嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders. -35ページ目

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

 

 

第125代天皇 平成(へいせい)天皇① 在位期間1989年(平成元年)1月7日~2019年(平成31年)4月30日(火) なお、「①」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系1代遡る」という意味です。年齢は随時更新します。

継宮明仁(つぐのみや あきひと)親王。昭和天皇②の第1皇子。今上天皇の父。皇后・正田美智子(しょうだみちこ)との間に男子2人女子1人が誕生。

1933年(昭和8年)12月23日生まれ。92歳。第26代天皇・継体天皇(53)以降の天皇で最も長寿。

55歳で即位。

2016年(平成28年)に譲位を希望。

2019年(平成31年)4月30日(火)に85歳で皇太子・浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)親王に譲位。1817年の第119代光格天皇⑦から第120代仁孝天皇⑥への譲位以来、202年ぶりの譲位となる。

魚類学者でもありハゼの研究で知られている。

1989年(平成元年)4月1日、消費税が3%でスタート。前年強行採決で竹下登内閣の税制改革関連法案が可決されていた。リクルート事件もあって竹下内閣の支持率が3%台に急落し6月に内閣総辞職。

 

同年12月29日、日経平均株価が史上最高値の、取引時間中の最高値3万8,957円44銭、終値3万8,915円87銭を記録。当年大納会終値でもある。

1990年(平成2年)、家庭用超音波温水器「バブルスター」の販売メーカーの原ヘルス工業が薬事法違反で業務停止。健康に良いとされていた泡の発生装置は農業用ポンプを流用したものであり、泡が出るだけで健康には結び付かなかったという。テレビCMでの「バブル」という言葉は印象的。なお、スポーツクラブの浴槽などにあるジャグジーは、気泡のマッサージ効果により筋肉をほぐしリラックスさせる効果がある。本来の名称は開発したアメリカ企業の商標登録である「Jacuzzi(ジャクージ)」。

1992年(平成4年)、日経平均株価の当年大納会終値は1万6,924円95銭。これは3年前の大納会終値に比べ▼2万1,990円92銭(▼56.5%)。

1993年(平成5年)7月12日、北海道南西沖地震が発生。北海道の奥尻島(おくしりとう)で津波による大きな被害が出る。

 

1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災

1997年(平成9年)4月1日、橋本龍太郎内閣(自民党&社民党&新党さきがけ)のとき消費税を5%に引き上げ。これは村山富市内閣(自民党&社会党&新党さきがけ)時代に内定していたことだったが、翌年の参議院選挙で自民党は惨敗を喫し橋本内閣は総辞職。「消費税引き上げの翌年から日本は長期デフレーション(平成不況)に突入した」という厳しい評価もある。

2004年(平成16年)10月23日、新潟県中越地震が発生。

同年12月26日、2004年スマトラ島沖地震が発生。マグニチュード9.1。巨大津波が発生しインド洋に面した諸国に約22万人の犠牲者が出た。

2008年(平成20年)6月14日、岩手・宮城内陸地震が発生。

 

同年9月15日(月祝 敬老の日)リーマン・ブラザーズ・ホールディングスが経営破綻(リーマンショック)。日経平均株価は暴落し、前日9月12日(金)終値は1万2,214円76銭→1か月半後の同年10月27日(月)終値は7,162円90銭(▼41.4%)。

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災

2011年(平成23年)12月、野田佳彦(のだよしひこ)内閣(民主党&国民新党)の税制調査会にて、「2014年(平成26年)4月1日に8%」、「2015年(平成27年)10月1日に10%」という消費税引き上げ案が提出され、翌2012年(平成24年)8月「税と社会保障の一体改革関連法案」として民主党&自民党&公明党の賛成で可決・成立。

2012年(平成24年)の衆議院議員総選挙で民主党は惨敗し野田内閣は総辞職。

2014年(平成26年)4月1日、安倍晋三内閣(自民党&公明党)のとき消費税を8%に引き上げ。

一方、「2015年(平成27年)10月1日に10%」は2度先送りされ、「2019年(令和元年)10月1日に10%」が実施された。

2016年(平成28年)4月14日~16日、熊本地震が発生。

2018年(平成30年)9月6日、北海道胆振東部地震(ほっかいどういぶりとうぶじしん)が発生。

 

 

 

第126代天皇 今上天皇 2019年(令和元年)5月1日(水)~

浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)親王。平成天皇①の第1皇子。元号は令和。

1960年(昭和35年)2月23日生まれ。65歳。

学習院大学卒業後、同大大学院に進み、オックスフォード大学に留学、帰国後博士前期課程を修了、専攻は史学(中世の交通史・流通史)。

平成天皇からの譲位を受けて59歳で即位。59歳2か月(数え60歳)での即位は、第26代・継体天皇(53)以降の天皇で2番目に高齢。最高齢は第49代・光仁天皇㊻の60歳11か月(数え62歳)。

趣味はヴィオラ演奏、登山、ジョギング。

皇后は小和田雅子(おわだまさこ)。1963年(昭和38年)12月9日生まれ。62歳。

子女は敬宮愛子(としのみや あいこ)内親王。2001年(平成13年)12月1日生まれ。24歳。

弟・秋篠宮文仁(あきしののみや ふみひと)親王(1965年[昭和40年]11月30日生まれ。60歳。皇嗣[こうし]=皇位継承順第1位の皇族)と、妃・川嶋紀子(かわしまきこ。1966年[昭和41年]9月11日生まれ。59歳)の間に、待望の皇族男子・悠仁(ひさひと)親王(2006年[平成18年]9月6日生まれ。19歳。皇位継承順第2位)が誕生している。秋篠宮家の長女は眞子(まこ)内親王。1991年(平成3年)10月23日生まれ。34歳。次女は佳子(かこ)内親王。1994年(平成6年)12月29日生まれ。31歳。

2019年(令和元年)10月1日、「消費税8%→10%」が実施される。

 

2019年(令和元年)11月、中国・武漢(ぶかん ウーハン)から、新型コロナウイルス new coronavirusの世界的流行が始まる。

 

2020年(令和2年)夏、東京オリンピック&パラリンピック開催予定。

・・・だったのですが、新型コロナウイルスの世界的流行の影響で、3月24日、2021年夏に延期されました。

 

2024年(令和6年)、新紙幣に刷新。

1万円札は第一国立銀行や東京証券取引所など多くの企業を設立、経営した実業家、渋沢栄一

5000円札は津田塾大学の創始者、津田梅子

1000円札は「近代日本医学の父」として知られ、ペスト菌を発見するなど医学の発展に貢献した北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)の肖像画を使用予定。

 

2024年(令和6年)夏、パリオリンピック&パラリンピック開催。

 

2025年(令和7年)、大阪・関西万博(正式名称は、『2025年日本国際博覧会』、英称『EXPO 2025 Osaka,Kansai,Japan』)が大阪府大阪市此花区で開催予定。標語は「いのち輝く未来社会のデザイン」。

 

2026年(令和8年)、スペインのサグラダ・ファミリア(Templo de la Sagrada Familia テンプロ・デ・ラ・サグラダ・ファミリア)が1882年(明治15年)着工から144年で完成する予定。

2028年(令和10年)夏、ロサンゼルスオリンピック&パラリンピック開催予定。

 

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(雑感)

 

歴代天皇編、完結です。

紀伝体は、つまらないはずの暗記勉強を我慢できる程度に面白く書くことができます。紀伝体にしたおかげで、何とか書けました。別に唯物史観を否定してるわけではありません。

一方、あまり嗅覚障害に絡めることができませんでした。やっぱり、嗅覚障害者は歴史上見つかりませんでした。やはり、嗅覚障害に取り組む人生は、道なき道を行く人生なのですね。

このあと、少し間をおいて、鎌倉幕府将軍&執権→室町幕府将軍→江戸幕府将軍を書き、第62回をもって「日本史メモ」は完結予定です。

今日のトップにも使ったこの写真、2週間前に私が新倉山浅間公園(あらくらやませんげんこうえん)に行って撮ってきた写真です。第26回の醍醐天皇の回で紹介し「今年行きたい」と書いていた、あそこです。

素晴らしい絶景で、「極楽みたいなところだなぁ」とホント感じました。けっこう高い所で、それが絶景感をアップさせてるんですよね。

この写真はズームレンズを最も広角にして撮ったので富士山が小さく見えますが、肉眼だともっと富士山が大きく間近に見えます。

埼玉県の自宅から日帰りで、かつ、総額1万円以下で行けるところとしては、一番良いところ。一番の極楽。そう感じます。

 

 

 

第124代天皇 昭和(しょうわ)天皇② 在位期間1926年(昭和元年)12月25日~1989年(昭和64年)1月7日 なお、「②」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系2代遡る」という意味です。 

迪宮裕仁(みちのみや ひろひと)親王。大正天皇③の第1皇子。平成天皇①の父。弟が3人いる。皇后・良子(ながこ。久邇宮家[くにのみやけ]出身。香淳[こうじゅん]皇后)との間に男子2人と女子5人が誕生。

1901年(明治34年)4月29日生まれ。4月29日は現在「昭和の日」。

1921年(大正10年)、皇太子のとき、大正天皇の病状悪化で20歳で摂政に就いた。

25歳で即位。

国家機関の輔弼による立憲君主論にこだわっていた。1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件の処理に関して総理の田中義一を叱責・退陣させたことの反省から、その傾向がさらに強まったと言われる。その例外が1936年(昭和11年)二・二六事件の対応と1945年(昭和20年)ポツダム宣言受諾の御前会議であったと述懐している。

1946年(昭和21年)神格を否定する人間宣言を出した。戦争責任を問う動きもあり、自らもたびたび退位を口にしたという。

生物学研究者でもあった。好角家で相撲観戦が好きだったことも有名。巨人の長嶋茂雄が阪神の村山実からサヨナラホームランを打ち、また王貞治&長嶋茂雄のON砲が初めてアベックホームランを打った試合でもある、1959年(昭和34年)プロ野球天覧試合観戦のエピソードも有名。

在位のまま87歳で崩御。在位期間約62年間は第26代天皇・継体天皇(53)以降の天皇で最長。

 

1928年(昭和3年)野口英世が、黄熱病の研究中に自身も罹患し、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ)のアクラで51歳で病没。

※ 野口英世 のぐちひでよ。医師、細菌学者。1876年(明治9年)福島県耶麻郡三ッ和村(やまぐんみつわむら。現、福島県耶麻郡猪苗代町[いなわしろまち])生まれ。

1歳のときに囲炉裏に落ち左手に大やけどを負う。小学校の頃、「てんぼう」と言われていじめられていたが、のちに左手の障害を嘆く作文が教師や同級生らの同情を誘い、手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師のもと手術を受ける。不自由ながらも左手の指が使えるようになり感激したことがきっかけで医師を目指した。

高等小学校を卒業して上京、済世学舎(現、日本医科大学)に通い、医術開業試験に合格し医師となった。

渡米してペンシルベニア大学医学部の助手に就き、研究者として名声を得てロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に3度名前が挙がった。

私生活では放蕩者だったが、1911年(明治44年)にアメリカ人女性メリー・ダージスと結婚している。

1931年(昭和6年)満州事変

「満州国」が「領土」とした地域=広義の満州からアムール川以北・ウスリー川以東を除いたエリア。

=遼寧省(りょうねいしょう リャオ・ニン・シャン。奉天[ほうてん フォン・ティエン。現、瀋陽{しんよう シェン・ヤン}]など)、吉林省(きつりんしょう ジー・リン・シャン。首都が置かれた新京[しんきょう シン・ジン。現、長春{ちょうしゅん チャン・チュン}]など)、黒竜江省(こくりゅうこうしょう ヘイ・ロン・ジィアン・シャン。伊藤博文[1841年生まれ。68歳で没]が1909年[明治42年]に暗殺された場所であるハルビン[日本では「ハルピン」と呼ばれていた]など)、内モンゴル自治区(うちもんごるじちく 内蒙古自治区 ネイ・モン・グゥ・ツー・チエ・チー)東部。

 

1933年(昭和8年)昭和三陸地震が発生。

 

1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日太平洋戦争

 

1944年(昭和19年)昭和東南海地震(東南海巨大地震)が発生。

 

1946年(昭和21年)昭和南海地震(南海巨大地震)が発生。

 

1960年(昭和35年)チリ地震が発生。

 

1964年(昭和39年)第18回オリンピック競技大会・東京オリンピック開催。アジア地域での初開催、有色人種国家での初開催。

1968年(昭和43年)川端康成がノーベル文学賞を受賞。対象作品は『雪国』『古都』など。授賞式には紋付き袴姿で文化勲章をかけて出席、2日後の受賞記念講演ではスーツ姿で「美しい日本の私 その序説」を日本語で行った。

※ 川端康成 かわばたやすなり。1899年(明治32年)大阪府生まれ。幼い頃に両親が他界し、7歳のときに祖父も亡くなり孤児になる。東京帝国大学国文学科を卒業したのち、1927年(昭和2年)『伊豆の踊子』を刊行。横光利一(よこみつりいち)らと「新感覚派」として活躍。日本的抒情文学を追求し、『雪国』『山の音(やまのおと)』『古都』などを発表。1972年(昭和47年)72歳でガス自殺した。

 

『伊豆の踊子』 1926年(大正15年)発表、1927年(昭和2年)刊行。

(あらすじ)20歳の一高生「」は孤児であることからいじけた気持ちを抱いていた。その憂鬱から逃れるため、伊豆へ一人旅に出かける。途中、旅芸人の一団と出会い、14歳の踊り子・薫(かおる)の素朴で純情なふるまいに「私」の気持ちは浄化される。つまり、人と人との触れ合い、人情のぬくもりによって、「私」は「孤児であるが故のいじけた心」から脱却し、精神的に成長する。しかし、いつまでも一緒にいられない運命であることは明白だった。2人の淡い恋に終わりが来て、切なく悲しい別れをする。

(解説)伊豆を旅する一高生と旅芸人の踊り子との淡い恋を描く抒情的青春小説。これまでに何度も映画化・TVドラマ化されている。JR東日本の「踊り子」号や「スーパービュー踊り子」号など、「踊り子」の名がついた電車も多い。


『雪国』 1935年(昭和10年)~1947年(昭和22年)発表、1948年(昭和23年)刊行。

(冒頭)「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

(あらすじ)駅長を呼ぶ悲しいほど美しい娘の声を島村は聞いた。それは葉子という娘で、病人らしい若い男の世話をしている。2人は島村と同じ駅で降りた。

島村は、この前の春、山歩きの帰りに泊まった温泉宿で芸者の駒子を知った。不思議なくらい清潔な印象の駒子に島村は好意を持ち、関係を結んだ。島村には東京に妻子がいたが、彼女が忘れられず、冬になってまた訪れたのだ。

だが、その後、駒子が芸者をしているのは、汽車の中で葉子と一緒だった男・行男の治療費を得るためで、2人は結婚の約束を交わしていることがわかる。島村はそのことが気掛かりだったが、駒子が奏でる三味線から、自分への情念を感じ取っていた。

島村が帰京する日、駅まで見送る駒子のもとに、葉子が行男の病状が急変したことを知らせに来たが、駒子は動かなかった。

島村が次に駒子を訪ねたのは、翌年の秋。駒子の境遇は変わっていた。行男は亡くなり、墓参りを日課に過ごす日々だった。駒子の島村への愛は、ますます強くなっていた。宿に招き入れると、激しく体を投げつけてきた。それから毎日、島村を頼るように訪ねてきた。そんな駒子を見て島村は、もうかりそめに会うことはできないと感じる。

帰京の前夜、映画を上映していた繭蔵(まゆぐら)から出火し、2階から若い女の体が落ちるのを見た。葉子だとわかった瞬間にはもう、かすかに痙攣し動かなくなった。駒子は葉子を抱き上げたまま立ち尽くす。島村はそれを見て、駒子が自分の犠牲か刑罰を抱いているかのように感じるのだった。

(解説)川端は複数の雑誌に『雪国』各章を連作として発表した。そのときの題名は『雪国』ではなく、『雪国』という題名は、各章を1つにまとめ、さらに書下ろし原稿を加え、1948年単行本になったときにはじめて登場。有名な冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文も単行本で初めて書き加えられた。夜の底が白くなった。」というところが新感覚派らしい表現。


『山の音(やまのおと)』 1949年(昭和24年)~1954年(昭和29年)発表、1954年刊行。

(あらすじ)老境に達した尾形信吾は、妻の保子、長男夫婦の修一菊子と一緒に鎌倉で暮らしている。妻とはすでに夫婦生活はなく、深夜ふと響いてくる山の音を死期の告知とおびえる。長男・修一は、出征してから復員するまでの間にトラウマを抱えたらしく、菊子という貞淑な嫁がいながら、愛人・絹子との逢瀬も続けている。信吾は菊子に同情しつつ、昔あこがれていた女性である妻・保子の姉の面影を彼女に重ね、恋心を抱いていく。そのうちに、長女の房子が離婚して子供2人とともに実家に戻ってくる。菊子は修一の子を身籠るが、修一に浮気を続けるなら産まないと言って堕胎する。信吾は菊子を案じ、会話をする。その一方、男女の関係になることも破綻が起きることもない。菊子とはプラトニックな愛にとどめ、老いと死に正面から向き合うことを決意する。家族7人が久しぶりに揃った日、信吾は田舎の信州にみんなで紅葉を見に行くことを提案し、淡々とした日常の描写で物語は終わる。

(解説)新感覚派として美しい比喩的な表現で愛を描いてきた川端康成が、珍しく家庭をテーマにしたことで注目された。家族の問題に迫る戦後文学の傑作。海外でも評価が高い。『雪国』と同様に連作として6年にわたり書き継がれてきたものを1つにまとめたもの。

 

『古都』 1961年(昭和36年)~1962年(昭和37年)発表、1962年刊行。

(あらすじ)20歳の佐田千重子(さだちえこ)は、店の前に捨てられていた捨て子だったが、京都の中京区室町通の老舗呉服店のひとり娘として何不自由なく育てられた。祇園祭の日、千重子は、自分にそっくりの娘・苗子(なえこ)に会う。ふたりは生き別れになった双子の姉妹だった。家は京都の北区の山村にあり、実母は早世、実父も北山杉の枝打ち中に転落死していた。

千重子に思いを寄せる職人の秀男は苗子に出会い、ひかれていき、求婚する。しかし苗子は、秀男が自分に千重子の幻を見ていると感じ、断ることにした。苗子は、自分が秀男と結婚すれば自分の存在が世間に知られ、千重子の出生の秘密が露見し、千重子や周囲の人々に迷惑がかかることも避けたかった。千重子には縁談も持ち上がっていたのだ。苗子からこのことを聞いた千重子は、父も母も苗子を引き取ることを許してくれたことを告げる。涙を流して感謝した苗子は千重子の家に行く。こうして生き別れた双子の姉妹は幸せな一泊の夜を同じ床で過ごす。

翌朝、苗子は山の村へ帰っていく。あくまでも千重子の幸せを案じ、これを最初で最後の一泊の訪問と決めてのことだった。

(解説)川端は朝日新聞に連載するにあたり「『古都』とは、もちろん、京都です。ここしばらく私は日本のふるさとをたずねるような小説を書いてみたいと思っています」と書いている。京都を舞台に、四季折々の美しい風景や祇園祭などの伝統文化が描かれ、主人公の双子姉妹の健気で切ないドラマも美しい。この作品も何度も映画化・TVドラマ化されている。外国では日本での評価以上に評価が高く人気がある。

1975年(昭和50年)三木武夫内閣の大平正芳(おおひらまさよし)蔵相が赤字国債の大量発行に踏み切り、以後、1990年(平成2年)~1993年(平成5年)を除いて毎年繰り返される状況となり、財政健全化・大型間接税の導入が一大テーマとなる。

1978年(昭和53年)12月大平正芳が総理に就任すると日本初となる一般消費税の導入を提案するが、猛反発を受け翌1979年(昭和54年)の衆議院選挙で自民党は惨敗、その翌1980年(昭和55年)さらに内閣不信任案が可決され、大平総理は解散総選挙を選ぶも選挙活動中に倒れ同年70歳で没。

1980年(昭和55年)改革開放路線(かいかくかいほうろせん ガイ・ガー・カイ・ファン・ルー・シエン)を採用した鄧小平(とうしょうへい ドン・シャオ・ピン)の指示により深圳市(しんせんし シェン・チェン・シー。広東省[かんとんしょう グゥアン・ドン・シャン])経済特区(けいざいとっく チン・チー・クァー・チー)に指定される。この頃から中国が急速に発展。直轄市の北京市、直轄市の上海市、広東省広州市(こうしゅうし グゥアン・ヂョウ・シー)など。

1985年(昭和60年)プラザ合意で円高ドル安誘導が決まり、直後に1ドル=約240円→約200円となり、その後も円高ドル安が進行、円高不況となるが、バブル経済の遠因となる。

1986年(昭和61年)11月~1987年(昭和62年)4月NTT株フィーバー。上場前の申込期間(1986年11月17日~同月26日)に165万株の売出に対して1058万件の申込。1987年2月9日東証に上場すると買い注文が殺到し初日は値がつかないまま取引を終え翌日の取引終了間際にようやくついた初値は売出価格119万7000円を約40万円上回る160万円。その後も騰勢は加速し4月22日には318万円の最高値を記録。株ブームが始まり、バブル経済時代の象徴的出来事となる。

バブル経済時代の象徴的出来事として、下記の出来事も有名。

★1987年(昭和62年)、安田火災海上保険(現、損害保険ジャパン日本興亜)によるヴィンセント・ファン・ゴッホ『ひまわり』購入(約58億円)。

★1989年(平成元年)、ソニーによる米映画会社コロンビア買収(約5200億円)。

★1989年、三菱地所によるロックフェラーセンターの買収(約2200億円)。

1987年(昭和62年)中曽根康弘総理が売上税の導入を提案するが猛反発を受け同年4月の統一地方選で自民党は敗北。中曽根総理はこの年任期満了で後継を竹下登に指名し退任。

 

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(雑感)

 

いよいよ昭和です。まさに、「私よりも詳しい方が大勢いらっしゃるでしょう。コメントは控えます」「大変難しくリスクが高いのでコメントは控えます」といったところです。

 

第123代天皇 大正(たいしょう)天皇③ 在位期間1912年(大正元年)7月30日~1926年(大正15年)12月25日 なお、「③」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系3代遡る」という意味です。

明宮嘉仁(はるのみや よしひと)親王。明治天皇④の第3皇子。昭和天皇②の父。皇后・九条節子(くじょうさだこ。貞明[ていめい]皇后)との間に男子4人が誕生。

1879年(明治12年)生まれ。32歳で即位。

病気により1921年(大正10年)皇太子・迪宮裕仁(みちのみや ひろひと)親王(のちの昭和天皇)を摂政とした。在位のまま47歳で崩御。

1913年(大正2年)斎藤茂吉が処女歌集『赤光』刊行。代表作の一つが下記の歌。

のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり

のどあかきつばくらめふたつはりにいて、たらちねのはははしにたもうなり。

(解説)斎藤茂吉は短歌結社誌『アララギ』の中心的人物。正岡子規の短歌論を信奉し『アララギ』に拠った歌人たちをアララギ派と称する。写実的で生活に密着した歌風。『アララギ』の系譜を引く結社全てを合わせると現在にいたるまで歌壇の最大勢力。

1914年(大正3年)~1918年(大正7年)第一次世界大戦。

1915年(大正4年)、第一次世界大戦中のドイツでフランツ・カフカの小説『変身(Die Verwandlung ディー・ファーヴァンドロング)』が出版発表される。

(あらすじ)ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で1匹の巨大な虫に変っているのを発見した。鎧のように硬い背、アーチのようにふくらんだ褐色の腹。その腹の上には横に幾本かの筋がついていて、たくさんの細い足がぴくぴくと動いていた。

夢ではない。見回すといつもの自分の部屋である。外交販売員の彼は5時の汽車に乗らねばならなかったが、時計はすでに6時半を指していた。しかし、体の幅がひどく広くて起き上がろうにも起き上がれないのだった。

しばらくすると、遅刻したことに腹をたてた店の支配人が家にやって来て、支配人と父親母親の3人はグレーゴルの部屋の前で扉を開けるよう説得を始める。

ようやく寝床から出たグレーゴルは、鍵穴にささっていたカギを口で回して錠を開け、そして取っ手の上に頭を置いてドアを開いた。すると支配人はぽかんと開けた口に手を当ててあとずさりし、母親はへたへたと床に座り込み、父親は胸が波打つほどに泣き始めてしまったのである。

父親にしっしっと邪魔者のように部屋へ追い戻されたグレーゴルだったが、妹のグレーテが毎日食事を運び、また掃除もしてくれた。

そんなある日、グレーテはグレーゴルができるだけ広く這いまわれるよう家具を取り除こうと思い立つ。そして母親に手伝いを頼むが、母親はグレーゴルの姿に慣れていなかった。

そこでグレーゴルは、寝椅子にいつもよりもしわしわに麻布をかけ、その下でそっとしていた。グレーゴルはいつもグレーテに気を使って麻布をかぶって寝椅子の上にいたのだ。ところがグレーゴルは、壁に飾った婦人の絵だけは持っていかせまいとして這い出して、この絵を覆い隠してしまうのである。

花模様の壁紙についた、その巨大な褐色の斑点を見た母親は、「助けてえ、助けてえ」と叫ぶなり、両腕を大きく広げて寝椅子の上に倒れて動かなくなってしまった。

仕事から帰った父親は、事の始終を聞くと苦りきった顔つきでグレーゴルのほうに進んだかと思うと、りんごを彼に投げつける。そのひとつが背中の肉にぐさりとめり込んでしまう。

重傷を負ったグレーゴルは、体を自由に動かすことができなくなった。しかしある夜のこと、久しぶりにグレーテがバイオリンをひいているのを耳にして、茶の間のほうにゆっくりと近づいていく。茶の間には下宿している3人の紳士のほか父親と母親がいたが、しばらくして紳士のひとりが前進してくるグレーゴルに気づく。そして、怒り狂って家賃は払わず出て行くと宣言する。グレーテは言う。

「もう潮時だわ。」「あたしたちはこれを振り離す算段をつけなくっちゃだめです。」

悲しみに打ちひしがれたグレーゴルはやっとの思いで自分の部屋に戻るが、自分がもうまったく動けなくなっているのがわかっていた。そして、彼の耳に教会から朝の3時を打つ時計の音が聞こえてきた時、首がひとりでにがくんと下へ下がり、鼻腔から最後の息がかすかに漏れ流れた。

グレーゴルの死を確認した親子は、今日という日を休息と散策に使おうと決議し、そろって家をあとにする。そして、有望な将来について語り合うのだった。

※ フランツ・カフカ 1883年(明治16年)オーストリア=ハンガリー帝国(現、チェコ)のプラハ生まれ。

父親はプラハで小間物商を営み成功していたユダヤ人で、息子に強く干渉、カフカは父に絶えず支配されていたことを嘆いていた。『変身』での父と息子の対立という側面はこれに由来する。母親はドイツ系ユダヤ人で、カフカの「内気で控え目、臆病でデリケートな性格」は母方の家系の特徴が現れているという。

29歳のとき『変身』を執筆。出版するとき本の表紙に昆虫の絵を描くはずだったが、カフカは自分の意図したものとは別のものとなることをおそれこれを拒んだ。

1924年(大正13年)41歳で肺結核により病没。

1916年(大正5年)女性月刊誌『青鞜』※1が無期休刊になる。

※1 『青鞜』 せいとう。1911年(明治44年)創刊。平塚らいてう※2の「元始女性は太陽であった」に始まる創刊の辞が有名。与謝野晶子※3は創刊号に「山の動く日来(きた)る」で始まる『そぞろごと』という詩を寄せた。欧米ではフェミニズムが叫ばれた時代で、日本においてフェミニズム、婦人問題を印象づけた。

その一方、1912年(明治45年)に女子英学塾の津田梅子は塾生が『青鞜』に関わることを禁じている。平塚らいてうが『青鞜』から退いたあと中心となり、かつ、『青鞜』を休刊させた人物となった伊藤野枝(いとうのえ)は、1923年(大正12年)甘粕事件(あまかすじけん)で内縁の夫の大杉栄&大杉の6歳の甥とともに殺害されている。享年28歳。

 

※2 平塚らいてう ひらつからいちょう。本名:平塚明(ひらつかはる)。1886年(明治19年)生~1971年(昭和46年)85歳で没。夏目漱石の小説『三四郎』里美美禰子(さとみみねこ)のモデルと言われている。カップルのうち男性の方が若い場合の男性の俗称「若いつばめ」「つばめ」は、平塚とこのような関係になった男性が平塚にあてた手紙の中で自分のことを「若いツバメ」と比喩的に表現し、のちに平塚が『青鞜』でこの手紙を公表した出来事に由来する。

※3 与謝野晶子 よさのあきこ。歌人。1878年(明治11年)大阪府堺生まれ。20歳頃から和歌を詠む。22歳のとき、妻子ある歌人・与謝野鉄幹と不倫関係になり上京。1901年(明治34年)発表した処女歌集『みだれ髪』が青年層から熱狂的に支持される。同年に鉄幹と結婚し12人の子宝に恵まれた。

1904年(明治37年)、半年前に召集され日露戦争の旅順攻略戦に従軍していた末弟を心配して「君死にたまふこと勿(なか)れ」を『明星』に発表。「あゝをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、」第3連目に「すめらみことは戦いにおおみずからは出でまさね (口語訳)天皇陛下は戦争にご自分は出撃なさらずに」と詠ったことから、「国家の刑罰を加えるべき罪人」と批判される。これに対し晶子は「危険思想と非難するけれど、国のために死ねという風潮の方が危険」「歌はまことの心を歌うもの」と反論。このエピソードが有名だが、晶子がのちの戦争の際に詠んだ歌からは反戦イメージとは違った印象を受ける。

1942年(昭和17年)63歳で没。なお、晶子の末弟は日露戦争から無事帰還し1944年(昭和19年)まで生きている。

1918年(大正7年)東京女子大学が創立され、新渡戸稲造が初代学長に就任する。

※ 新渡戸稲造 にとべいなぞう。教育者、思想家、農業経済学・農学研究者。1862年(文久2年)陸奥国岩手郡盛岡城下(現、岩手県盛岡市)で裕福な盛岡藩士の3男として生まれる。1920年(大正9年)から1926年(大正15年)まで国際連盟事務次長も務め、東京女子経済専門学校(→東京文化短期大学→現、新渡戸文化短期大学)初代校長も務めた。著書に1900年(明治33年)刊行した『Bushido:The Soul of Japan(武士道)』1933年(昭和8年)71歳で没。

1923年(大正12年)9月1日関東大震災(相模トラフ巨大地震)。1960年(昭和35年)に閣議了解で9月1日は「防災の日」となる。2023年(令和5年)現在100年が経過。

 

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(雑感)

 

大正時代というと、文学が好きです。1つ挙げるとすればカフカ『変身』です。

とはいえ、今回も「私よりも詳しい方が大勢いらっしゃるでしょう。コメントは控えます」「大変難しくリスクが高いのでコメントは控えます」パターンです。