日本史メモ 第60回 鎌倉幕府将軍 & 執権 | 嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

嗅覚障害者の団体を作りたい。 I want to create an organization for people with smell disorders.

リトル・ミックスのペリー・エドワーズも同じ嗅覚障害らしいですね。"Perrie Edwards from Little Mix also seems to have the same smell disorder as me, doesn't she?"

(神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮。源頼義が京都の石清水八幡宮で前九年の役[1051年~1062年]の戦勝祈願をし平定すると1063年に創建。1081年源義家が修復。1180年源頼朝が現在の地に移す。写真の本宮[上宮]は1828年に江戸幕府第11代将軍徳川家斉が造営させたもので、国の重要文化財。実朝暗殺のとき公暁が隠れていた伝承で有名な大銀杏は天然記念物だったが2010年[平成22年]に雪混じりの強風で倒れた。写真左下の幹は倒れた大銀杏の一部を移植したもの。写真中央下に元の根から成長した小さな銀杏の木が見える) 

 

 

鎌倉幕府初代将軍 源頼朝(みなもとのよりとも) 在任期間1192年8月21日(建久3年7月12日)~1199年2月9日(建久10年1月13日)

 

第56代天皇・清和(せいわ)天皇

第6皇子・貞純(さだずみ)親王

経基王(つねもとおう) 臣籍降下して、源経基(みなもとのつねもと)

平将門の乱で将門を誣告。

長男・源満仲(みなもとのみつなか)

『御伽草子』『酒呑童子(しゅてんどうじ)』で有名な源頼光(みなもとのらいこう)は長男。金太郎こと坂田金時(さかたのきんとき)は頼光の家臣。

明智光秀を輩出した明智氏は頼光の子孫。

3男・源頼信(みなもとのよりのぶ)

頼光の異母弟。藤原道長に仕えて勢力を拡大。平忠常の乱を平定。

長男・源頼義(みなもとのよりよし)

前九年の役を平定。三男・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の子孫が甲斐源氏宗家の武田氏で、第19代当主が武田信玄。

長男・源義家(みなもとのよしいえ)

別名・八幡太郎。後三年の役を平定。昇殿を許される。

足利氏・新田氏(→徳川氏)の先祖。

次男・源義親(みなもとのよしちか)

乱行が多く平正盛に討伐される。

4男・源為義(みなもとのためよし)

保元の乱で敗死。

長男・源義朝(みなもとのよしとも)

保元の乱で勝利するも平治の乱で敗死。

3男(嫡子)・源頼朝

 

父は源義朝(1123年生~1160年数え38歳で没)。母は正妻の由良御前(ゆらごぜん。熱田神宮の大宮司・藤原季範[ふじわらのすえのり]の娘。生年不詳~1159年没)。1147年5月9日(久安3年4月8日)生まれ。3男だが、長男の悪源太義平(あくげんた よしひら)・次男の朝長(ともなが)が庶子のため嫡子。幼名は鬼武者or鬼武丸。

1160年13歳(数え14歳)のとき平治の乱に敗北し伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま。現、静岡県伊豆の国市)に配流となる。20年にも及んだ配流生活中、貴族化した平家に失望した坂東武者や源氏の縁者と連絡を取る。また、この期間に北条政子と結婚。

1180年以仁王の令旨を受け挙兵。石橋山の戦いに敗れるが安房へ逃れ再起に成功。後白河法皇に接近し、東国経営に力を注ぎつつ、弟の範頼&義経を派遣して上方の権力闘争にも抜かりなく介入、1184年木曽義仲を、1185年(文治元年)平家一門を滅ぼす。同年義経が謀反に及ぶとそれを理由に後白河法皇に守護・地頭の設置を認めさせ、近年はこれをもって鎌倉幕府成立とする説が有力。1189年義経自害(享年数え31歳)、奥州藤原氏を滅ぼす。1190年上洛し、以後約30年間続く朝廷との安定した関係を築く。1192年後白河法皇が崩御すると後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられる。相模川橋供養の帰途に落馬し、回復せず1199年2月9日(建久10年1月13日)在任のまま51歳(数え53歳)で没した(死因には異説もある)。

日本史を古代から中世へと塗り替えた立役者であり、天才的な戦略家、天才的な政治家だった。しかし、義経を死に追いやったことは人気面で決定的なマイナスであり、人気がない人物。

 

鎌倉幕府第2代将軍 源頼家(みなもとのよりいえ) 在任期間1202年~1203年

頼朝北条政子の嫡子(2人の子としては長男)。1182年生まれ。父の急死を受け将軍に就任するが13人合議制により権力を手にできなかった。1203年、自身が急病で危篤状態の間に頼みとした妻の実家の比企氏は北条氏に滅ぼされ、和田義盛を頼みとして北条討伐を企図するがうまくいかず、将軍職を剥奪され修善寺に幽閉される。翌1204年修善寺にて暗殺される。享年21歳(数え23歳)。

 

鎌倉幕府第3代将軍 源実朝(みなもとのさねとも) 在任期間1203年~1219年

頼朝北条政子の(2人の子としては)次男。頼家の同母弟。1192年生まれ。兄に代わり将軍に就任。実朝は朝廷との関係を重視し、後鳥羽上皇もこの政策に期待したため、朝廷との関係は良好だった。しかし幕府対朝廷の構図が明確になり孤立、渡宋を希望するようになる。右大臣就任祝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際、頼家の子・公暁に襲撃され在任のまま殺害される。享年26歳(数え28歳)。藤原定家の弟子で、その万葉調の歌は高い評価を得ている。

源実朝『金槐和歌集』にある代表的な歌

大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも

おおうみのいそもとどろによするなみ、われてくだけてさけてちるかも

(口語訳)大海の磯を轟かすように寄せる波は、割れて、砕けて、裂けて、散るものよ。


鎌倉幕府第4代将軍 九条頼経(くじょうよりつね) 在任期間1226年~1244年

摂家将軍、藤原将軍。源頼朝の同母妹・坊門姫(ぼうもんひめ)の3代孫。九条道家の3男。ちなみに道家の長女は後堀河天皇の中宮&四条天皇の母、長男は九条家を継ぎ、次男は二条家の祖、4男は一条家の祖であり、みな母が同じ。1218年生まれ。鎌倉に迎えられたのは1219年、幼名は三寅(みとら)。源家将軍断絶後、幕府は皇族将軍を求めるが、後鳥羽上皇に拒否されたため姻戚関係にあった1歳半(数え2歳)の三寅を迎える。実権はなく1221年の承久の乱も無関係。成長するにつれ反北条勢力が頼経の周囲に集まったため、1242年に第4代執権に就任した北条経時によって1244年将軍職を解任される。しかしその後も鎌倉に居続け反北条勢力が周囲に集まったため、1246年第5代執権に就任した北条時頼によって京都に追放される(宮騒動[みやそうどう])。赤痢のため38歳(数え39歳)で病没。

 

鎌倉幕府第5代将軍 九条頼嗣(くじょうよりつぐ) 在任期間1244年~1252年

摂家将軍、藤原将軍。頼経の子。1239年生まれ。第4代執権北条経時の意向で父に代わり将軍に就任。実権はなかった。九条家による幕府転覆の陰謀が取り沙汰されたため将軍職を剥奪され京に追放される。父が没した1か月後に、同じく赤痢のため16歳(数え18歳)で病没。

 

鎌倉幕府第6代将軍 宗尊(むねたか)親王 在任期間1252年~1266年

皇族将軍。後嵯峨天皇の第1皇子。後深草天皇&亀山天皇は異母弟で、将軍宣下したのは後深草天皇。1242年生まれ。正室は源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。謀反の疑いで将軍を解任され帰京する。31歳(数え33歳)で没。

 

鎌倉幕府第7代将軍 維康(これやす)親王 在任期間1266年~1289年

皇族将軍。宗尊親王の子。1264年生まれ。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。はじめ維康王、1270年に臣籍降下して源維康と名乗る。第8代執権北条時宗が「蒙古との闘いに備え源家将軍を擁立することが士気高揚につながる」と考えたためと言われている。1268年1月フビライの使者が来日。1274年文永の役。1281年弘安の役。1287年親王に復帰。第9代執権北条貞時によって辞職に追い込まれ京に移り住む。62歳(数え63歳)で没。鎌倉幕府将軍の中では最も長寿だった。

 

鎌倉幕府第8代将軍 久明(ひさあき)親王 在任期間1289年~1308年

皇族将軍。後深草天皇の第6皇子。将軍宣下したのは異母兄の伏見天皇。源頼朝の同母妹・坊門姫の子孫。1276年生まれ。政治と無縁の歌人で北条家との関係は悪くなかったが19年目に解任され京に戻る。52歳(数え53歳)で没。

 

鎌倉幕府第9代将軍 守邦(もりくに)親王 在任期間1308年~1333年

皇族将軍。久明親王の子。1301年生まれ。7歳(数え8歳)で就任。幕府滅亡後出家するが、幕府滅亡から3か月後に32歳(数え33歳)で没。混乱期のため詳細不明。在任期間約25年は鎌倉幕府将軍として最も長い。

 

 

(神奈川県鎌倉市にある、鎌倉の大仏こと、高徳院の本尊・阿弥陀如来像。像高11.39メートル、台座を含めた高さ13.35メートル、重量約121トン。青銅製。鎌倉時代に流行した「宋風」の特色を持つ鎌倉時代を代表する仏教彫刻で、国宝。大仏建立年や高徳院創建年や大仏殿喪失年などは不明だが、現存する大仏は1252年から造られたと言われている。室町時代の明応期に大津波がここまで来て大仏殿が流されたこともある)

 

 

鎌倉幕府初代執権 北条時政(ほうじょうときまさ) 在職期間1203年~1205年

北条政子義時&時房の父。1138年生まれ。桓武平氏の子孫とされるが、伊豆国田方郡(たがぐん)北条(現、静岡県伊豆の国市)の在地豪族という説が有力。時政の前半生や親族はほとんど不明。

1160年数え23歳のとき源頼朝が配流されてきて、その監視役となる。娘の政子が頼朝と結婚、舅として頼朝を流人時代から後援し続ける。

1185年(文治元年)数え48歳のとき、上洛して義経追討のため「守護・地頭の設置」を朝廷に認めさせることに成功。1203年数え66歳のとき、源頼家幽閉→源実朝将軍就任に伴い執権に就任。しかし後妻の牧の方と共に権力独占を策謀、1205年畠山重忠を滅ぼした事件や将軍実朝暗殺未遂事件に至り、政子&義時と対立、執権職を剥奪され隠居させられる。10年後に数え78歳で病没。鎌倉幕府執権の中では最も長寿だった。北条家の子孫は得宗家初代を義時とし、晩節を汚した時政は祭祀から外した。

 

鎌倉幕府第2代執権 北条義時(ほうじょうよしとき) 在職期間1205年~1224年

時政の次男&得宗家初代。1163年生まれ。「1221年承久の乱のときの幕府側の最高責任者であり、仲恭天皇を廃し後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した」「主家である源家を絶えさせた疑いがある」ため評価が難しい。1979年(昭和54年)の大河ドラマ『草燃える』では源頼朝&姉で頼朝の妻の北条政子とともに主役であり、「平安時代末期からの争乱の勝者は、坂東武者」という識見を持つ最終的勝者として描かれた。在職のまま数え62歳で没。死因については諸説ある。在職期間約19年は鎌倉幕府執権として最も長い。

 

鎌倉幕府第3代執権 北条泰時(ほうじょうやすとき) 在職期間1224年~1242年

義時の長男(庶子)&得宗家2代目。1183年生まれ。数え39歳のとき起きた承久の乱では総勢19万騎の総大将として鎌倉から京都まで攻め上り幕府軍を勝利に導く。1225年大江広元(おおえのひろもと)が数え78歳で没、同年北条政子が数え69歳で没。1232年御成敗式目(貞永式目)を制定。1242年在職のまま数え60歳で病没。

総大将として歴史上重要な戦いで勝利し、武家社会の成文法を制定し、仕事熱心、質素な生活をした有徳の人物で、武家政権のリーダーとして史上屈指の高い評価を得ている。泰時を高く評価した著名人=北畠親房、新井白石。

 

鎌倉幕府第4代執権 北条経時(ほうじょうつねとき) 在職期間1242年~1246年

泰時の長男(嫡子)である時氏(ときうじ)の長男&得宗家3代目。1224年生まれ。1244年第4代将軍九条頼経を解任。病気のため同母弟の時頼に執権職を譲り、直後に数え23歳で病没。

 

鎌倉幕府第5代執権 北条時頼(ほうじょうときより) 在職期間1246年~1256年

時氏の次男&経時の同母弟。1227年生まれ。得宗家4代目。就任直後に宮騒動(みやそうどう)が起こるが鎮圧。1253年建長寺を創建。1256年赤痢にかかり、北条長時に執権職を譲る。回復した時頼は出家し最明寺入道(さいみょうじのにゅうどう)を名乗る。1263年36歳(数え37歳)で没。時頼が諸国を旅して民情視察を行ったという廻国(かいこく)伝説が生まれ、能の『鉢木(はちのき)』が有名。『徒然草』第215段に、最明寺入道が一族の若者・北条宣時に晩酌の相手をしてくれ、酒の肴をさがしてくれと頼み、宣時が「味噌ならあります」と差し出すと「おう、それでけっこう、けっこう」と喜んで2人で晩酌を楽しんだ、というエピソードがあり、質素な生活が称賛されている。北条家執権の中では祖父・泰時に次ぐ高い評価を得ている人物。

 

鎌倉幕府第6代執権 北条長時(ほうじょうながとき) 在職期間1256年~1264年

泰時の弟・重時(しげとき)の子。1230年生まれ。病気のため執権職を叔父の政村に譲り、1か月後に34歳(数え35歳)で病没。

 

鎌倉幕府第7代執権 北条政村(ほうじょうまさむら) 在職期間1264年~1268年

泰時&重時の弟。1205年生まれ。1268年1月フビライ・ハンの使者が来日。元寇という難局を前に権力の一元化を図るため執権職を時宗に譲り、1273年67歳(数え69歳)で病没。

 

鎌倉幕府第8代執権 北条時宗(ほうじょうときむね) 在職期間1268年~1284年

時頼の次男(嫡子)&得宗家5代目。1251年生まれ。フビライ・ハンの使者が来日した2か月後に16歳(数え18歳)で執権就任。1274年文永の役。1275年元の正使として杜世忠ら5名が来日したが鎌倉龍ノ口で斬首にする。1281年弘安の役。1284年在職のまま32歳(数え34歳)で病没。生涯を蒙古(モンゴル帝国)との戦いに捧げた。太平洋戦争敗戦の前後で評価が大きく変わった人物。

 

鎌倉幕府第9代執権 北条貞時(ほうじょうさだとき) 在職期間1284年~1301年

時宗の嫡子&得宗家6代目。1272年1月(旧暦12月)生まれ。父急死を受け、わずか12歳(旧暦での数え14歳)で就任。翌1285年霜月騒動、安達泰盛ら有力御家人が平頼綱(たいらのよりつな)ら御内人(みうちびと。得宗家の家臣)勢力に滅ぼされる。1293年鎌倉地震が発生、貞時はこの混乱に乗じ内管領(ないかんれい)となっていた平頼綱を滅ぼし(平禅門の乱[へいぜんもんのらん])、権力を掌握。1297年元寇の出費の借金で苦しむ御家人を救済するため永仁の徳政令を発布するが、かえって借金がしにくくなり御家人は苦しんだ。1301年ハレー彗星が出現、凶兆と憂慮し執権職を従弟の師時に譲る。実権は貞時にあり、師時にはわが子・高時が成長するまでの中継ぎとしての役割を期待したが、高時が成長する前に師時は早世。師時が没して1か月後に39歳(旧暦での数え41歳)で没。

貞時の晩年は酒浸りの生活で、内管領・長崎円喜(ながさきえんき。生年不詳。1333年東勝寺で北条一門とともに自害)が実権を握り、執権は短期間の人物が続いて傀儡化、鎌倉幕府は滅亡へ向かう。

 

鎌倉幕府第10代執権 北条師時(ほうじょうもろとき) 在職期間1301年~1311年

時宗の同母弟・宗政(むねまさ)の子。1275年生まれ。高時が成長するまでの中継ぎとして数え27歳で就任するがその使命が終わらないうちに在職のまま数え37歳で病没。

 

鎌倉幕府第11代執権 北条宗宣(ほうじょうむねのぶ) 在職期間1311年~1312年

政子義時の弟・時房(ときふさ)の3代孫。1259年生まれ。在職1年で煕時に譲り、まもなく数え54歳で没。

 

鎌倉幕府第12代執権 北条煕時(ほうじょうひろとき) 在職期間1312年~1315年

政村の3代孫。1279年生まれ。在職3年で病気のため基時に譲り、まもなく数え37歳で病没。

 

鎌倉幕府第13代執権 北条基時(ほうじょうもととき) 在職期間1315年~1316年

重時の3代孫、長時の弟の孫。1286年生まれ。在職1年で高時に譲る。1333年鎌倉幕府滅亡のとき、鎌倉七口(かまくらななくち)の一つ化粧坂(けわいざか)を守り新田義貞軍の突破を許さなかったが、稲村ケ崎から鎌倉に突入され、自害。享年数え48歳。

 

鎌倉幕府第14代執権 北条高時(ほうじょうたかとき) 在職期間1316年~1326年

貞時の嫡子&得宗家7代目。1304年1月(旧暦12月)生まれ。病気のため執権職を辞職。1333年鎌倉幕府滅亡のとき、北条家の菩提寺である東勝寺(とうしょうじ)で一族郎党と共に自害。享年29歳(旧暦での数え31歳)。『太平記』では田楽や犬追物に熱中し悪政を布いて人々の憎しみを買った幕府滅亡の元凶として描かれている。現代劇では1991年(平成3年)の大河ドラマ『太平記』のように「傀儡であり、愚鈍、高慢、孤独な、虚無主義者(ニヒリスト)」とされることが多い。

 

鎌倉幕府第15代執権 北条貞顕(ほうじょうさだあき) 在職期間1326年

金沢実時(かねさわさねとき。泰時の弟・実泰[さねやす]の子)の孫。金沢貞顕(かねさわさだあき)ともいう。1278年生まれ。高時は後継者を定めず辞職したため高時の息子と高時の弟の間で後継争いが発生、中継ぎとして貞顕が就任。しかし貞顕暗殺の噂が流れたため10日で辞職。1333年東勝寺で一門と共に自害。享年数え56歳。

 

鎌倉幕府第16代執権 北条守時(ほうじょうもりとき) 在職期間1326年~1333年

長時の3代孫。赤橋守時(あかはしもりとき)ともいう。同母妹は足利尊氏の正妻・赤橋登子(あかはしとうこ)。1295年生まれ。1333年鎌倉幕府滅亡の際、義弟の尊氏が裏切ったため立場がなく、先鋒として新田義貞軍と戦い退却せず奮戦したのち自害。享年数え39歳。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

(雑感)

 

鎌倉幕府。源頼朝、北条政子、北条時政、北条義時。幕府をつくった人たち。幕府をつくった時代。

「新しい団体」「新しい団体をつくった人たち」「新しい団体を立ち上げた時代」ですね。

団体の立ち上げって、それこそ数多くありますが、日本史上屈指の、スケールの大きい、画期的な、「新しい団体の立ち上げ」に思えます。鎌倉幕府の立ち上げ。

私も「嗅覚障害者の団体を作りたい」と心底願っているわけですが、さすがに鎌倉幕府とじゃ、スケールが違いますよね。お題にしてコメントするだけでも恐縮してしまいます。

あえてコメントさせていただければ、私も、流人時代の源頼朝のように、地道に、協力者を探し、連絡を取りたいものです。

ただし、私では源頼朝のような旗頭にはなれません。見習うべきは、北条時政北条義時、そして多くの御家人たちのような、旗頭を迎え、担いで、支える立場の人間です。もちろん、時政義時には「ここは反面教師にしたいな」と思えるところもありますから、そこはそう心掛けつつ、です。私は、そういう人物になることを目指しています。