日本史メモ 最終回 第62回 江戸幕府将軍 | 嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

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(岐阜県不破郡関ケ原町[ふわぐんせきがはらちょう]にある、関ヶ原古戦場)

 

 

江戸幕府初代将軍 徳川家康(とくがわいえやす) 在任期間1603年~1605年

父は岡崎城主・松平広忠(1549年数え24歳で没。死因には諸説ある)、母は正妻・於大の方(おだいのかた。伝通院。実家は天保の改革を主導した水野忠邦などを輩出した水野家。数え14歳で嫁ぎ数え15歳で竹千代を産む。1602年数え75歳で没)。1543年1月31日(天文11年12月26日)生まれ。清和源氏の新田氏の傍流とされるが信憑性は微妙。幼名は竹千代。改名・改姓し、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康。

織田の人質、次に今川の人質になり、今川勢の武将となる。ドラマや小説では、数え6歳~8歳のときの竹千代が数え14歳~16歳のときの織田信長(1534年6月23日[天文3年5月12日]生まれ)と仲良くなり、今川では軍師・太原雪斎(たいげんせっさい。1555年数え60歳で没)の薫陶を受けるのが恒例だが、真偽不明。1560年桶狭間の戦いを機に独立、織田信長と同盟。三河一向一揆を鎮圧して三河を統一。武田氏と組み今川氏を攻め降伏させ、遠江を手に入れ岡崎から浜松へ移る。信長と共に浅井氏&朝倉氏を攻撃。西上してきた武田信玄と戦うが、1573年1月(元亀3年12月)三方ヶ原の戦いで完敗。しかし同年5月(元亀4年4月)信玄は51歳(数え53歳)で没し、1575年長篠の戦いで信長と連合で武田勝頼に完勝。正妻&長男・信康が信長から謀反の疑いをかけられると、妻子を死に追いやる。武田氏を滅ぼしたあと上京し堺見物している時に1582年6月21日(天正10年6月2日)本能寺の変(信長没。享年47歳[数え49歳])が起こり、かろうじて帰国。

武田氏の遺領を併合後、信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)と組み1584年小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉。1537年3月17日[天文6年2月6日]生まれ)と戦うが和睦、秀吉政権下の大名となる。1590年北条攻めのあと関東へ領地替えになり、江戸を根拠地と定め大規模開発に着手。江戸、のちの東京の大発展の功労者。朝鮮出兵には参加せず、秀吉の臨終のとき秀頼の後見人となること&後事を託されるが、1598年9月18日(慶長3年8月18日)秀吉が61歳(数え62歳)で没すると、実権を握る。

1600年10月21日(慶長5年9月15日)関ヶ原の戦いで石田三成らを破る。1603年将軍宣下を受けて幕府を開く。1605年将軍職を秀忠に譲り徳川世襲の体制を示し、大御所として政治を見る。1615年大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし全国統一。同年、武家諸法度と禁中並公家諸法度を発布。1616年6月1日(元和2年4月17日)駿府で73歳(旧暦での数え75歳)で病没。

戦国の世を終わらせ、世界の歴史の中でも屈指の平和な世である江戸時代をもたらした立役者であり、神君として世界遺産・日光東照宮に祀られている。あらゆる日本の歴史上の人物の中でも高い評価を得ている名君。

ただ、秀吉が死んでからの「狸おやじ」と揶揄される狡猾な手段は印象が悪い。厳しい身分差別、男尊女卑のモラル強制、こうした「悪い意味での封建主義」の元凶の一人であること、この悪影響は現代でも残っていること、も否定できない。織田信長豊臣秀吉ほどの大衆人気はない。

(静岡県静岡市葵区の駿府城公園にある、徳川家康像)

 

江戸幕府第2代将軍 徳川秀忠(とくがわひでただ) 在任期間1605年~1623年

家康の3男。1579年生まれ。妻の江(ごう)は、浅井長政&お市の方(信長の同母妹)の3女、1626年数え54歳で没。長女・千姫は、初め豊臣秀頼の正室、秀頼没後に本多忠刻(ほんだただとき。本多忠勝の孫)の正室、1626年忠刻没後は江戸城竹橋御殿に居住し1666年68歳(数え70歳)で没。5女・和子(かずこ→まさこ)は後水尾天皇の中宮となり明正天皇を産む。

長兄・信康の自害(1579年、享年数え21歳)、次兄・秀康の秀吉養子入り(1607年数え34歳で病没)により家康の後継者となる。ちなみに、秀忠の弟たち、つまり家康の他の男子は、4男・松平忠吉は関ヶ原の戦いで銃弾を受け1607年数え28歳で病没。5男・武田信吉は1603年数え21歳で病没。6男・松平忠輝は家康に改易・配流されその後長命を保ち1683年数え92歳で没。7男・松平松千代と8男・松平仙千代はともに数え6歳で病没。9男・徳川義直は尾張藩(尾張徳川家)初代藩主、1650年数え51歳で病没。10男・徳川頼宜は紀州藩(紀州徳川家)初代藩主、1671年数え70歳で没。11男・徳川頼房は水戸藩(水戸徳川家)初代藩主、1661年数え59歳で病没。

関ヶ原の戦いでは真田氏の妨害で遅参し家康から叱責を受ける。しかし1605年将軍職を譲られる。家康存命中はその意向に従うが、その死後は精力的に政治を見て多くの大名を取り潰す(武断政治)。家光に将軍職を譲ったのちも大御所として政治を見る。1632年52歳(数え54歳)で病没。

 

 

(国宝、世界遺産、日光東照宮の陽明門。1636年、家光の時代に造替)

(日光東照宮の神厩舎にある、三猿[さんざるorさんえん]。「見ざる、言わざる、聞かざる」とは、他人の悪口や嘘や下ネタを戒める趣旨。中国の論語のほか世界各地に類似の説話がある)

 

江戸幕府第3代将軍 徳川家光(とくがわいえみつ) 在任期間1623年~1651年

秀忠の次男(長男・長丸[ちょうまる。庶子]は10か月で夭折)。1604年生まれ。祖父家康の意向で後継者となる。父から将軍職を譲られ、二元政治体制となる。1631年同母弟の3男・忠長に甲府蟄居を命令。1632年父の死後、権力を一元化。同年肥後熊本藩主・加藤忠広を改易。1635年武家諸法度を改定し参勤交代を義務付ける。キリスト教徒をおそれ、島原の乱(1637年~1638年)のあと、外国貿易を統制するなど弾圧する。さらに、身分制度を徹底する。こうして幕藩体制を完成させる。在任のまま46歳(数え48歳)で病没。

(皇居の本丸天守台)

 

江戸幕府第4代将軍 徳川家綱(とくがわいえつな) 在任期間1651年~1680年

家光の長男。1641年生まれ。10歳(数え11歳)で将軍となる。補佐役の保科正之老中・松平伊豆守信綱(まつだいら いずのかみ のぶつな)や大老・酒井雅楽頭忠清(さかい うたのかみ ただきよ)など、幕閣が人材豊富な時代で、彼らが政治を見る。在任のまま38歳(数え40歳)で病没。

※保科正之 ほしなまさゆき。秀忠が乳母の侍女・静(しず)に産ませた4男(庶子)。1611年生まれ。幼名は幸松(ゆきまつ)。秀忠は正妻の江に配慮して幸松の存在を秘し、初め武田信玄の次女に、のちに保科家に養育させる。長じたのち、異母兄の3代将軍家光、甥の4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなす。1643年会津藩初代藩主となり強力な藩に育てる。1651年家光没直後に由井正雪の乱があり、末期養子の禁を解くなど浪人対策に努め、武断政治から文治政治へ転換する。1657年明暦の大火で江戸城天守閣が焼失するが、「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりで、城の守りには必要ない」「江戸の都市整備が優先」として再建しなかった。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」とある『会津家訓十五箇条』(1668年)も有名。1673年2月(旧暦12月)61歳(旧暦での数え62歳)で没。

優れた幕閣であり優れた藩主。ただ、「幕末の会津の悲劇」に深く結びついている人物なだけに、「幕末の会津が好きか、そうでないか」が人物評に影響することは否定できず、そのため評価が難しい。

(福島県会津若松市にある若松城。別名:鶴ヶ城、会津若松城。戊辰戦争のあと解体されたが、1965年[昭和40年]鉄筋コンクリート造りで復元された)

 

江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし) 在任期間1680年~1709年

家光の4男。1646年生まれ。館林城主だったが将軍家綱に子がなく後継者となる。幕閣が人材不足の時代となり、1684年大老・堀田正俊(ほったまさとし)が暗殺されると側用人・柳沢吉保が台頭。従来からあった生類憐れみの考え方を極端化して法令を施行し、貨幣改鋳によって経済は混乱、庶民にとっては悪政になる。1701年4月21日(元禄14年3月14日)松之大廊下の刃傷事件、1703年1月30日(元禄15年12月14日)赤穂浪士の吉良邸討ち入り、この赤穂事件への対応に対する評価も厳しい。在任のまま62歳(数え64歳)で病没。在任中の1688年から1704年までの元号が元禄。上方を中心に文化が発達、元禄文化と呼ばれる。

(尾形光琳の代表作、国宝『紅白梅図屏風』。MOA美術館公式動画)

 

江戸幕府第6代将軍 徳川家宣(とくがわいえのぶ) 在任期間1709年~1712年

家光の3男で甲府藩主だった徳川綱重(とくがわつなしげ)の子。1662年生まれ。将軍後継になる前の名は徳川綱豊(とくがわつなとよ)。学者の新井白石を登用し、前政権の政策を刷新、貨幣を改良する。治世期間は3年と短いが前政権との比較もあって良い評価を得ている。在任のまま50歳(数え51歳)で病没。

(皇居の大手門)

 

江戸幕府第7代将軍 徳川家継(とくがわいえつぐ) 在任期間1713年~1716年

家宣の4男。1709年生まれ。わずか3歳(数え5歳)で就任。引き続き新井白石と側用人・間部詮房(まなべあきふさ)が政治を見る。在任のまま6歳(数え8歳)で病没。

 

(『暴れん坊将軍』第1話 東映時代劇YouTube公式動画)

江戸幕府第8代将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね) 在任期間1716年~1745年

第2代紀州藩主徳川光貞(とくがわみつさだ)の4男。

徳川家康

10男・徳川頼宜(とくがわよりのぶ) 初代紀州藩主

長男・徳川光貞 第2代紀州藩主

4男・徳川吉宗 第5代紀州藩主→第8代将軍

 

1684年生まれ。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。1697年将軍綱吉から越前3万石を与えられる。1705年紀州藩を継いだ兄2人が相次いで没したため紀州藩主となり藩政改革を行う。将軍家継が没すると老中に推されて将軍職を継ぎ、享保の改革と呼ばれる幕政改革を行う。人事を一新(新井白石や間部詮房を罷免、足高制で大岡忠相を登用)、「米将軍」と呼ばれるほどの米政策(上米[あげまい]の制、定免法、新田開発)、貨幣改良(元文の改鋳)、司法制度整備(公事方御定書)、御庭番制度、目安箱(小石川養生所を設置)、防火対策(町火消し)、1732年の享保の大飢饉の反省から青木昆陽に命じて甘藷(かんしょ。サツマイモ)を普及させる、など。天文学などに興味を持ちキリスト教と関係のない書物に限り洋書輸入を解禁、長崎で蘭学ブームが起きる。江戸城にあったオランダの動物図鑑を読んでベトナムからインドゾウを輸入しゾウブームが起きる。馬やクジャクやダチョウも輸入、このように好奇心が強かった。長男・家重に将軍職を譲り、大御所として政治を見る。1751年66歳(数え68歳)で病没。

大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせた上米の制が効果大で、幕府財政は持ち直し、中興の祖と言われる。1978年(昭和53年)から2002年(平成14年)までレギュラー放映されスペシャルを合わせて832回も放映された痛快娯楽時代劇『暴れん坊将軍』の主人公であり、知名度も人気も高い。しかし、農民には実質大幅増税となり農民一揆が頻発。享保の改革は成功とまでは言えないという評価が一般的。

(皇居の富士見櫓)

 

江戸幕府第9代将軍 徳川家重(とくがわいえしげ) 在任期間1745年~1760年

吉宗の長男。1712年生まれ。生来病弱で言語も不明瞭だった。ただ一人家重の言語を聞き分けることができた大岡忠光(おおおかただみつ。明治維新まで続いた武蔵国岩槻藩[大岡家]の初代藩主)が没すると家治に将軍職を譲り、翌年49歳(数え51歳)で没。吉宗の次男・徳川宗武(とくがわむねたけ)は田安家、4男・徳川宗尹(とくがわむねただ)は一橋家、家重の次男・徳川重好(とくがわしげよし)は清水家の初代当主となった(御三卿)。

(皇居の清水門。清水邸は、清水門内で田安邸の東、現在の日本武道館付近にあった)

 

江戸幕府第10代将軍 徳川家治(とくがわいえはる) 在任期間1760年~1786年

家重の長男。1737年生まれ。学芸、特に将棋、特に詰将棋が得意。「吉宗がハンディキャップを負っていた家重を9代将軍としたのは、家治が利発な子だったので安心して10代将軍を任せられると考えたことが理由の一つ」と言われている。自ら政治を見る道は選ばず、田沼意次(1719年生まれ。側用人から老中になった初めての人物。1788年68歳[数え70歳]で没)に政治を任せる道を選ぶ。意次は重商主義政策を採用。株仲間を結成、銅座などの専売制を実施、鉱山開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国貿易拡大、下総国印旛沼の干拓に着手。貿易を黒字化させ国内の金保有量を高め、幕府財政は改善に向かい景気も良くなる。ロシアとの貿易も計画、平賀源内と親交を持ち、蘭学を保護し、実力主義の人材登用も試みる。

しかし身分制度や朱子学を重視する保守的幕閣が反発。1784年意次の息子の若年寄・田沼意知が江戸城内で暗殺され、1786年印旛沼干拓工事も失敗。同年、家治は在任のまま49歳(数え50歳)で病没。直後に意次も老中を辞任させられた。社会の初期資本主義化により贈収賄が横行、1782年~1788年天明の飢饉、1783年浅間山の大噴火も発生。諸藩は米価値上がりを借金返済のチャンスと年貢を厳しく取り立て、一揆&打ちこわしが頻発するようになる。

(皇居の田安門と、日本武道館。田安邸は清水邸の西、現在の日本武道館付近にあった。かつてここに田安明神があったことが名前の由来)

 

江戸幕府第11代将軍 徳川家斉(とくがわいえなり) 在任期間1787年~1837年

一橋家第2代当主・一橋治済(ひとつばしはるさだorひとつばしはるなり)の子。

徳川吉宗

4男・宗尹 一橋家初代当主

4男・一橋治済 一橋家第2代当主

長男・徳川家斉

 

1773年生まれ。将軍に就任すると、田安家出身の白河藩主・松平定信を老中首座に登用し幕政改革に当たらせる(寛政の改革)。「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」。

徳川吉宗

次男・宗武 田安家初代当主

7男・松平定信 田安家から白河松平家へ養子入りし白河藩主

 

しかし厳格過ぎたため1788年尊号一件をきっかけに1793年定信を罷免。「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」。その後は親政を行うが腐敗が進行。内憂外患(1792年ラクスマンが大黒屋光太夫ら漂流民と根室に来航、1804年レザノフが長崎に来航、1806年1807年フヴォストフ事件、1825年異国船打払令、1829年シーボルト事件、1837年大塩平八郎の乱、同年モリソン号事件)の中で貨幣経済と庶民文化は発達する(化政文化)。正妻の他に多くの側室を持ち50人以上の子供が生まれる。次男・家慶に将軍職を譲った後も大御所として政治を見る(大御所政治)。1841年67歳(数え69歳)で病没。在任期間50年は歴代の征夷大将軍の中で最長記録。

(2016年[平成28年]にフランスのオークションで約8800万円で落札されたニュースが話題になった、喜多川歌麿の1793年ころの浮世絵『歌撰恋之部 深く忍恋[かせんこいのぶ ふかくしのぶこい]』。これは同作のイラスト。美人画の大首絵[おおくびえ]を考案したのは歌麿)

 

(東洲斎写楽の1794年の浮世絵『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛(さんだいめおおたにおにじのやっこえどべえ)』[重要文化財、東京国立博物館所蔵]。これは同作のイラスト。写楽は1794年から翌年にかけて10か月間だけ活動した謎の人物。江戸八丁堀に住んでいた阿波徳島藩主蜂須賀家お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛[さいとうじゅうろべえ]という説が有力)

 

(葛飾北斎の『冨嶽三十六景』。1823年ころから作成が始まり1831年ころ~1835年ころに刊行された。上は『凱風快晴[がいふうかいせい]』、通称「赤富士」。下は『神奈川沖浪裏[かながわおきなみうら]』、2024年[令和6年]発行予定の新千円札の裏の絵柄に使用される)

 

(山形県米沢市の上杉神社にある、上杉鷹山公之像)

1822年4月2日(文政5年3月11日)第9代出羽国米沢藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん)が70歳(数え72歳)で没。1751年9月9日(寛延[かんえん]4年7月20日)生まれ。倹約と殖産興業に努め、領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、史上屈指の名君と言われている。鷹山は隠居後の号で、それまでは上杉治憲(うえすぎはるのり)。為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という名言が有名。

元ネタがあり「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなき」という武田信玄の名言。信玄の名言は「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」も有名。

山本五十六(1884年[明治17年]4月4日生~1943年[昭和18年]4月18日戦死。享年59歳)の名言「やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ」の元ネタは鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」。山本五十六は「苦しいこともあるだろう 云い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじつとこらえてゆくのが男の修業である」という名言『男の修業』も有名

 

 

(『遠山の金さん[1975]』第1話 東映時代劇YouTube公式動画)

江戸幕府第12代将軍 徳川家慶(とくがわいえよし) 在任期間1837年~1853年7月27日(嘉永6年6月22日)

家斉の次男。1793年生まれ。治世のはじめは大御所政治の下にあった。

1841年家斉没後は水野忠邦を登用し改革を行わせる(天保の改革)。蘭学者を弾圧した目付&南町奉行・鳥居耀蔵、庶民に優しい『遠山の金さん』で有名な北町奉行・遠山左衛門尉影元(とおやま さえもんのじょう かげもと。通称が金四郎。1855年[安政2年]61歳[数え63歳]で没)が有名。1839年蛮社の獄、しかし1840年アヘン戦争&1842年南京条約に驚いた幕府は態度を変えて1842年薪水給与令を出す。天保の改革は失敗し、1843年水野忠邦は失脚、一度復帰するも1845年完全に失脚。代わって阿部正弘(1819年生~1857年37歳[数え39歳]で没)を老中首座に登用。阿部正弘の改革は「安政の改革」と呼ばれ、その評価は時代を経るごとに上がっている感がある。ペリー艦隊が浦賀沖に現れた19日後に在任のまま60歳(数え61歳)で病没。

(皇居の伏見櫓)

 

江戸幕府第13代将軍 徳川家定(とくがわいえさだ) 在任期間1853年(嘉永6年)~1858年(安政5年)

家慶の子。1824年生まれ。3人目の正室が天璋院篤姫。黒船来航で外交&政治の決断が迫られていたが、病弱で自らは政務を行わなかった。子がなく将軍後継問題が起こる。1854年(嘉永7年)日米和親条約締結。1858年(安政5年)日米修好通商条約締結。在任のまま34歳(数え35歳)で病没。

(鹿児島県鹿児島市の照国神社にある、島津斉彬像。照国神社の祭神[さいじん]は島津斉彬)

(2018年[平成30年]の大河ドラマ『西郷どん』NHKエンタープライズ公式動画。渡辺謙が演じる島津斉彬は1分40秒ころから出てくる)

 

1858年8月24日(安政5年7月16日)、第11代薩摩藩主で第28代島津氏当主の島津斉彬(しまづなりあきら)が49歳(数え50歳)で没。1809年4月28日(文化6年3月14日)生まれ。驚異的な先見の明があり、史上屈指の名君と言われている。西洋列強に開国を迫られる時代を予見し、薩摩藩の富国強兵に着手し、成功。西郷隆盛をはじめとする優秀な人材を育てた功績が高く評価されている。1851年に秘かに帰国したジョン万次郎を厚遇してアメリカの最新事情&技術を吸収したエピソードや、1856年に大奥に輿入れさせた天璋院篤姫が2008年(平成20年)の大河ドラマ『篤姫』で人気になるなど、名君としてのエピソードを幾つも持つ。死因はコレラとされるが、毒殺説もある。

初代島津氏当主は島津忠久(しまづただひさ。生年不詳~1227年没)。1185年源頼朝から薩摩&大隅&日向(=近衛家の荘園である島津荘)の地頭に、のちに同地の守護にも任命される。自身は鎌倉に居住。島津氏のルーツは武士化した近衛家家臣だが、忠久は源頼朝が側室・丹後局に産ませたご落胤という伝承もある。

初代薩摩藩主は島津家久(しまづいえひさ。1576年生~1638年61歳[数え63歳]で没)。関ヶ原の戦いで西軍に参加し敵中突破退却した島津義弘の3男。1602年父に代わり江戸に赴き家康に謝罪、本領を安堵される。1606年に家康から偏諱を受け「家久」と名乗る。それまでの名は忠恒(ただつね)。1609年3千の兵で琉球を占領し付庸国(ふようこく)とする。明と密貿易も行う。1613年琉球から奄美群島を割譲させ代官や奉行所を置き薩摩藩の直轄地とする。

(皇居の桜田門。1860年3月24日[安政7年3月3日]、水戸浪士17名&薩摩浪士1名が大老井伊直弼を襲撃し暗殺した事件、桜田門外の変が起きた場所)

 

江戸幕府第14代将軍 徳川家茂(とくがわいえもち) 在任期間1858年(安政5年)~1866年8月29日(慶応2年7月20日)

紀州藩主・徳川斉順(とくがわなりゆき)の子。1846年生まれ。将軍となる前の名前は徳川慶福(とくがわよしとみ)。斉順の父は第11代将軍家斉、斉順の兄は第12代将軍家慶であり、家茂と第13代将軍家定は従兄弟同士。将軍後継問題で井伊直弼ら南紀派に擁立される。はじめ田安慶頼(たやすよしより)が、次に一橋慶喜が将軍後見職に就く。1862年(文久2年)公武合体として孝明天皇の異母妹・和宮(かずのみや)と結婚、夫婦仲はとても良かった。攘夷決行問題で上京したのをはじめ、3度京に赴く。政務に関心を示したが病弱で、第2次長州征伐の最中、大坂城で在任のまま20歳(数え21歳)で病没。

(皇居の坂下門。1862年2月13日[文久2年1月15日]、和宮降嫁に憤慨した尊王攘夷派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件、坂下門外の変が起きた場所)

 

江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜(とくがわよしのぶ) 在任期間1867年1月10日(慶応2年12月5日)~1868年1月3日(慶応3年12月9日)

史上最後の征夷大将軍。水戸藩主徳川斉昭(とくがわなりあき)の子。1837年生まれ。一橋家に養子入りする。将軍後継問題で島津斉彬&松平春嶽&山内容堂&伊達宗城(だてむねなり)(四賢候)らから推されるが大老井伊直弼の決定に敗れる。安政の大獄では隠居謹慎となるが、1860年(安政7年)桜田門外の変で直弼が暗殺され、半年後に謹慎解除。1862年(文久2年)文久の改革で将軍後見職に就任、1864年(元治元年)禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任。1864年7月8日(元治元年6月5日)池田屋事件、同年8月20日(元治元年7月19日)禁門の変、このあと長州藩に対する融和的態度を放棄し第1次長州征伐、会津藩&桑名藩との連携が強くなる(一会桑体制)。これに反発した勢力が1866年3月7日(慶応2年1月21日)薩長同盟を結んだため、同年8月(慶応2年7月)第2次長州征伐は失敗に終わる。

同年同月の家茂急死を受け将軍に就任。フランスから援助を受け幕府の近代化を進める。勢いを増す倒幕勢力&内乱発生懸念への対策として1867年11月9日(慶応3年10月14日)大政奉還を実行に移し、政治体制の再編を図る。一般に、この大政奉還の日が、約700年続いた日本の武家政権の終わりの日とされる。1868年1月3日(慶応3年12月9日)王政復古の大号令(倒幕勢力のクーデター)で京の政界から退く。鳥羽・伏見の戦いでは中途放棄して江戸に戻る。同年5月(慶応4年4月)江戸城を明け渡した後、駿府から改名した静岡で謹慎。

明治30年という節目の年(1897年)に朝廷&明治政府と和解し東京に移り住む。洋式の文物に興味を示し、洋装を好んだほか、維新後隠棲していた頃は写真家として活動。1913年(大正2年)76歳(数え77歳)で没。歴代の征夷大将軍の中で最も長寿だった。

(京都府京都市中京区にある、国宝、世界遺産、二条城の二の丸御殿。徳川慶喜はここで上洛中の40諸藩重臣に大政奉還を諮問した)

(世界遺産、二条城の二の丸御殿唐門。重要文化財)

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(雑感)

 

日本史メモ全62回、書き終わりました。江戸時代で特に学んでご利益がありそうなのは「名君」。中でも史上屈指の名君と言われている上杉鷹山島津斉彬、この御二方からは深く学びたいものです。今後はしばらくゆっくりしてから東京オリンピック&パラリンピックに関連させながら9か国語くらい外国語を勉強するシリーズを書く予定です。