第122代天皇 明治(めいじ)天皇④ 在位期間1867年2月13日(慶応3年1月9日)~1912年(明治45年)7月30日 なお、「④」は「今上天皇の直系のご先祖様で、直系4代遡る」という意味です。
祐宮睦仁(さちのみや むつひと)親王。孝明天皇⑤の第2皇子。大正天皇③の父。皇后は一条美子(いちじょうはるこ。昭憲[しょうけん]皇太后)だが子女はいない。5人の側室との間に男子5人女子10人が誕生したが、成人した男子は大正天皇ただ1人。
1852年(嘉永5年)生まれ。14歳(数え16歳)で即位。明治維新により、「神の子孫である」と同時に「近代国家となった日本の元首として君臨すること」を求められた。乗馬、和歌、蹴鞠、レコード鑑賞、刀剣収集、日本酒を好んだという。一方、洋風は好きではなく、特に写真に撮られることを好まなかったという。在位のまま59歳(数え61歳)で崩御。
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1867年11月9日(慶応3年10月14日)大政奉還。同年12月10日(慶応3年11月15日)坂本龍馬が暗殺される。享年31歳(旧暦での数え33歳)。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)王政復古の大号令。同年5月(慶応4年4月)江戸城無血開城。同年10月23日(慶応4年9月8日)「明治」に改元。始期を遡らせ慶応4年1月1日(1868年1月25日)を明治元年1月1日とした。大正以降は遡らせることをせず改元の当日を始期としている。同時に天皇一代に元号一つという一世一元の制を定めた(一世一元の詔)。中国では明の太祖洪武帝(朱元璋)のときから一世一元の制を導入していたが、改元の始期は翌年1月1日としていた。
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1867年(慶応3年)カール・マルクス『資本論』刊行。マルクス経済学およびマルクス・レーニン主義の基本文献。唯物史観の立場から、剰余価値を基本概念として、資本主義社会の経済的運動法則を説明。古典派経済学を批判し、資本主義から社会主義への推移&社会主義革命の必然性を証明しようとした。第2巻第3巻はマルクス没後に盟友エンゲルスによって出版された。
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1869年(明治2年)ロシアの化学者メンデレーエフが元素の周期表を発表。
20番までの覚え方=「水兵リーベ僕の船、名前がある、シップス、クラークか」
01 水素 H
02 ヘリウム He
03 リチウム Li
04 ベリリウム Be
05 ホウ素 B
06 炭素 C
07 窒素 N
08 酸素 O
09 フッ素 F
10 ネオン Ne
11 ナトリウム Na
12 マグネシウム Mg
13 アルミニウム Al
14 ケイ素(シリコン) Si
15 リン P
16 硫黄 S
17 塩素 Cl
18 アルゴン Ar
19 カリウム K
20 カルシウム Ca
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1871年(明治4年)ドイツ帝国成立。
1872年12月9日(明治5年11月9日)グレゴリオ暦の採用を発表し、太陰太陽暦明治5年12月3日をグレゴリオ暦明治6年1月1日=1873年1月1日とした。
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1873年(明治6年)渋沢栄一※が大蔵省を退官、第一国立銀行(現、みずほ銀行)を設立し1875年(明治8年)頭取になる。
※ 渋沢栄一 しぶさわえいいち。福沢諭吉と並ぶ日本の経済近代化の最大の功労者。実業家、財界の指導者。
1840年(天保11年)生まれ。生家は武蔵国榛沢郡血洗島村(はんざわぐんちあらいじまむら。現、埼玉県深谷市血洗島)の豪農で、農業のほか藍玉の商業も営んでいた。幕末期に一橋慶喜に仕え、1867年(慶応3年)パリ万国博覧会に出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(あきたけ)に随行して渡欧、昭武とともにパリ留学。
明治新政府から帰国命令が出て帰国。帰国後に慶喜に挨拶すると「これからはお前の道を行きなさい」と諭される。大隈重信に誘われ大蔵省に仕官。近代的な財政&金融&貨幣制度の導入に尽力。
退官し第一国立銀行のほか王子製紙などの設立に関与。以後、民間の銀行&産業&実業家団体の育成&指導に大きな役割を演じ、現・東京海上日動火災保険など関係会社は500以上にのぼった。1931年(昭和6年)91歳で没。
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1877年(明治10年)9月24日西郷隆盛が自刃。享年49歳(旧暦での数え51歳)。
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1880年(明治13年)アメリカ・アラバマ州でヘレン・ケラーが生まれる。1882年(明治15年)1歳半のときに猩紅熱(しょうこうねつ)に伴う髄膜炎に罹患し聴力と視力を失い話すことさえできなくなる。1887年(明治20年)に20歳のアン・サリヴァンがヘレンの家庭教師となり、「しつけ」「指文字」「言葉」を教え、「話すこと」ができるようになる。サリヴァンは1936年(昭和11年)70歳で没。ヘレンは世界各地を歴訪し、障害者の教育&福祉の発展に尽くした。訪日も3回、1937年(昭和12年)・1948年(昭和23年)・1955年(昭和30年)にしている。1968年(昭和43年)87歳で没。
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1889年(明治22年)北里柴三郎※が破傷風菌の純粋培養に成功し、毒素を抽出。翌1890年(明治23年)これをウサギに注射して血清に抗毒素をつくらせ、この血清を人に注射することによって破傷風を予防、治療するという破傷風の血清療法を発表して世界の学会を驚嘆させた。
※ 北里柴三郎 きたさとしばさぶろう。細菌学者。「日本細菌学の父」。
1852年(嘉永5年)肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現、熊本県阿蘇郡小国町[おぐにまち])生まれ。東京医学校(現、東京大学医学部)卒業後、ドイツ留学し、コッホのもとで細菌学を学んだ。帰国後、1892年(明治25年)に設立された伝染病研究所の所長に就任。1894年(明治27年)香港に出張してペスト菌の発見を報告した。このときフランス人イェルサンも同地で別個にペスト菌を発見した。
1914年(大正3年)政府は伝染病研究所を内務省所管から文部省へ移し東京帝国大学付属を決定したので、これに反対して所長をやめ北里研究所を創立した。1931年(昭和6年)78歳で没。
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1894年(明治27年)~1895年(明治28年)日清戦争。
1896年(明治29年)近代オリンピック最初の大会、アテネオリンピック開催。同年、明治三陸地震が発生。
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1896年(明治29年)小説家の樋口一葉が24歳で肺結核により病没。1872年(明治5年)東京生まれ。晩年のわずか14か月間に集中して『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などを発表し、森鴎外ら文壇から絶賛されていた。
★『大つごもり』 1894年(明治27年)12月発表。
貧しい八百屋の娘のお峰は、女中奉公に出て働いていたが、叔父の抱えた借金の返済期限が大晦日(おおみそか)に迫っていた。お峰は困った末に奉公先の店のお金に手をつけ1円札を2枚盗む。その店で大晦日に行われる措置のため露見しそうになり、お峰は自殺を決心する。ところが事態は意外な結末を迎える。残った札束ごと奉公先の跡取り息子・石之助が盗っていたのであった。
一葉が貧しい庶民の女性を初めて本格的に描いた短編。「大つごもり」とは大晦日のこと。
★『たけくらべ』 1895年(明治28年)1月~1896年(明治29年)1月発表。
舞台は東京の遊郭街・吉原。町の子供たちの中で、大黒屋の美登利(みどり)は小さな女王様のような人気者。彼女はお寺の息子で内気な信如(しんにょ)に秘かに思いを寄せている。しかし、お祭りの夜に子供同士のグループで衝突が起き、これが切っ掛けで美登利は信如と疎遠になる。
ある雨の日、大黒屋の前で美登利は信如と再会するが、切ない幕切れを迎える。信如は突然下駄の鼻緒が切れて困っていた。美登利は鼻緒をすげる端切れを差し出そうと外に出るが、相手がわかるととっさに身を隠す。信如も美登利に気づくが恥ずかしさから無視する。美登利は恥じらいながらも端切れを信如に向かって投げる。信如は茫然としたあと通りかかった知人の下駄を借りて去った。
元気いっぱいだった美登利も元気がなくなり女らしくなる。やがて、美登利が女郎として店に出る日が近づく。一方、信如は僧侶の学校へ入るため旅立つ。
一葉が吉原の近くで駄菓子屋を経営していた経験が元になっている。
★『にごりえ』 1895年(明治28年)9月発表。
ヒロインのお力(おりき)は銘酒屋の酌婦、つまり明治時代のバーのホステス。彼女には結城朝之助(ゆうきとものすけ)という馴染みの客がいたが、昔の常連客の源七(げんしち)との関係が断ち切れない。結局、お力は源七の刃によって、無理とも合意とも知られることのない心中の片割れとなって死んでしまう。
一葉がよく酌婦たちの恋文の代筆を引き受けていた経験が元になっている。
★『十三夜』 1895年(明治28年)12月発表。
官僚の原田勇と結婚したお関(おせき)は、実家の身分が低いため夫にないがしろにされ、月齢十三夜のある夜、ついに家を出る。だが、実家である斎藤家の両親は、冷静に、残してきた子・太郎のため夫の元へ帰ることを勧め、お関も納得する。その帰途、お関は、意外な形で彼女に思いを寄せていた幼馴染の高坂録之助(こうさかろくのすけ)と再会。聞けば、自分のために自暴自棄になり妻子を捨てて落ちぶれた暮らしをしているという。お関の胸には様々な思いが去来するが、原田の妻であり太郎の母である己の生の方向をしっかりと見定める。2人は淡々と別れる。そうした憂き世を十三夜の月が淡々と照らし出しているのだった。
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1900年(明治33年)女子英学塾(現、津田塾大学)が東京麹町に設立される。創立者は津田梅子※。
※ 津田梅子 つだうめこ。明治・大正期の教育家。教育で女性の地位向上を目指した。1864年(元治元年)江戸牛込生まれ。1871年(明治4年)6歳(数え8歳)のとき黒田清隆が企図した日本初の女子留学生に父親が応募させ、岩倉使節団に同行して渡米。1882年(明治14年)帰国。1885年(明治17年)から華族女学校で教鞭をとるが、男尊女卑の日本に新しい女子教育の必要性を感じて1889年(明治22年)再渡米。名門ブリンマー大学で留学中の1891年(明治24年)に、日本婦人米国奨学金制度を創設。1892年(明治25年)帰国すると自ら寄付金を集めて女子英学塾を設立した。1929年(昭和4年)64歳で没。
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1901年(明治34年)福沢諭吉※が66歳で没。
※ 福沢諭吉 ふくざわゆきち。1835年豊前(ぶぜん)中津藩(現、大分県中津市)の下級藩士の次男(末っ子)として生まれる。緒方洪庵の適塾で学び、1858年(安政5年)江戸で蘭学塾を開き、1868年(慶応4年)慶応義塾となった。独学で英語を勉強し、3度幕府使節に随行して欧米を視察。維新後は新政府の招きに応ぜず教育と啓蒙活動に取り組んだ。
人間の独立自尊、実学の必要性を説き、男女同権論者で女性解放運動に熱心だった。1882年(明治15年)『時事新報』を創刊。著書『学問のすゝめ』での「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」、『福翁自伝』での「門閥制度は親の敵で御座る」が有名。
一方、1885年(明治18年)『時事新報』社説で「脱亜論」を唱えた。富国強兵政策を支持し、日清戦争も熱烈に支持した。
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1904年(明治37年)~1905年(明治38年)日露戦争。
明治維新や福沢諭吉の業績や日露戦争の勝利などを「明るい」と表現し、昭和の初めから太平洋戦争敗戦までの時期を「暗い」と表現し、「明るい明治、暗い昭和」と言われることがある。論者として歴史小説家の司馬遼太郎(1923年[大正12年]生~1996年[平成8年]72歳で没)が挙げられ、政治学者の丸山眞男(まるやままさお。1996年[平成8年]82歳で没)の名が挙げられることもある。これに対しては、「明治と昭和は別次元ではなく、連続している。全く違うかのように評価するのは矛盾している」という批判がある。
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1905年(明治38年)夏目漱石※がデビュー作『吾輩は猫である』発表。
(冒頭)「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓(とん)とけんとうがつかぬ。」
中学校の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に飼われている猫が、珍野一家やそこに集う友人や門下の書生たち「太平の逸民」「高等遊民」の言動を観察して、人間の愚劣、滑稽、醜悪を痛烈に批判し嘲笑する趣向の小説。主人公が猫なのでネコ語で何を言っても許されてしまうというアイデアが秀逸。高浜虚子のすすめで書き始め、人気が出て長編となった。
最終回の第11話、猫は飲み残しのビールを飲んで酩酊し水がめの中に転落して水死する。
(しめくくり)「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。」
※ 夏目漱石 なつめそうせき。本名・夏目金之助。1867年(慶応3年)江戸牛込(現、東京都新宿区喜久井町)で町方名主の末っ子として生まれ、家が衰えていたため里子に出される経験もした。この点、石見国(現、島根県)津和野藩の典医の家系に生まれ、長男として期待されて育った森鴎外(1862年[文久2年]生~1922年[大正11年]60歳で没)と対比される。漱石が反官的な態度を貫き「余裕派」と呼ばれたのに対し、鴎外は官側の人間であり続け軍医として最高位まで登りつめ「高踏派」と呼ばれた。その一方、漱石も鴎外も、近代化日本の流行りの価値観や自然主義文学(代表作は1905年[明治38年]に島崎藤村が発表した『破戒』)とは距離を置き、洋の東西を問わぬ幅広い知識を基盤に自分の価値観をもって文学活動をした点、共通する。
大学時代に正岡子規と出会い俳句を学ぶ。帝国大学(→東京帝国大学→東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(→旧制松山中学校→県立松山東高校)教師、熊本で第五高等学校(→新制・熊本大学に包括され廃校)教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』などを書く。朝日新聞社に入社し『三四郎』などを掲載。当初は「余裕派」と呼ばれたが、1910年(明治43年)以降、胃潰瘍に苦しみ、作風も変わったと言われている。1916年(大正5年)49歳で没。『明暗』が絶筆となった。
なお、ペンネーム「夏目漱石」のネーミング元について、本人は「小さい頃に『蒙求(もうぎゅう。明治期の初等教科書)』を読んだ時に故事を覚えてさっそくつけたもの」と語っている。この故事とは、中国唐代の歴史書『晋書(しんじょ ジン・シュー)』の『孫楚伝(そんそでん スン・チュー・ユン)』に基づく故事成語「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」のこと。中国の晋の孫楚(そんそ スン・チュー)が「隠遁生活に入りたい」と知人に言おうとした際、「枕石漱流(ちんせきそうりゅう チェン・シー、シュー・リュウ。石に枕し、流れにくちすすぐ。俗世間から離れて、川の流れで口をすすいで、石を枕として眠るような、隠遁生活を送りたい)」と言おうとして、間違えて「漱石枕流(そうせきちんりゅう シュー・シー、チェン・リュウ。石にくちすすぎ、流れに枕す。)」と言ってしまった。知人は「川の流れを枕にできるの?石で口をすすげるの?」とツッコミを入れたが、孫楚は「流れに枕するのは、耳を洗うため。石に口すすぐのは、歯を磨くためだ」と言い返した。転じて、屁理屈をつけて言い逃れすること、へそ曲がりで負け惜しみの強い者・頑固者を指す故事成語となった。夏目金之助は、この故事から自分の性格に通じるものを感じたため、ペンネーム「夏目漱石」にした、と言われている。
なお、「初期三部作の第~」「後期三部作の第~」というのは公式の肩書ではなく、ニックネーム、俗称にすぎない。
(2001年[平成13年]から愛媛県松山市の伊予鉄道で軌道運行している坊っちゃん列車。現在の動力はディーゼル機関)
★『坊っちゃん』 1906年(明治39年)発表。
(冒頭)「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」
漱石が1895年(明治28年)から1年間、愛媛県尋常中学校に勤務した経験をもとに描いた。
主人公の「坊っちゃん」は親譲りの無鉄砲で損ばかりしていて、褒めてくれるのは下女の清(きよ)だけ。四国の中学校に数学教師として赴任し、宿直の夜にイナゴ攻めにあうなど生徒たちのいたずらに悩まされる。校長の「狸」や、美女「マドンナ」の婚約者である同僚「うらなり」は頼りない。教師間の内紛に巻き込まれ、生来の正義感が爆発。同僚の「山嵐」と協力して、奸悪な教頭の「赤シャツ」とその腰巾着の「野だいこ」に天誅を加え、辞表を出して四国を去る。
嘘やごまかしが大嫌いな「坊っちゃん」は、真っ直ぐな気性のせいでトラブル続き。昔も今も生きづらそうなこの気性は、それでも最大の魅力であり、日本文学史上に輝く人気作品となっている。
★『草枕』 1906年(明治39年)発表。
(冒頭)「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」
出戻りの那美(なみ)と温泉で出会った30歳の画家は、那美に自分を描いて欲しいと頼まれるが、那美には何か「足りないところがある」と描かない。しかし、画家は、偶然駅のホームで那美とその別れた夫が発車する汽車の窓越しに見つめ合うのを目にし、那美の顔に浮かんだ「憐れ」を感じ、「それだ!それだ!それが出れば画(え)になりますよ」と那美の肩を叩きながら小声に云う。
なんといっても冒頭が有名。芸術論や、欧化する日本についての言及もある。
★『三四郎』 1908年(明治41年)発表。
初期三部作の第一。
小川三四郎は帝大に入学するため九州から上京したが、東京は自分の常識とは違う世界だった。三四郎は、老いた母のいる故郷九州の田舎と、同郷の先輩・野々宮や広田先生のいる学問の世界と、華美溢れる世界の3つに自分は囲まれていると考える。そして、都会的で美しい里美美禰子(さとみみねこ)のいる3つ目の世界に心惹かれ、美禰子に恋をする。美禰子の言う「迷羊 ストレイシープ stray sheep」が有名。美禰子は、三四郎が知らない、自身の兄の知人と結婚し、三四郎は失恋する。
知人画家である原口の絵が評判となり、そこには池のほとりで扇子を手にした美禰子が描かれていた。三四郎に友人が話しかける。
(しめくくり)「『どうだ森の女は』
『森の女という題が悪い』
『じゃ、何とすればいいんだ』
三四郎は何とも答えなかった。ただ口の内でストレイシープ、ストレイシープと繰り返した。」
三四郎のモデルは漱石の門下生で文芸評論家の小宮豊隆※。美禰子のモデルは平塚らいてう(ひらつからいちょう)と言われている。
※ 小宮豊隆 こみやとよたか。「晩年の漱石の思想=則天去私」として評価したが、戦後の漱石研究者はこれに反論している。松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の蝉はニイニイゼミと主張し、先にアブラゼミと主張していた斎藤茂吉との論争に勝った。
★『それから』 1909年(明治42年)発表。
初期三部作の第二。
長井代助は裕福な家の次男で数え30歳。無職のまま実業家の父の援助で日々を過ごす「高等遊民」として自由な時間をもつことを誇りとしていた。
ある日、友人の平岡が大阪での勤めに失敗して上京する。代助は平岡の妻・三千代と再会。かつて代助は三千代を、三千代も代助を愛していたが、無職の身で結婚に踏み切れず平岡に紹介した過去があった。代助は、平岡から酷い扱いを受けている彼女を憐れに思い、改めて彼女への愛を確認し、過去の虚飾を反省。迷った末についに三千代を奪うことを決意、決行する。
しかし、三千代は病で寝込む。代助は、父や兄夫婦から勘当され、職業を探す必要に迫られ、冷静さも喪失し街へ飛び出してゆく。
漱石文学のテーマである愛における利己(エゴイズム)と利他(献身)が初めて鮮明になった作品。
★『門』 1910年(明治43年)発表。
初期三部作の第三。
野中宗助(のなかそうすけ)と御米(およね)は仲のよい夫婦だが、友人の安井の妻だった御米を奪った過去をもち、社会から葬られ日の当たらぬ場所でひっそりと生きてきた。成り行きで宗助の弟・小六が同居。気苦労がたたり御米は寝込む。そこへ安井の消息が伝わり、近く宗助たちの大家である坂井を訪問すると知って再会の不安におびえる。宗助は救いを求め鎌倉へ行き参禅するが、結局悟ることはできず帰宅。すでに安井は満州に戻り、小六は坂井の書生になることが決まっていた。御米は春が来たことを喜ぶが、宗助はじきに冬になると答える。
社会から逃れるように暮らす夫婦の苦悩や悲哀を描いている。漱石自身が帝大卒業から松山へ赴任する間に円覚寺で参禅した経験が生かされているが、宗助の参禅は唐突で「それから」のようなクライマックスのないまま終焉を迎えている。胃潰瘍の悪化が原因と言われ、この連載終了後1910年(明治43年)漱石は胃潰瘍のため入院、さらに「修善寺の大患」と言われる吐血&一時危篤状態を経験、作風が変わったと言われている。
★『彼岸過迄』 1912年(明治45年)発表。
後期三部作の第一。
「6つの短編を連ねることで1編の長編を構成」「最後の2編は視点となる人物が短編題名の人物へ転換」「締めの文で最初の人物の視点に戻る」という試みがなされている。漱石は連載初日の序文に「題名は元日から始めて彼岸過ぎまで書くつもりだったので名づけた」と書いている。
1「風呂の後」 大学を卒業したが無職の田川敬太郎(たがわけいたろう)の人物像が、同じ下宿の住人の森本と比較して描かれる。
2「停留所」 敬太郎は、友人の須永市蔵(すながいちぞう)から彼の叔父・田口を紹介され、田口から「ある時間に小川町の停車場に降りるある男の電車から降りてからの2時間以内の行動を調べて報告しろ」と依頼を受け、実行する。
3「報告」 男は田口の義兄で高等遊民の松本恒三(まつもとつねぞう)、一緒にいた女は田口の娘の千代子であることが明かされる。
4「雨の降る日」 雨の降る日に松本の幼い娘が突然死んだ話とその葬儀の話。漱石の5女が1歳で急死したときの気持ちを松本に託した章。
5「須永の話」 須永の視点。須永の母親は須永と千代子の結婚を強く望み、千代子も須永に好意を寄せているが、須永はそれから逃げようとする。
6「松本の話」 松本の視点。千代子を避けていた理由は須永が母親の実の子ではないという出生の秘密と明かされる。松本は須永に意見、須永は関西へ旅に出る。須永から手紙が届くようになり、世間への関心を持つようになってきていることが示される。
「結末」 視点が敬太郎に戻る。
★『行人』 1912年(大正元年)発表。
後期三部作の第二。
4つの編からなる。
1「友達」 主人公の長野二郎が友人の三沢と会うため大阪を訪れる。
2「兄」 二郎は、兄の一郎から、兄の妻・直の貞操を試すよう頼まれ、直と2人で旅行する。
3「帰ってから」 二郎は、直との旅行について一郎に報告することを嫌がり、家を出るが、周囲から一郎の様子が妙だという話を聞く。
4「塵労(じんろう)」 二郎は両親と相談し、親友のHに頼んで、一郎を旅行に連れ出してもらう。Hから兄の苦悩が詳しく書かれた手紙が届く。妻への不信感から人間社会自体へも憎しみをもつに至る一郎の、深刻な孤独感を描き、無心の境地には到達できない近代知識人の苦悩を描いている。
★『こゝろ(こころ)』 1914年(大正3年)発表。
後期三部作の第三。
新潮文庫の本のうち通算で最も売れている本。「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3部構成。漱石は単行本の序文に「多くの短編を書いて『こゝろ』という題で統一するつもりだったが、第1話の『先生の遺書』が長引きそうになったため、その1編だけを3部構成にして出版することにし、題名は『こゝろ』のままにしておいた」と書いている。
「大学生の私は鎌倉の海で会った先生に魅かれ傾倒してゆく。しかし、世間から隠れるように暮らしている先生は容易に心を開かない。その謎の多い言動が先生からの手紙=遺書によって解明される」という構成。
かつて先生は親友Kと下宿の娘を巡り三角関係にあった。Kから下宿の娘への恋心を打ち明けられた先生は、かつてKが先生に言い放った言葉である、「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉を放ってKを糾弾。Kは自殺する。先生は下宿の娘と結婚するものの、Kへの罪の意識ゆえに自己処罰の道を選び、1912年(大正元年)の乃木希典大将の殉死に感動し明治の精神とともに自殺することとなる。手紙は先生が私宛に残した遺書であり先生がすでにこの世にいないことを私は知る。
「乃木大将の殉死に触れ、明治の精神とともに自殺する、というのは、明治を代表する人物である漱石らしい」という評価もある一方、「反骨&反官の町方の江戸っ子である漱石には、殉死や自殺は似合わない」という評価もある。
★『明暗』 1916年(大正5年)朝日新聞で連載が始まり、同年漱石が没し絶筆。
会社員の津田は清子との過去を隠して結婚したが、夫の秘密を疑うお延(おのぶ)は人のもの笑いになるのを恐れている。兄嫁の虚栄を憎む妹のお秀は、入院費用の工面をめぐって兄と争い、友人の小林は津田の余裕を攻撃していずれ事実に罰せられると予言する。夫婦、兄妹、愛人、友人、親族、上役と下僚などありふれた人間関係を網の目のようにめぐらせ、我執を脱しえない凡俗の葛藤と愛憎が重厚に描かれる。
津田が清子と再会した場面で絶筆となった。
「『利己』『我執』『私』を超える救済はあるのか?については、まだ判然としない」と言われている。
1910年(明治43年)石川啄木(1886年[明治19年]生~1912年[明治45年]26歳で没)の処女歌集『一握の砂(いちあくのすな)』刊行。代表作の一つが下記の歌。
★はたらけど / はたらけど猶わが生活楽にならざり / ぢつと手を見る
はたらけど / はたらけどなおわがくらしらくにならざり / じっとてをみる。
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1912年(明治45年)第5回オリンピック競技大会・ストックホルムオリンピックに日本が初参加、アジアの国として初の参加。
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(雑感)
ふー、本文を書くの、ホント大変でした。アメブロでコピペするとすぐ容量オーバーになってしまうので、全て直接入力してるのです。明治はお題になることが盛りだくさんですね。






















