嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -34ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

(岐阜県不破郡関ケ原町[ふわぐんせきがはらちょう]にある、関ヶ原古戦場)

 

 

江戸幕府初代将軍 徳川家康(とくがわいえやす) 在任期間1603年~1605年

父は岡崎城主・松平広忠(1549年数え24歳で没。死因には諸説ある)、母は正妻・於大の方(おだいのかた。伝通院。実家は天保の改革を主導した水野忠邦などを輩出した水野家。数え14歳で嫁ぎ数え15歳で竹千代を産む。1602年数え75歳で没)。1543年1月31日(天文11年12月26日)生まれ。清和源氏の新田氏の傍流とされるが信憑性は微妙。幼名は竹千代。改名・改姓し、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康。

織田の人質、次に今川の人質になり、今川勢の武将となる。ドラマや小説では、数え6歳~8歳のときの竹千代が数え14歳~16歳のときの織田信長(1534年6月23日[天文3年5月12日]生まれ)と仲良くなり、今川では軍師・太原雪斎(たいげんせっさい。1555年数え60歳で没)の薫陶を受けるのが恒例だが、真偽不明。1560年桶狭間の戦いを機に独立、織田信長と同盟。三河一向一揆を鎮圧して三河を統一。武田氏と組み今川氏を攻め降伏させ、遠江を手に入れ岡崎から浜松へ移る。信長と共に浅井氏&朝倉氏を攻撃。西上してきた武田信玄と戦うが、1573年1月(元亀3年12月)三方ヶ原の戦いで完敗。しかし同年5月(元亀4年4月)信玄は51歳(数え53歳)で没し、1575年長篠の戦いで信長と連合で武田勝頼に完勝。正妻&長男・信康が信長から謀反の疑いをかけられると、妻子を死に追いやる。武田氏を滅ぼしたあと上京し堺見物している時に1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変(信長没。享年47歳[数え49歳])が起こり、かろうじて帰国。

武田氏の遺領を併合後、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)と組み1584年小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉。1537年3月17日[天文6年2月6日]生まれ)と戦うが和睦、秀吉政権下の大名となる。1590年北条攻めのあと関東へ領地替えになり、江戸を根拠地と定め大規模開発に着手。江戸、のちの東京の大発展の功労者。朝鮮出兵には参加せず、秀吉の臨終のとき秀頼の後見人となること&後事を託されるが、1598年9月18日(慶長3年8月18日)秀吉が61歳(数え62歳)で没すると、実権を握る。

1600年10月21日(慶長5年9月15日)関ヶ原の戦いで石田三成らを破る。1603年将軍宣下を受けて幕府を開く。1605年将軍職を秀忠に譲り徳川世襲の体制を示し、大御所として政治を見る。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし全国統一。同年、武家諸法度と禁中並公家諸法度を発布。1616年6月1日(元和2年4月17日)駿府で73歳(旧暦での数え75歳)で病没。

戦国の世を終わらせ、世界の歴史の中でも屈指の平和な世である江戸時代をもたらした立役者であり、神君として世界遺産・日光東照宮に祀られている。あらゆる日本の歴史上の人物の中でも高い評価を得ている名君。

ただ、秀吉が死んでからの「狸おやじ」と揶揄される狡猾な手段は印象が悪い。厳しい身分差別、男尊女卑のモラル強制、こうした「悪い意味での封建主義」の元凶の一人であること、この悪影響は現代でも残っていること、も否定できない。織田信長豊臣秀吉ほどの大衆人気はない。

(静岡県静岡市葵区の駿府城公園にある、徳川家康像)

 

江戸幕府第2代将軍 徳川秀忠(とくがわひでただ) 在任期間1605年~1623年

家康の3男。1579年生まれ。妻の江(ごう)は、浅井長政&お市の方(信長の同母妹)の3女、1626年数え54歳で没。長女・千姫は、初め豊臣秀頼の正室、秀頼没後に本多忠刻(ほんだただとき。本多忠勝の孫)の正室、1626年忠刻没後は江戸城竹橋御殿に居住し1666年68歳(数え70歳)で没。5女・和子(かずこ→まさこ)は後水尾天皇の中宮となり明正天皇を産む。

長兄・信康の自害(1579年、享年数え21歳)、次兄・秀康の秀吉養子入り(1607年数え34歳で病没)により家康の後継者となる。ちなみに、秀忠の弟たち、つまり家康の他の男子は、4男・松平忠吉は関ヶ原の戦いで銃弾を受け1607年数え28歳で病没。5男・武田信吉は1603年数え21歳で病没。6男・松平忠輝は家康に改易・配流されその後長命を保ち1683年数え92歳で没。7男・松平松千代と8男・松平仙千代はともに数え6歳で病没。9男・徳川義直は尾張藩(尾張徳川家)初代藩主、1650年数え51歳で病没。10男・徳川頼宜は紀州藩(紀州徳川家)初代藩主、1671年数え70歳で没。11男・徳川頼房は水戸藩(水戸徳川家)初代藩主、1661年数え59歳で病没。

関ヶ原の戦いでは真田氏の妨害で遅参し家康から叱責を受ける。しかし1605年将軍職を譲られる。家康存命中はその意向に従うが、その死後は精力的に政治を見て多くの大名を取り潰す(武断政治)。家光に将軍職を譲ったのちも大御所として政治を見る。1632年52歳(数え54歳)で病没。

 

 

(国宝、世界遺産、日光東照宮の陽明門。1636年、家光の時代に造替)

(日光東照宮の神厩舎にある、三猿[さんざるorさんえん]。「見ざる、言わざる、聞かざる」とは、他人の悪口や嘘や下ネタを戒める趣旨。中国の論語のほか世界各地に類似の説話がある)

 

江戸幕府第3代将軍 徳川家光(とくがわいえみつ) 在任期間1623年~1651年

秀忠の次男(長男・長丸[ちょうまる。庶子]は10か月で夭折)。1604年生まれ。祖父家康の意向で後継者となる。父から将軍職を譲られ、二元政治体制となる。1631年同母弟の3男・忠長に甲府蟄居を命令。1632年父の死後、権力を一元化。同年肥後熊本藩主・加藤忠広を改易。1635年武家諸法度を改定し参勤交代を義務付ける。キリスト教徒をおそれ、島原の乱(1637年~1638年)のあと、外国貿易を統制するなど弾圧する。さらに、身分制度を徹底する。こうして幕藩体制を完成させる。在任のまま46歳(数え48歳)で病没。

(皇居の本丸天守台)

 

江戸幕府第4代将軍 徳川家綱(とくがわいえつな) 在任期間1651年~1680年

家光の長男。1641年生まれ。10歳(数え11歳)で将軍となる。補佐役の保科正之老中・松平伊豆守信綱(まつだいら いずのかみ のぶつな)や大老・酒井雅楽頭忠清(さかい うたのかみ ただきよ)など、幕閣が人材豊富な時代で、彼らが政治を見る。在任のまま38歳(数え40歳)で病没。

※保科正之 ほしなまさゆき。秀忠が乳母の侍女・静(しず)に産ませた4男(庶子)。1611年生まれ。幼名は幸松(ゆきまつ)。秀忠は正妻の江に配慮して幸松の存在を秘し、初め武田信玄の次女に、のちに保科家に養育させる。長じたのち、異母兄の3代将軍家光、甥の4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなす。1643年会津藩初代藩主となり強力な藩に育てる。1651年家光没直後に由井正雪の乱があり、末期養子の禁を解くなど浪人対策に努め、武断政治から文治政治へ転換する。1657年明暦の大火で江戸城天守閣が焼失するが、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりで、城の守りには必要ない」「江戸の都市整備が優先」として再建しなかった。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」とある『会津家訓十五箇条』(1668年)も有名。1673年2月(旧暦12月)61歳(旧暦での数え62歳)で没。

優れた幕閣であり優れた藩主。ただ、「幕末の会津の悲劇」に深く結びついている人物なだけに、「幕末の会津が好きか、そうでないか」が人物評に影響することは否定できず、そのため評価が難しい。

(福島県会津若松市にある若松城。別名:鶴ヶ城、会津若松城。戊辰戦争のあと解体されたが、1965年[昭和40年]鉄筋コンクリート造りで復元された)

 

江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし) 在任期間1680年~1709年

家光の4男。1646年生まれ。館林城主だったが将軍家綱に子がなく後継者となる。幕閣が人材不足の時代となり、1684年大老・堀田正俊(ほったまさとし)が暗殺されると側用人・柳沢吉保が台頭。従来からあった生類憐れみの考え方を極端化して法令を施行し、貨幣改鋳によって経済は混乱、庶民にとっては悪政になる。1701年4月21日(元禄14年3月14日)松之大廊下の刃傷事件、1703年1月30日(元禄15年12月14日)赤穂浪士の吉良邸討ち入り、この赤穂事件への対応に対する評価も厳しい。在任のまま62歳(数え64歳)で病没。在任中の1688年から1704年までの元号が元禄。上方を中心に文化が発達、元禄文化と呼ばれる。

(尾形光琳の代表作、国宝『紅白梅図屏風』。MOA美術館公式動画)

 

江戸幕府第6代将軍 徳川家宣(とくがわいえのぶ) 在任期間1709年~1712年

家光の3男で甲府藩主だった徳川綱重(とくがわつなしげ)の子。1662年生まれ。将軍後継になる前の名は徳川綱豊(とくがわつなとよ)。学者の新井白石を登用し、前政権の政策を刷新、貨幣を改良する。治世期間は3年と短いが前政権との比較もあって良い評価を得ている。在任のまま50歳(数え51歳)で病没。

(皇居の大手門)

 

江戸幕府第7代将軍 徳川家継(とくがわいえつぐ) 在任期間1713年~1716年

家宣の4男。1709年生まれ。わずか3歳(数え5歳)で就任。引き続き新井白石と側用人・間部詮房(まなべあきふさ)が政治を見る。在任のまま6歳(数え8歳)で病没。

 

(『暴れん坊将軍』第1話 東映時代劇YouTube公式動画)

江戸幕府第8代将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね) 在任期間1716年~1745年

第2代紀州藩主徳川光貞(とくがわみつさだ)の4男。

徳川家康

10男・徳川頼宜(とくがわよりのぶ) 初代紀州藩主

長男・徳川光貞 第2代紀州藩主

4男・徳川吉宗 第5代紀州藩主→第8代将軍

 

1684年生まれ。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。1697年将軍綱吉から越前3万石を与えられる。1705年紀州藩を継いだ兄2人が相次いで没したため紀州藩主となり藩政改革を行う。将軍家継が没すると老中に推されて将軍職を継ぎ、享保の改革と呼ばれる幕政改革を行う。人事を一新(新井白石や間部詮房を罷免、足高制で大岡忠相を登用)、「米将軍」と呼ばれるほどの米政策(上米[あげまい]の制、定免法、新田開発)、貨幣改良(元文の改鋳)、司法制度整備(公事方御定書)、御庭番制度、目安箱(小石川養生所を設置)、防火対策(町火消し)、1732年の享保の大飢饉の反省から青木昆陽に命じて甘藷(かんしょ。サツマイモ)を普及させる、など。天文学などに興味を持ちキリスト教と関係のない書物に限り洋書輸入を解禁、長崎で蘭学ブームが起きる。江戸城にあったオランダの動物図鑑を読んでベトナムからインドゾウを輸入しゾウブームが起きる。馬やクジャクやダチョウも輸入、このように好奇心が強かった。長男・家重に将軍職を譲り、大御所として政治を見る。1751年66歳(数え68歳)で病没。

大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせた上米の制が効果大で、幕府財政は持ち直し、中興の祖と言われる。1978年(昭和53年)から2002年(平成14年)までレギュラー放映されスペシャルを合わせて832回も放映された痛快娯楽時代劇『暴れん坊将軍』の主人公であり、知名度も人気も高い。しかし、農民には実質大幅増税となり農民一揆が頻発。享保の改革は成功とまでは言えないという評価が一般的。

(皇居の富士見櫓)

 

江戸幕府第9代将軍 徳川家重(とくがわいえしげ) 在任期間1745年~1760年

吉宗の長男。1712年生まれ。生来病弱で言語も不明瞭だった。ただ一人家重の言語を聞き分けることができた大岡忠光(おおおかただみつ。明治維新まで続いた武蔵国岩槻藩[大岡家]の初代藩主)が没すると家治に将軍職を譲り、翌年49歳(数え51歳)で没。吉宗の次男・徳川宗武(とくがわむねたけ)は田安家、4男・徳川宗尹(とくがわむねただ)は一橋家、家重の次男・徳川重好(とくがわしげよし)は清水家の初代当主となった(御三卿)。

(皇居の清水門。清水邸は、清水門内で田安邸の東、現在の日本武道館付近にあった)

 

江戸幕府第10代将軍 徳川家治(とくがわいえはる) 在任期間1760年~1786年

家重の長男。1737年生まれ。学芸、特に将棋、特に詰将棋が得意。「吉宗がハンディキャップを負っていた家重を9代将軍としたのは、家治が利発な子だったので安心して10代将軍を任せられると考えたことが理由の一つ」と言われている。自ら政治を見る道は選ばず、田沼意次(1719年生まれ。側用人から老中になった初めての人物。1788年68歳[数え70歳]で没)に政治を任せる道を選ぶ。意次は重商主義政策を採用。株仲間を結成、銅座などの専売制を実施、鉱山開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国貿易拡大、下総国印旛沼の干拓に着手。貿易を黒字化させ国内の金保有量を高め、幕府財政は改善に向かい景気も良くなる。ロシアとの貿易も計画、平賀源内と親交を持ち、蘭学を保護し、実力主義の人材登用も試みる。

しかし身分制度や朱子学を重視する保守的幕閣が反発。1784年意次の息子の若年寄・田沼意知が江戸城内で暗殺され、1786年印旛沼干拓工事も失敗。同年、家治は在任のまま49歳(数え50歳)で病没。直後に意次も老中を辞任させられた。社会の初期資本主義化により贈収賄が横行、1782年~1788年天明の飢饉、1783年浅間山の大噴火も発生。諸藩は米価値上がりを借金返済のチャンスと年貢を厳しく取り立て、一揆&打ちこわしが頻発するようになる。

(皇居の田安門と、日本武道館。田安邸は清水邸の西、現在の日本武道館付近にあった。かつてここに田安明神があったことが名前の由来)

 

江戸幕府第11代将軍 徳川家斉(とくがわいえなり) 在任期間1787年~1837年

一橋家第2代当主・一橋治済(ひとつばしはるさだorひとつばしはるなり)の子。

徳川吉宗

4男・宗尹 一橋家初代当主

4男・一橋治済 一橋家第2代当主

長男・徳川家斉

 

1773年生まれ。将軍に就任すると、田安家出身の白河藩主・松平定信を老中首座に登用し幕政改革に当たらせる(寛政の改革)。「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」。

徳川吉宗

次男・宗武 田安家初代当主

7男・松平定信 田安家から白河松平家へ養子入りし白河藩主

 

しかし厳格過ぎたため1788年尊号一件をきっかけに1793年定信を罷免。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」。その後は親政を行うが腐敗が進行。内憂外患(1792年ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民と根室に来航、1804年レザノフが長崎に来航、1806年1807年フヴォストフ事件、1825年異国船打払令、1829年シーボルト事件、1837年大塩平八郎の乱、同年モリソン号事件)の中で貨幣経済と庶民文化は発達する(化政文化)。正妻の他に多くの側室を持ち50人以上の子供が生まれる。次男・家慶に将軍職を譲った後も大御所として政治を見る(大御所政治)。1841年67歳(数え69歳)で病没。在任期間50年は歴代の征夷大将軍の中で最長記録。

(2016年[平成28年]にフランスのオークションで約8800万円で落札されたニュースが話題になった、喜多川歌麿の1793年ころの浮世絵『歌撰恋之部 深く忍恋[かせんこいのぶ ふかくしのぶこい]』。これは同作のイラスト。美人画の大首絵[おおくびえ]を考案したのは歌麿)

 

(東洲斎写楽の1794年の浮世絵『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのやっこえどべえ)』[重要文化財、東京国立博物館所蔵]。これは同作のイラスト。写楽は1794年から翌年にかけて10か月間だけ活動した謎の人物。江戸八丁堀に住んでいた阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛[さいとうじゅうろべえ]という説が有力)

 

(葛飾北斎の『冨嶽三十六景』。1823年ころから作成が始まり1831年ころ~1835年ころに刊行された。上は『凱風快晴[がいふうかいせい]』、通称「赤富士」。下は『神奈川沖浪裏[かながわおきなみうら]』、2024年[令和6年]発行予定の新千円札の裏の絵柄に使用される)

 

(山形県米沢市の上杉神社にある、上杉鷹山公之像)

1822年4月2日(文政5年3月11日)第9代出羽国米沢藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん)が70歳(数え72歳)で没。1751年9月9日(寛延[かんえん]4年7月20日)生まれ。倹約と殖産興業に努め、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、史上屈指の名君と言われている。鷹山は隠居後の号で、それまでは上杉治憲(うえすぎはるのり)。為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という名言が有名。

元ネタがあり「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなき」という武田信玄の名言。信玄の名言は「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」も有名。

山本五十六(1884年[明治17年]4月4日生~1943年[昭和18年]4月18日戦死。享年59歳)の名言「やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ」の元ネタは鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」。山本五十六は「苦しいこともあるだろう 云い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじつとこらえてゆくのが男の修業である」という名言『男の修業』も有名

 

 

(『遠山の金さん[1975]』第1話 東映時代劇YouTube公式動画)

江戸幕府第12代将軍 徳川家慶(とくがわいえよし) 在任期間1837年~1853年7月27日(嘉永6年6月22日)

家斉の次男。1793年生まれ。治世のはじめは大御所政治の下にあった。

1841年家斉没後は水野忠邦を登用し改革を行わせる(天保の改革)。蘭学者を弾圧した目付&南町奉行・鳥居耀蔵、庶民に優しい『遠山の金さん』で有名な北町奉行・遠山左衛門尉影元(とおやま さえもんのじょう かげもと。通称が金四郎。1855年[安政2年]61歳[数え63歳]で没)が有名。1839年蛮社の獄、しかし1840年アヘン戦争&1842年南京条約に驚いた幕府は態度を変えて1842年薪水給与令を出す。天保の改革は失敗し、1843年水野忠邦は失脚、一度復帰するも1845年完全に失脚。代わって阿部正弘(1819年生~1857年37歳[数え39歳]で没)を老中首座に登用。阿部正弘の改革は「安政の改革」と呼ばれ、その評価は時代を経るごとに上がっている感がある。ペリー艦隊が浦賀沖に現れた19日後に在任のまま60歳(数え61歳)で病没。

(皇居の伏見櫓)

 

江戸幕府第13代将軍 徳川家定(とくがわいえさだ) 在任期間1853年(嘉永6年)~1858年(安政5年)

家慶の子。1824年生まれ。3人目の正室が天璋院篤姫。黒船来航で外交&政治の決断が迫られていたが、病弱で自らは政務を行わなかった。子がなく将軍後継問題が起こる。1854年(嘉永7年)日米和親条約締結。1858年(安政5年)日米修好通商条約締結。在任のまま34歳(数え35歳)で病没。

(鹿児島県鹿児島市の照国神社にある、島津斉彬像。照国神社の祭神[さいじん]は島津斉彬)

(2018年[平成30年]の大河ドラマ『西郷どん』NHKエンタープライズ公式動画。渡辺謙が演じる島津斉彬は1分40秒ころから出てくる)

 

1858年8月24日(安政5年7月16日)、第11代薩摩藩主で第28代島津氏当主の島津斉彬(しまづなりあきら)が49歳(数え50歳)で没。1809年4月28日(文化6年3月14日)生まれ。驚異的な先見の明があり、史上屈指の名君と言われている。西洋列強に開国を迫られる時代を予見し、薩摩藩の富国強兵に着手し、成功。西郷隆盛をはじめとする優秀な人材を育てた功績が高く評価されている。1851年に秘かに帰国したジョン万次郎を厚遇してアメリカの最新事情&技術を吸収したエピソードや、1856年に大奥に輿入れさせた天璋院篤姫が2008年(平成20年)の大河ドラマ『篤姫』で人気になるなど、名君としてのエピソードを幾つも持つ。死因はコレラとされるが、毒殺説もある。

初代島津氏当主は島津忠久(しまづただひさ。生年不詳~1227年没)。1185年源頼朝から薩摩&大隅&日向(=近衛家の荘園である島津荘)の地頭に、のちに同地の守護にも任命される。自身は鎌倉に居住。島津氏のルーツは武士化した近衛家家臣だが、忠久は源頼朝が側室・丹後局に産ませたご落胤という伝承もある。

初代薩摩藩主は島津家久(しまづいえひさ。1576年生~1638年61歳[数え63歳]で没)。関ヶ原の戦いで西軍に参加し敵中突破退却した島津義弘の3男。1602年父に代わり江戸に赴き家康に謝罪、本領を安堵される。1606年に家康から偏諱を受け「家久」と名乗る。それまでの名は忠恒(ただつね)。1609年3千の兵で琉球を占領し付庸国(ふようこく)とする。明と密貿易も行う。1613年琉球から奄美群島を割譲させ代官や奉行所を置き薩摩藩の直轄地とする。

(皇居の桜田門。1860年3月24日[安政7年3月3日]、水戸浪士17名&薩摩浪士1名が大老井伊直弼を襲撃し暗殺した事件、桜田門外の変が起きた場所)

 

江戸幕府第14代将軍 徳川家茂(とくがわいえもち) 在任期間1858年(安政5年)~1866年8月29日(慶応2年7月20日)

紀州藩主・徳川斉順(とくがわなりゆき)の子。1846年生まれ。将軍となる前の名前は徳川慶福(とくがわよしとみ)。斉順の父は第11代将軍家斉、斉順の兄は第12代将軍家慶であり、家茂と第13代将軍家定は従兄弟同士。将軍後継問題で井伊直弼ら南紀派に擁立される。はじめ田安慶頼(たやすよしより)が、次に一橋慶喜が将軍後見職に就く。1862年(文久2年)公武合体として孝明天皇の異母妹・和宮(かずのみや)と結婚、夫婦仲はとても良かった。攘夷決行問題で上京したのをはじめ、3度京に赴く。政務に関心を示したが病弱で、第2次長州征伐の最中、大坂城で在任のまま20歳(数え21歳)で病没。

(皇居の坂下門。1862年2月13日[文久2年1月15日]、和宮降嫁に憤慨した尊王攘夷派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件、坂下門外の変が起きた場所)

 

江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜(とくがわよしのぶ) 在任期間1867年1月10日(慶応2年12月5日)~1868年1月3日(慶応3年12月9日)

史上最後の征夷大将軍。水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の子。1837年生まれ。一橋家に養子入りする。将軍後継問題で島津斉彬&松平春嶽&山内容堂&伊達宗城(だてむねなり)(四賢候)らから推されるが大老井伊直弼の決定に敗れる。安政の大獄では隠居謹慎となるが、1860年(安政7年)桜田門外の変で直弼が暗殺され、半年後に謹慎解除。1862年(文久2年)文久の改革で将軍後見職に就任、1864年(元治元年)禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任。1864年7月8日(元治元年6月5日)池田屋事件、同年8月20日(元治元年7月19日)禁門の変、このあと長州藩に対する融和的態度を放棄し第1次長州征伐、会津藩&桑名藩との連携が強くなる(一会桑体制)。これに反発した勢力が1866年3月7日(慶応2年1月21日)薩長同盟を結んだため、同年8月(慶応2年7月)第2次長州征伐は失敗に終わる。

同年同月の家茂急死を受け将軍に就任。フランスから援助を受け幕府の近代化を進める。勢いを増す倒幕勢力&内乱発生懸念への対策として1867年11月9日(慶応3年10月14日)大政奉還を実行に移し、政治体制の再編を図る。一般に、この大政奉還の日が、約700年続いた日本の武家政権の終わりの日とされる。1868年1月3日(慶応3年12月9日)王政復古の大号令(倒幕勢力のクーデター)で京の政界から退く。鳥羽・伏見の戦いでは中途放棄して江戸に戻る。同年5月(慶応4年4月)江戸城を明け渡した後、駿府から改名した静岡で謹慎。

明治30年という節目の年(1897年)に朝廷&明治政府と和解し東京に移り住む。洋式の文物に興味を示し、洋装を好んだほか、維新後隠棲していた頃は写真家として活動。1913年(大正2年)76歳(数え77歳)で没。歴代の征夷大将軍の中で最も長寿だった。

(京都府京都市中京区にある、国宝、世界遺産、二条城の二の丸御殿。徳川慶喜はここで上洛中の40諸藩重臣に大政奉還を諮問した)

(世界遺産、二条城の二の丸御殿唐門。重要文化財)

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(雑感)

 

日本史メモ全62回、書き終わりました。江戸時代で特に学んでご利益がありそうなのは「名君」。中でも史上屈指の名君と言われている上杉鷹山島津斉彬、この御二方からは深く学びたいものです。今後はしばらくゆっくりしてから東京オリンピック&パラリンピックに関連させながら9か国語くらい外国語を勉強するシリーズを書く予定です。

(夕陽を浴びて光り輝く、世界遺産、金閣寺)

 

(創建当時の建物が残っている、国宝、世界遺産、銀閣寺)

 

(世界遺産、龍安寺[りょうあんじ]の石庭。龍安寺の創立者は細川勝元)

 

(世界遺産、天龍寺の庭園)

 

室町幕府初代将軍 足利尊氏(あしかがたかうじ) 在任期間1338年~1358年 ※なお、在任期間の年が資料によって「実質的に将軍職を譲られた年・失った年」「正式な将軍宣下・解任の手続きがあった年」などまちまちのケースは併記してます。

 

源義家(みなもとのよしいえ) 別名・八幡太郎。源頼義の長男。第56代天皇・清和天皇の6代孫。後三年の役を平定。昇殿を許される。

4男・源義国(みなもとのよしくに) 長男・義重(よししげ)は新田氏と称し、第8代当主が新田義貞。山名宗全など室町時代に勢力があった山名氏は新田氏の分家。徳川氏は新田氏の傍流とされるが信憑性は微妙。

次男・源義康(みなもとのよしやす) 足利氏と称し、足利義康(あしかがよしやす) 足利氏初代当主。保元の乱で源義朝&平清盛と共に戦い、義朝の正妻の姪or妹を正妻にする。長男(庶子)・義清(よしきよ)の子孫が三管領家の細川氏。傍流の肥後細川家となる家系も有名。細川藤孝(ほそかわふじたか。幽才[ゆうさい])、細川忠興(ほそかわただおき。藤孝の長男。ガラシャの夫。肥前小倉藩初代藩主&肥後細川家初代)、細川忠利(ほそかわただとし。忠興&ガラシャの3男。肥前小倉藩第2代藩主&肥後熊本藩初代藩主。晩年の宮本武蔵を客分として招いた)、細川光尚(ほそかわみつなお。忠利の長男。肥後熊本藩第2代藩主。父病没→家督相続の際に起きた騒動を題材にした小説が、1913年[大正2年]森鴎外が発表した『阿部一族』)、細川護熙(ほそかわもりひろ。第79代内閣総理大臣)など。

3男・足利義兼(あしかがよしかね) 足利氏第2代当主。母が源頼朝の母の姪or妹で、頼朝と共に挙兵。北条時政の娘を正妻にする。鎌倉五山第五位・浄妙寺の創立者。長男(庶子)・義純(よしずみ)は畠山重忠が討たれたあと重忠の未亡人(北条時政の娘)と結婚し畠山の名跡を継ぐ(三管領家の畠山氏)。

3男・足利義氏(あしかがよしうじ) 足利氏第3代当主。承久の乱で北条泰時と共に戦い、泰時の娘を正妻にする。長男(庶子)・長氏(おさうじ)は吉良氏と称し、子孫が忠臣蔵で有名な吉良義央(きらよしなか)。吉良長氏の次男・国氏(くにうじ)は今川氏と称し、第11代当主が今川義元。

嫡子・足利泰氏(あしかがやすうじ) 足利氏第4代当主。正妻が宮騒動を起こした名越光時(なごえみつとき)の妹だったため、長男・家氏(いえうじ)が嫡子から庶子に格下げとなる。2001年(平成13年)の大河ドラマ『北条時宗』では強制離婚させられた元正妻・桔梗と共に北条氏に対抗心を燃やす人物として描かれた。家氏の子孫はのちに斯波氏と呼ばれる(三管領家の斯波氏)。伊達政宗の母・義姫(よしひめ)やその兄・最上義光を輩出した最上氏は斯波氏の支流。斯波氏家臣(尾張守護代の、さらに傍流)から下剋上したのが織田氏。

3男・足利頼氏(あしかがよりうじ) 足利氏第5代当主。数え23歳(?)で早世。北条氏出身の正妻がいたが、まだ子がなかった。そのため上杉氏出身の側室の子=庶子である家時が家督を継いだ。上杉氏はもともと藤原北家一族で、鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王と共に下向し武家化、上杉姓を賜る。のちに関東管領家となるが戦国時代に衰退し、家督が長尾景虎に譲られ(のちの上杉謙信)、謙信の甥で養子の上杉景勝が出羽国米沢藩初代藩主となる。上杉鷹山は第9代藩主。

庶子・足利家時(あしかがいえとき) 足利氏第6代当主。足利氏には源義家が書き残した「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文が存在し、義家の七代の子孫にあたる家時は、自分の代では達成できないため八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害し、孫にあたる足利尊氏&直義兄弟はこれを見た、今川貞世(いまがわさだよ)もこれを見たと、貞世の著作である『難太平記(なんたいへいき)』には記されている。

長男・足利貞氏(あしかがさだうじ) 足利氏第7代当主。

次男・足利尊氏(あしかがたかうじ) 足利氏第8代当主。

 

父は足利貞氏、母は側室の上杉清子(うえすぎきよこ)。1305年生まれ。幼名:又太郎。北条高時から偏諱(へんきorかたいみな)を受け高氏と名乗り、1333年後醍醐天皇(諱が尊治)から偏諱を受け尊氏と名乗る。

次男だが父が没したときすでに長男(嫡男)が早世していたため当主となる。1333年幕府から後醍醐天皇討伐を命ぜられるが、丹波の篠村八幡宮(現、京都府亀岡市)で幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻め落とす。建武の新政では倒幕の勲功第一と称され偏諱を受けたものの政権に参画できず、1歳下の同母弟・直義(ただよし)を鎌倉に置き東国の支配権確保に努める。

1335年中先代の乱が起こると鎌倉の直義を救援するため後醍醐天皇の許しなく鎌倉へ下向、北条時行の軍を破る。鎌倉で幽閉中の大塔宮(だいとうのみやorおおとうのみや)護良(もりよしorもりなが)親王が直義に殺害され、尊氏が勝手に恩賞を与えたり新田義貞の関東の領地を奪ったりしたため、天皇は義貞に足利討伐を命ずる。すると尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺に引きこもって断髪してしまう。しかし足利勢が窮地に陥ると天皇に反旗を翻すことを決意、新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り進軍して京都を占領。

1336年いったん北畠顕家らの軍勢に敗れ九州へ落ち延びたが光厳上皇の院宣を奉じて逆襲、楠木正成を湊川の戦いで敗死させ、京に入って光明天皇を擁立。同年建武式目を制定し、室町幕府が成立。1338年北畠顕家と新田義貞を討ち、征夷大将軍に就任。1339年後醍醐天皇が崩御したと聞くと天龍寺を創建して弔った。

しかし、弟・直義と足利家執事・高師直が対立、足利家の内部争いである観応の擾乱が起こる(1349年~1352年)。1352年直義を降した後毒殺したと言われているが、そう伝えているのは『太平記』のみ。「正平一統の翌年1352年の戦い。1353年佐々木道誉と対立し離反した山名時氏との戦い。1355年造反した庶子・直冬(ただふゆ)との戦い」と、京の都を奪われ奪回することが3回あった。1358年直冬との戦で受けた背中の矢傷が悪化し52歳(数え54歳)で没。

南北朝時代の軍記物語『梅松論』では、尊氏と親交のあった禅僧・夢窓疎石(むそうそせき)が、尊氏の人間的魅力として「1、死を全く恐れない、危険な戦場で余裕の笑みを浮かべる勇敢さ、2、かつては敵だったが味方になった者への寛容さ、3、部下への気前の良さ」を挙げている。

 

(世界遺産、天龍寺の庭園)

 

 

室町幕府第2代将軍 足利義詮(あしかがよしあきら) 在任期間1358年or1359年~1367年

尊氏の3男で正室・赤橋登子(あかはしとうこ)との間にもうけた嫡子。尊氏の長男(庶子)は鎌倉幕府滅亡時に鎌倉脱出に失敗し殺害され、次男(庶子)は反抗して長く戦った直冬。1330年生まれ。1333年父が後醍醐天皇討伐に向かった際、人質として鎌倉にとどまり、新田義貞が来襲すると鎌倉を脱出しこれに加わる。幕府滅亡後鎌倉にとどまるが、叔父・直義と足利家執事・高師直が対立すると、同母弟・基氏(もとうじ)を鎌倉公方として残し上京、直義に代わり政務に就く。父の死後将軍に就任。執事(管領)を置いて政治を行う(細川清氏→斯波義将→細川頼之)。在任のまま37歳(数え38歳)で病没。『太平記』での評価は非常に低い。

 

 

 

室町幕府第3代将軍 足利義満(あしかがよしみつ) 在任期間1368年or1369年~1394年or1395年

足利義詮&側室の子で3男だが兄2人は夭折(ようせつ)し嫡男として扱われる。1358年生まれ。1368年数え11歳で家督を継ぎ、翌年正式に征夷大将軍に就任。当初は管領細川頼之が政治を見た。1368年応安の半済令(おうあんのはんぜいれい)。守護に従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、守護が「守護大名」になるきっかけとなる。1378年室町に樹木で飾った御所(花の御所)を築く。1379年細川頼之が失脚し斯波義将が管領に復帰。1386年五山制度の改革を行い整備、禅宗を保護する。

★京都五山

 別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇(第90代天皇)

第一位 天龍寺(てんりゅうじ) 創立者:室町幕府初代将軍・足利尊氏

第二位 相国寺(しょうこくじ) 創立者:室町幕府第3代将軍・足利義満

第三位 建仁寺(けんにんじ) 創立者:鎌倉幕府第2代将軍・源頼家

第四位 東福寺(とうふくじ) 創立者:九条道家(関白。源頼朝の同母妹・坊門姫の孫。次男の家系が五摂家の二条家。3男は鎌倉幕府第4代将軍・九条頼経。4男の家系が五摂家の一条家。四条天皇の外祖父)

第五位 万寿寺(まんじゅじ) 創立者:白河上皇(第72代天皇㉞)

★鎌倉五山

 別格 南禅寺(なんぜんじ) 創立者:亀山法皇(第90代天皇)

第一位 建長寺(けんちょうじ) 創立者:鎌倉幕府第5代執権・北条時頼

第二位 円覚寺(えんがくじ) 創立者:鎌倉幕府第8代執権・北条時宗

第三位 寿福寺(じゅふくじ) 創立者:北条政子(源頼朝の妻)

第四位 浄智寺(じょうちじ) 創立者:鎌倉幕府第10代執権・北条師時

第五位 浄妙寺(じょうみょうじ) 創立者:足利義兼(源頼朝に仕えた足利氏第2代当主)

視察目的で諸国を旅行し、四国で隠居していた細川頼之と再会、1389年厳島神社参詣。義満は貴族から納税権を奪い、守護勢力を討伐して権力基盤を築く(1390年土岐康行討伐、1391年山名氏清討伐、1399年大内義弘討伐)。

1392年細川頼之が数え64歳で没、同年南朝に呼びかけて南北朝合一を果たす。1394年将軍職を子の義持に譲り、同年太政大臣に昇進、1395年出家。

1397年京都の北山に山荘の建設を開始(のちの鹿苑寺。いわゆる金閣寺)、1399年以降ここを活動拠点とする。猿楽の観阿弥・世阿弥父子を庇護し、北山文化が栄える。

1404年明と国交を結び貿易を行う。当時、日本と明との間には倭寇問題で対立があったが、義満は、靖難の変(1398年初代皇帝太祖洪武帝[朱元璋]が没し孫が2代皇帝建文帝として即位すると、翌年建文帝の叔父[朱元璋の4男]の燕王がクーデターを起こし1403年3代皇帝永楽帝[えいらくてい ヨン・ラェ・ディ]として即位した事件)直後に絶妙のタイミングで永楽帝即位祝賀使節を送ることに成功。永楽帝は喜び、倭寇の取り締まりを求めると同時に義満を「日本国王」に冊封(さくほうorさっぽう)して朝貢貿易も許す。義満は倭寇を厳しく取り締まり、対明貿易で巨額の利益を得る。日本側と明側で勘合と呼ばれる割符を使っていたため日本では勘合貿易と呼ぶ。室町幕府の最盛期を築いた義満は、さらに朝廷に接近したが、1408年急病のため49歳(数え51歳)で没。義満を高く評価していた永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」の諡号を贈った。日本人で外国から諡号を贈られたのは義満が最初で最後。

 

 

室町幕府第4代将軍 足利義持(あしかがよしもち) 在任期間1394年or1395年~1423年

足利義満&側室の子で、3男だったが嫡子。義教の同母兄。1386年生まれ。父は異母弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛するが管領斯波義将らの支援で将軍に就任。父の死後、父の政策を覆し、父が明と築いた関係も1411年明の使者を追い返して破綻、貿易も中止。父への太上法皇の尊号授与も辞退。上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)の乱が起こるとこれを利用して義嗣を殺害。嫡子・義量に将軍職を譲り出家するが、2年後義量は早世、引き続き義持が政務をみる。41歳(数え43歳)で病没。在任期間約28年間は室町幕府将軍の中では最も長い。

 

 

室町幕府第5代将軍 足利義量(あしかがよしかず) 在任期間1423年~1425年

義持の嫡子。1407年生まれ。義持の子で他に成人した男子はなく義持は義量を寵愛する。生来病弱で、さらに酒のため健康を害し、就任2年後に在任のまま17歳(数え19歳)で病没。

 

 

室町幕府第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり) 在任期間1428年or1429年~1441年

義満の子で、義持の同母弟。1394年生まれ。義持は1428年後継を定めずに没し、くじ引きで僧となっていた義教が選ばれる。同年夏、日本初の農民一揆である、代替わりの徳政令を求める正長の土一揆が起きる。翌年正式に征夷大将軍に就任。将軍親政を目指して次々に政策を実行。管領の権力を制限し、鎌倉公方・足利持氏を滅ぼし、守護大名を次々と討伐、朝廷人事に介入し、延暦寺を攻め、1432年財政再建のため勘合貿易を復活(~1549年、13代将軍義輝の時代まで続けられる)。

「なべかむり日親」「鍋かむり上人」(義教に説教しようとした日蓮宗の僧・日親[にっしん]は灼熱の鍋を頭からかぶせられ二度と喋れないよう舌を切られたという伝説)に象徴される恐怖政治を行う。1441年討伐の噂に追い詰められた赤松満祐(あかまつみつすけ)の策略にかかり、赤松邸で開かれた宴席に招かれ殺害される(嘉吉の乱[かきつのらん])。享年47歳(数え48歳)。

 

 

室町幕府第7代将軍 足利義勝(あしかがよしかつ) 在任期間1442年~1443年

義教の子で、義政の同母兄。1434年生まれ。義教殺害の翌日、管領が評定を開き7歳(数え8歳)の義勝が擁立され翌年8歳(数え9歳)で将軍となる。赤松満祐は義教殺害から2か月半後に播磨で幕府軍に包囲され自害。討伐した山名持豊(やまなもちとよ。のちの宗全)の勢力が増したこと、また、義教時代に失脚した人物が復権し守護大名家でお家騒動の原因となったことが、応仁の乱の遠因となる。守護大名の合議制で政治運営されることになるが翌年赤痢にかかり在任のまま9歳(数え10歳)で病没。

 

 

室町幕府第8代将軍 足利義政(あしかがよしまさ) 在任期間1449年~1473年or1474年

義教の5男で、義勝の同母弟。1436年生まれ。父義教・兄義勝が相次いで没したため7歳(数え8歳)で家督を継ぎ元服後13歳(数え14歳)で将軍となる。政所執事(まんどころしつじ)の伊勢貞親(いせさだちか)を頼みとして守護大名の勢力を抑えていたが、貞親が失脚。

1467年、下記3つの理由から応仁の乱が起こる(~1477年)。

1.守護大名家のお家騒動 東軍:畠山政長vs西軍:畠山義就(はたけやまよしなり) 斯波氏など他の守護大名家でもお家騒動あり

2.将軍後継問題 東軍:義政の異母弟・義視(よしみ)vs西軍:義政の子・義尚(よしひさ)&義政の妻・日野富子

3.幕府内の権力闘争 東軍:管領細川勝元vs西軍:山名宗全(持豊)

1473年西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで没し、それを契機に将軍職を子の義尚に譲る。その後は文芸の道に没頭。1482年東山山荘の造営を開始し翌年から居住(のちの慈照寺、いわゆる銀閣寺)。しかし1489年義尚が六角攻めの陣中で没したため政務に復帰。1490年54歳(数え55歳)で病没。

 

 

室町幕府第9代将軍 足利義尚(あしかがよしひさ) 在任期間1473年or1474年~1489年

義政日野富子の子。1465年生まれ。なかなか男子に恵まれなかった義政は出家していた異母弟・義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ義視と名乗らせ後継者とし細川勝元を後見としたが、その直後に義尚が誕生したため後継問題が起こり、応仁の乱の原因となる。将軍就任後は日野富子が後見となるが、のちに親政を目指す。しかし荒んだ生活を送り、六角高頼(ろっかくたかより)征伐のための鈎の陣(まがりのじん)で在任のまま23歳(数え25歳)で病没。

 

(世界遺産、龍安寺の石庭。龍安寺の創立者は細川勝元)

 

室町幕府第10代将軍 足利義稙(あしかがよしたね) 在任期間1490年~1493年or1495年、1508年~1522年

足利義視の子。母は日野富子の妹。1466年生まれ。当初は義材(よしき)、1498年に義尹(よしただ)、1513年に義稙と改名。義尚急死を受け擁立される。1490年叔父・義政が没し1491年父・義視も没すると実権を握り、六角征伐を再開して六角高頼を近江から追放、続いて畠山氏のお家騒動に介入。しかし管領細川政元と対立、1493年政元や日野富子が起こした明応の政変で将軍職を失う。

京都の龍安寺(りょうあんじ)に幽閉されるが脱出、各地を回ったあと周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼る。1508年大内軍の支援を受けて上洛、将軍職に復帰する。しかし大内軍が自領に戻ると今度は管領細川高国と対立。ついに政変が起こり将軍職を剥奪され淡路へと落ち延びる。阿波で56歳(数え58歳)で没。

 

(徳川光圀が寄進したという、龍安寺の蹲踞[つくばい]。吾唯知足 吾唯足るを知る。われただたるをしる。(意訳)満足することを知っている者は貧しくても幸せであり、満足することを知らない者は金持ちでも不幸である」という禅の格言の4文字が図案化されている。口を中心に、上→右→左→下)

 

室町幕府第11代将軍 足利義澄(あしかがよしずみ) 在任期間1495年~1508年

堀越公方足利政知(あしかがまさとも。義教の次男)の子。1481年1月(旧暦12月)生まれ。1493年明応の政変のあと将軍に擁立される。10代将軍義尹(義材、義稙)が大内義興と共に上洛してくると近江に落ち延びる。近江岡山城で籠城中に30歳(旧暦での数え32歳)で病没。

 

 

室町幕府第12代将軍 足利義晴(あしかがよしはる) 在任期間1521年or1522年~1546年or1547年

11代将軍義澄の子。1511年生まれ。10代将軍義稙が淡路に落ち延びた後、管領細川高国が擁立。実権はなく、細川家の内紛に巻き込まれ各地を転々。ようやく管領細川晴元(ほそかわはるもと)と和睦するが、京を支配することすらかなわず、1536年にやっと入京。しかし細川家の内紛は続き、たびたび京を出奔。細川家家臣から下剋上で成り上がった三好長慶(みよしながよし)によって京を追放される。近江を拠点に京を窺うが、39歳(数え40歳)で病没。

 

 

室町幕府第13代将軍 足利義輝(あしかがよしてる) 在任期間1546年or1547年~1565年

義晴の子で、義昭の同母兄。1536年生まれ。義晴失脚後六角氏の手で擁立され将軍に就任。しかし三好長慶とたびたび争う。長慶と和睦し京に戻り、各地の戦国大名間の和睦をあっせんするなど勢力巻き返しに努めるが、三好氏や三好氏家臣から下剋上で成り上がってきた松永久秀の反感を買い、襲撃され殺害される(永禄の変)。享年29歳(数え30歳)。

鹿島新当流(かしましんとうりゅう)の剣豪・塚原卜伝(つかはらぼくでん。1571年数え83歳で没)の門弟で、最後は自ら剣を取って戦ったという。頼山陽『日本外史』に「足利家家伝の名刀をぶすぶすと畳に突き刺し、1本刃こぼれすると次の刀を抜いて奮戦した」と書かれたり、近年『剣豪将軍義輝』という題名で小説化&漫画化&舞台化されたりしている。

 

(世界遺産、天龍寺の庭園)

 

室町幕府第14代将軍 足利義栄(あしかがよしひで) 在任期間1568年

11代将軍足利義澄の子・足利義維(あしかがよしつな。義晴の異母弟)の子。1538年or1540年生まれ。義輝を殺害した三好氏が擁立。しかし三好氏vs松永久秀の内紛で淡路に移り、ついで摂津高槻に入る。その後将軍に就任するが、ほぼ同時に織田信長が足利義昭を擁立。まもなく摂津富田で数え29歳or31歳で病没。在任期間わずか7か月。

 

(世界遺産、天龍寺の庭園)

 

室町幕府第15代将軍 足利義昭(あしかがよしあき) 在任期間1568年~1573年or1588年

義晴の子で、義輝の同母弟。1537年生まれ。仏門に入っていたが1565年永禄の変で幽閉される。細川藤孝(幽才)に助けられ脱出、朝倉義景などを頼って将軍の座を窺い、義栄と対立。織田信長に擁立されて入京し将軍に就任。このとき明智光秀が活躍したという。実権は信長にあり、反織田連合を呼び掛けて挙兵。しかし、頼みの武田信玄が1573年5月(元亀4年4月)51歳(数え53歳)で病没、槇島城(まきしまじょう。現、京都府宇治市槙島町)で籠城した義昭は7万の織田軍に包囲され元亀4年7月18日降伏し、この時点で室町幕府滅亡と評価されている。この10日後、信長は元亀から天正に改元させている。

それでも復活を志して毛利や本願寺と手を結ぶが失敗。信長の死後、秀吉に接近し、九州の大名の支援も求めるが失敗。結局秀吉政権下で京に戻り、1588年(天正16年1月13日)御所に参内して正式に征夷大将軍職を辞職し、出家する。秀吉から槇島に1万石の領地を認められ、1592年文禄の役・1597年慶長の役の際には由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人をつれ肥前名古屋に参陣。晩年は秀吉の良き話し相手であったという(生まれ年が秀吉と一緒。現代風に言うと秀吉は早生まれなので学年は秀吉が1年先輩になる)。1597年59歳(数え61歳)で病没。室町幕府将軍の中では最も長寿だった。

 

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(雑感)

 

足利尊氏、足利直義、足利義満、細川頼之、足利義持、足利義教、細川勝元、足利義政、日野富子、足利義輝、足利義昭。

室町幕府の人たち。一生懸命に生きた。上手くいったこともあった。天龍寺、金閣寺、龍安寺、銀閣寺。素晴らしい世界遺産を幾つも作った。でも、上手くいかないことが多かった。後世の評価も厳しい。頑張ったけれど、上手くいかなかった。周囲の評価も厳しい。そんな人生も、ありますよね。現実は厳しいのです。私の「嗅覚障害への取り組み」も、上手くいかないまま、人生終わってしまうかもしれません。周囲の評価も厳しいかもしれません。そうなって欲しくはないですが、あり得ること。心にとめておきます。

(神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮。源頼義が京都の石清水八幡宮で前九年の役[1051年~1062年]の戦勝祈願をし平定すると1063年に創建。1081年源義家が修復。1180年源頼朝が現在の地に移す。写真の本宮[上宮]は1828年に江戸幕府第11代将軍徳川家斉が造営させたもので、国の重要文化財。実朝暗殺のとき公暁が隠れていた伝承で有名な大銀杏は天然記念物だったが2010年[平成22年]に雪混じりの強風で倒れた。写真左下の幹は倒れた大銀杏の一部を移植したもの。写真中央下に元の根から成長した小さな銀杏の木が見える) 

 

 

鎌倉幕府初代将軍 源頼朝(みなもとのよりとも) 在任期間1192年8月21日(建久3年7月12日)~1199年2月9日(建久10年1月13日)

 

第56代天皇・清和(せいわ)天皇

第6皇子・貞純(さだずみ)親王

経基王(つねもとおう) 臣籍降下して、源経基(みなもとのつねもと)

平将門の乱で将門を誣告。

長男・源満仲(みなもとのみつなか)

『御伽草子』『酒呑童子(しゅてんどうじ)』で有名な源頼光(みなもとのらいこう)は長男。金太郎こと坂田金時(さかたのきんとき)は頼光の家臣。

明智光秀を輩出した明智氏は頼光の子孫。

3男・源頼信(みなもとのよりのぶ)

頼光の異母弟。藤原道長に仕えて勢力を拡大。平忠常の乱を平定。

長男・源頼義(みなもとのよりよし)

前九年の役を平定。三男・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の子孫が甲斐源氏宗家の武田氏で、第19代当主が武田信玄。

長男・源義家(みなもとのよしいえ)

別名・八幡太郎。後三年の役を平定。昇殿を許される。

足利氏・新田氏(→徳川氏)の先祖。

次男・源義親(みなもとのよしちか)

乱行が多く平正盛に討伐される。

4男・源為義(みなもとのためよし)

保元の乱で敗死。

長男・源義朝(みなもとのよしとも)

保元の乱で勝利するも平治の乱で敗死。

3男(嫡子)・源頼朝

 

父は源義朝(1123年生~1160年数え38歳で没)。母は正妻の由良御前(ゆらごぜん。熱田神宮の大宮司・藤原季範[ふじわらのすえのり]の娘。生年不詳~1159年没)。1147年5月9日(久安3年4月8日)生まれ。3男だが、長男の悪源太義平(あくげんた よしひら)・次男の朝長(ともなが)が庶子のため嫡子。幼名は鬼武者or鬼武丸。

1160年13歳(数え14歳)のとき平治の乱に敗北し伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま。現、静岡県伊豆の国市)に配流となる。20年にも及んだ配流生活中、貴族化した平家に失望した坂東武者や源氏の縁者と連絡を取る。また、この期間に北条政子と結婚。

1180年以仁王の令旨を受け挙兵。石橋山の戦いに敗れるが安房へ逃れ再起に成功。後白河法皇に接近し、東国経営に力を注ぎつつ、弟の範頼&義経を派遣して上方の権力闘争にも抜かりなく介入、1184年木曽義仲を、1185年(文治元年)平家一門を滅ぼす。同年義経が謀反に及ぶとそれを理由に後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせ、近年はこれをもって鎌倉幕府成立とする説が有力。1189年義経自害(享年数え31歳)、奥州藤原氏を滅ぼす。1190年上洛し、以後約30年間続く朝廷との安定した関係を築く。1192年後白河法皇が崩御すると後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられる。相模川橋供養の帰途に落馬し、回復せず1199年2月9日(建久10年1月13日)在任のまま51歳(数え53歳)で没した(死因には異説もある)。

日本史を古代から中世へと塗り替えた立役者であり、天才的な戦略家、天才的な政治家だった。しかし、義経を死に追いやったことは人気面で決定的なマイナスであり、人気がない人物。

 

鎌倉幕府第2代将軍 源頼家(みなもとのよりいえ) 在任期間1202年~1203年

頼朝北条政子の嫡子(2人の子としては長男)。1182年生まれ。父の急死を受け将軍に就任するが13人合議制により権力を手にできなかった。1203年、自身が急病で危篤状態の間に頼みとした妻の実家の比企氏は北条氏に滅ぼされ、和田義盛を頼みとして北条討伐を企図するがうまくいかず、将軍職を剥奪され修善寺に幽閉される。翌1204年修善寺にて暗殺される。享年21歳(数え23歳)。

 

鎌倉幕府第3代将軍 源実朝(みなもとのさねとも) 在任期間1203年~1219年

頼朝北条政子の(2人の子としては)次男。頼家の同母弟。1192年生まれ。兄に代わり将軍に就任。実朝は朝廷との関係を重視し、後鳥羽上皇もこの政策に期待したため、朝廷との関係は良好だった。しかし幕府対朝廷の構図が明確になり孤立、渡宋を希望するようになる。右大臣就任祝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、頼家の子・公暁に襲撃され在任のまま殺害される。享年26歳(数え28歳)。藤原定家の弟子で、その万葉調の歌は高い評価を得ている。

源実朝『金槐和歌集』にある代表的な歌

大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

おおうみのいそもとどろによするなみ、われてくだけてさけてちるかも

(口語訳)大海の磯を轟かすように寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて、散るものよ。


鎌倉幕府第4代将軍 九条頼経(くじょうよりつね) 在任期間1226年~1244年

摂家将軍、藤原将軍。源頼朝の同母妹・坊門姫(ぼうもんひめ)の3代孫。九条道家の3男。ちなみに道家の長女は後堀河天皇の中宮&四条天皇の母、長男は九条家を継ぎ、次男は二条家の祖、4男は一条家の祖であり、みな母が同じ。1218年生まれ。鎌倉に迎えられたのは1219年、幼名は三寅(みとら)。源家将軍断絶後、幕府は皇族将軍を求めるが、後鳥羽上皇に拒否されたため姻戚関係にあった1歳半(数え2歳)の三寅を迎える。実権はなく1221年の承久の乱も無関係。成長するにつれ反北条勢力が頼経の周囲に集まったため、1242年に第4代執権に就任した北条経時によって1244年将軍職を解任される。しかしその後も鎌倉に居続け反北条勢力が周囲に集まったため、1246年第5代執権に就任した北条時頼によって京都に追放される(宮騒動[みやそうどう])。赤痢のため38歳(数え39歳)で病没。

 

鎌倉幕府第5代将軍 九条頼嗣(くじょうよりつぐ) 在任期間1244年~1252年

摂家将軍、藤原将軍。頼経の子。1239年生まれ。第4代執権北条経時の意向で父に代わり将軍に就任。実権はなかった。九条家による幕府転覆の陰謀が取り沙汰されたため将軍職を剥奪され京に追放される。父が没した1か月後に、同じく赤痢のため16歳(数え18歳)で病没。

 

鎌倉幕府第6代将軍 宗尊(むねたか)親王 在任期間1252年~1266年

皇族将軍。後嵯峨天皇の第1皇子。後深草天皇&亀山天皇は異母弟で、将軍宣下したのは後深草天皇。1242年生まれ。正室は源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。謀反の疑いで将軍を解任され帰京する。31歳(数え33歳)で没。

 

鎌倉幕府第7代将軍 維康(これやす)親王 在任期間1266年~1289年

皇族将軍。宗尊親王の子。1264年生まれ。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。はじめ維康王、1270年に臣籍降下して源維康と名乗る。第8代執権北条時宗が「蒙古との闘いに備え源家将軍を擁立することが士気高揚につながる」と考えたためと言われている。1268年1月フビライの使者が来日。1274年文永の役。1281年弘安の役。1287年親王に復帰。第9代執権北条貞時によって辞職に追い込まれ京に移り住む。62歳(数え63歳)で没。鎌倉幕府将軍の中では最も長寿だった。

 

鎌倉幕府第8代将軍 久明(ひさあき)親王 在任期間1289年~1308年

皇族将軍。後深草天皇の第6皇子。将軍宣下したのは異母兄の伏見天皇。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。1276年生まれ。政治と無縁の歌人で北条家との関係は悪くなかったが19年目に解任され京に戻る。52歳(数え53歳)で没。

 

鎌倉幕府第9代将軍 守邦(もりくに)親王 在任期間1308年~1333年

皇族将軍。久明親王の子。1301年生まれ。7歳(数え8歳)で就任。幕府滅亡後出家するが、幕府滅亡から3か月後に32歳(数え33歳)で没。混乱期のため詳細不明。在任期間約25年は鎌倉幕府将軍として最も長い。

 

 

(神奈川県鎌倉市にある、鎌倉の大仏こと、高徳院の本尊・阿弥陀如来像。像高11.39メートル、台座を含めた高さ13.35メートル、重量約121トン。青銅製。鎌倉時代に流行した「宋風」の特色を持つ鎌倉時代を代表する仏教彫刻で、国宝。大仏建立年や高徳院創建年や大仏殿喪失年などは不明だが、現存する大仏は1252年から造られたと言われている。室町時代の明応期に大津波がここまで来て大仏殿が流されたこともある)

 

 

鎌倉幕府初代執権 北条時政(ほうじょうときまさ) 在職期間1203年~1205年

北条政子義時&時房の父。1138年生まれ。桓武平氏の子孫とされるが、伊豆国田方郡(たがぐん)北条(現、静岡県伊豆の国市)の在地豪族という説が有力。時政の前半生や親族はほとんど不明。

1160年数え23歳のとき源頼朝が配流されてきて、その監視役となる。娘の政子が頼朝と結婚、舅として頼朝を流人時代から後援し続ける。

1185年(文治元年)数え48歳のとき、上洛して義経追討のため「守護・地頭の設置」を朝廷に認めさせることに成功。1203年数え66歳のとき、源頼家幽閉→源実朝将軍就任に伴い執権に就任。しかし後妻の牧の方と共に権力独占を策謀、1205年畠山重忠を滅ぼした事件や将軍実朝暗殺未遂事件に至り、政子&義時と対立、執権職を剥奪され隠居させられる。10年後に数え78歳で病没。鎌倉幕府執権の中では最も長寿だった。北条家の子孫は得宗家初代を義時とし、晩節を汚した時政は祭祀から外した。

 

鎌倉幕府第2代執権 北条義時(ほうじょうよしとき) 在職期間1205年~1224年

時政の次男&得宗家初代。1163年生まれ。「1221年承久の乱のときの幕府側の最高責任者であり、仲恭天皇を廃し後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した」「主家である源家を絶えさせた疑いがある」ため評価が難しい。1979年(昭和54年)の大河ドラマ『草燃える』では源頼朝&姉で頼朝の妻の北条政子とともに主役であり、「平安時代末期からの争乱の勝者は、坂東武者」という識見を持つ最終的勝者として描かれた。在職のまま数え62歳で没。死因については諸説ある。在職期間約19年は鎌倉幕府執権として最も長い。

 

鎌倉幕府第3代執権 北条泰時(ほうじょうやすとき) 在職期間1224年~1242年

義時の長男(庶子)&得宗家2代目。1183年生まれ。数え39歳のとき起きた承久の乱では総勢19万騎の総大将として鎌倉から京都まで攻め上り幕府軍を勝利に導く。1225年大江広元(おおえのひろもと)が数え78歳で没、同年北条政子が数え69歳で没。1232年御成敗式目(貞永式目)を制定。1242年在職のまま数え60歳で病没。

総大将として歴史上重要な戦いで勝利し、武家社会の成文法を制定し、仕事熱心、質素な生活をした有徳の人物で、武家政権のリーダーとして史上屈指の高い評価を得ている。泰時を高く評価した著名人=北畠親房、新井白石。

 

鎌倉幕府第4代執権 北条経時(ほうじょうつねとき) 在職期間1242年~1246年

泰時の長男(嫡子)である時氏(ときうじ)の長男&得宗家3代目。1224年生まれ。1244年第4代将軍九条頼経を解任。病気のため同母弟の時頼に執権職を譲り、直後に数え23歳で病没。

 

鎌倉幕府第5代執権 北条時頼(ほうじょうときより) 在職期間1246年~1256年

時氏の次男&経時の同母弟。1227年生まれ。得宗家4代目。就任直後に宮騒動(みやそうどう)が起こるが鎮圧。1253年建長寺を創建。1256年赤痢にかかり、北条長時に執権職を譲る。回復した時頼は出家し最明寺入道(さいみょうじのにゅうどう)を名乗る。1263年36歳(数え37歳)で没。時頼が諸国を旅して民情視察を行ったという廻国(かいこく)伝説が生まれ、能の『鉢木(はちのき)』が有名。『徒然草』第215段に、最明寺入道が一族の若者・北条宣時に晩酌の相手をしてくれ、酒の肴をさがしてくれと頼み、宣時が「味噌ならあります」と差し出すと「おう、それでけっこう、けっこう」と喜んで2人で晩酌を楽しんだ、というエピソードがあり、質素な生活が称賛されている。北条家執権の中では祖父・泰時に次ぐ高い評価を得ている人物。

 

鎌倉幕府第6代執権 北条長時(ほうじょうながとき) 在職期間1256年~1264年

泰時の弟・重時(しげとき)の子。1230年生まれ。病気のため執権職を叔父の政村に譲り、1か月後に34歳(数え35歳)で病没。

 

鎌倉幕府第7代執権 北条政村(ほうじょうまさむら) 在職期間1264年~1268年

泰時&重時の弟。1205年生まれ。1268年1月フビライ・ハンの使者が来日。元寇という難局を前に権力の一元化を図るため執権職を時宗に譲り、1273年67歳(数え69歳)で病没。

 

鎌倉幕府第8代執権 北条時宗(ほうじょうときむね) 在職期間1268年~1284年

時頼の次男(嫡子)&得宗家5代目。1251年生まれ。フビライ・ハンの使者が来日した2か月後に16歳(数え18歳)で執権就任。1274年文永の役。1275年元の正使として杜世忠ら5名が来日したが鎌倉龍ノ口で斬首にする。1281年弘安の役。1284年在職のまま32歳(数え34歳)で病没。生涯を蒙古(モンゴル帝国)との戦いに捧げた。太平洋戦争敗戦の前後で評価が大きく変わった人物。

 

鎌倉幕府第9代執権 北条貞時(ほうじょうさだとき) 在職期間1284年~1301年

時宗の嫡子&得宗家6代目。1272年1月(旧暦12月)生まれ。父急死を受け、わずか12歳(旧暦での数え14歳)で就任。翌1285年霜月騒動、安達泰盛ら有力御家人が平頼綱(たいらのよりつな)ら御内人(みうちびと。得宗家の家臣)勢力に滅ぼされる。1293年鎌倉地震が発生、貞時はこの混乱に乗じ内管領(ないかんれい)となっていた平頼綱を滅ぼし(平禅門の乱[へいぜんもんのらん])、権力を掌握。1297年元寇の出費の借金で苦しむ御家人を救済するため永仁の徳政令を発布するが、かえって借金がしにくくなり御家人は苦しんだ。1301年ハレー彗星が出現、凶兆と憂慮し執権職を従弟の師時に譲る。実権は貞時にあり、師時にはわが子・高時が成長するまでの中継ぎとしての役割を期待したが、高時が成長する前に師時は早世。師時が没して1か月後に39歳(旧暦での数え41歳)で没。

貞時の晩年は酒浸りの生活で、内管領・長崎円喜(ながさきえんき。生年不詳。1333年東勝寺で北条一門とともに自害)が実権を握り、執権は短期間の人物が続いて傀儡化、鎌倉幕府は滅亡へ向かう。

 

鎌倉幕府第10代執権 北条師時(ほうじょうもろとき) 在職期間1301年~1311年

時宗の同母弟・宗政(むねまさ)の子。1275年生まれ。高時が成長するまでの中継ぎとして数え27歳で就任するがその使命が終わらないうちに在職のまま数え37歳で病没。

 

鎌倉幕府第11代執権 北条宗宣(ほうじょうむねのぶ) 在職期間1311年~1312年

政子義時の弟・時房(ときふさ)の3代孫。1259年生まれ。在職1年で煕時に譲り、まもなく数え54歳で没。

 

鎌倉幕府第12代執権 北条煕時(ほうじょうひろとき) 在職期間1312年~1315年

政村の3代孫。1279年生まれ。在職3年で病気のため基時に譲り、まもなく数え37歳で病没。

 

鎌倉幕府第13代執権 北条基時(ほうじょうもととき) 在職期間1315年~1316年

重時の3代孫、長時の弟の孫。1286年生まれ。在職1年で高時に譲る。1333年鎌倉幕府滅亡のとき、鎌倉七口(かまくらななくち)の一つ化粧坂(けわいざか)を守り新田義貞軍の突破を許さなかったが、稲村ケ崎から鎌倉に突入され、自害。享年数え48歳。

 

鎌倉幕府第14代執権 北条高時(ほうじょうたかとき) 在職期間1316年~1326年

貞時の嫡子&得宗家7代目。1304年1月(旧暦12月)生まれ。病気のため執権職を辞職。1333年鎌倉幕府滅亡のとき、北条家の菩提寺である東勝寺(とうしょうじ)で一族郎党と共に自害。享年29歳(旧暦での数え31歳)。『太平記』では田楽や犬追物に熱中し悪政を布いて人々の憎しみを買った幕府滅亡の元凶として描かれている。現代劇では1991年(平成3年)の大河ドラマ『太平記』のように「傀儡であり、愚鈍、高慢、孤独な、虚無主義者(ニヒリスト)」とされることが多い。

 

鎌倉幕府第15代執権 北条貞顕(ほうじょうさだあき) 在職期間1326年

金沢実時(かねさわさねとき。泰時の弟・実泰[さねやす]の子)の孫。金沢貞顕(かねさわさだあき)ともいう。1278年生まれ。高時は後継者を定めず辞職したため高時の息子と高時の弟の間で後継争いが発生、中継ぎとして貞顕が就任。しかし貞顕暗殺の噂が流れたため10日で辞職。1333年東勝寺で一門と共に自害。享年数え56歳。

 

鎌倉幕府第16代執権 北条守時(ほうじょうもりとき) 在職期間1326年~1333年

長時の3代孫。赤橋守時(あかはしもりとき)ともいう。同母妹は足利尊氏の正妻・赤橋登子(あかはしとうこ)。1295年生まれ。1333年鎌倉幕府滅亡の際、義弟の尊氏が裏切ったため立場がなく、先鋒として新田義貞軍と戦い退却せず奮戦したのち自害。享年数え39歳。

 

 

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(雑感)

 

鎌倉幕府。源頼朝、北条政子、北条時政、北条義時。幕府をつくった人たち。幕府をつくった時代。

「新しい団体」「新しい団体をつくった人たち」「新しい団体を立ち上げた時代」ですね。

団体の立ち上げって、それこそ数多くありますが、日本史上屈指の、スケールの大きい、画期的な、「新しい団体の立ち上げ」に思えます。鎌倉幕府の立ち上げ。

私も「嗅覚障害者の団体を作りたい」と心底願っているわけですが、さすがに鎌倉幕府とじゃ、スケールが違いますよね。お題にしてコメントするだけでも恐縮してしまいます。

あえてコメントさせていただければ、私も、流人時代の源頼朝のように、地道に、協力者を探し、連絡を取りたいものです。

ただし、私では源頼朝のような旗頭にはなれません。見習うべきは、北条時政北条義時、そして多くの御家人たちのような、旗頭を迎え、担いで、支える立場の人間です。もちろん、時政義時には「ここは反面教師にしたいな」と思えるところもありますから、そこはそう心掛けつつ、です。私は、そういう人物になることを目指しています。