控えます」パターンです。お題は豊富ですがコメントは難しい時代ですね。