練馬ではたらく社長、初心日記 -51ページ目

「決めたんです」






仲間経営者の一人、黒岩さん


彼のセミナーを拝聴した。


かれこれ、3回目の受講になる。




練馬ではたらく社長、初心日記


毎回、聞かせて頂くたびに上手になってんなぁ。


笑いも入れつつ、涙もホロリ。



で、彼のライフワークをご紹介します。


養護施設出身の黒岩さん。


全国の養護施設で暮らす子供たちに


夢や希望を与える為に講師になった。



自分家庭や家族を持つこと、


夢を持つこと、当たり前のような希望すら


「持ってはいけないこと」と思ってるらしい。


黒岩さんは、それらを一つ一つ解してる。




彼の活動の一つ、


養護施設の子供たちの進学支援プログラム


カナエール実行委員会 をくぐってくださいまし。













僕は象だぞ~♪ 





我が息子、初の表舞台。


リトミック教室のお遊戯発表会が光ヶ丘で催された。




練馬ではたらく社長、初心日記



2歳~4歳くらいの子供たちのお遊戯。


時間ぎりぎりで会場に向かうとすでに熱気ムンムン。


子供の数の3倍~4倍もの数の大人たち。


最前列はカメラ、ビデオを三脚付きでスタンバってるお父さん方。


おじいちゃん、おばあちゃんも大勢おこしだ。


完璧に先を越されたよ。


それでも、負けずに前列前に体育座りで着席してやった。



で、実際のお遊戯はというと、ウチの子は全然ダメだわ。


踊れないし、衣装も着たがらない・・。


これは父譲りだな。


しょうがない。


ママはご機嫌斜めだけど、得手不得手は存在するものだよ。



親の期待にこたえる才能はないかも知れんが、


まだ見えてこない、限りない才能を持ったわが子の成長を楽しもうよ、


ね?ママ。























母の言葉







母がなくなった。


こんなこと、ココにアップするのもどうかと思いつつ、


誇らしい母のことを紹介したいと思った。



母方かすると初孫だった俺は皆からかわいがられた。


らしい。


記憶はないがなんとなく感じる。


もちろん、母からの愛情は十二分に感じて過ごした。




練馬ではたらく社長、初心日記



小学生2年生のとき、弟が0歳のとき、練馬に越してきた。


創業社長である、親父の独立だ。


店舗付き建売住宅の一角でク店を開業。


父も母も一生懸命働いた。


当時はお客様も「0」。


アパレル会社の下請けの下請けの孫請け、大手ク会社の下請け等、


深夜の1時2時まで両親二人でアイロンがけしていたのを覚えてる。


そんな背中を見て育った。


育てて貰った。



母は仕事ばかりではなく、


当時、依頼していた職人さんの飯炊きまでこなしていた。


朝、昼、夕、三食と住まいの世話までも。


10人近くいた職人さんの世話焼きまでこなしていた。


大きな炊飯器と寸胴のようななべで味噌汁を作っていたっけ。


いつも寝るのは深夜だった。


なので、学校行事の両親との記憶はほとんどないが、


みんなそんな時代だったかな。



両親の頑張りで会社が軌道に乗り、少しづつ豊かになってきた。


母はゴルフを始めた。


男性顔負けの大きなスイングは飛距離、正確性、誰にも負けなかったらしい。


俺は当時、ゴルフに興味がなく、とうとう一緒にラウンドすることはかなわなかった。


また、水彩画も趣味に持ち数々の作品を書き上げた。


とても上手だったよ。




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明るく、綺麗で、頭のいい母だった。


たくさんの友達がいた。


家族には分け隔てなく愛情を注いでくれた、


「肝っ玉母さん」って言葉がぴったりくる。



60歳を過ぎた辺りから間接性リュウマチに犯された。


大好きなゴルフができなくなった。


すごく悔しい思いだったそうだ。


ゴルフクラブを手放した。



その後は病気との戦いの連続だった。


変形した間接を何回もの手術で矯正した。


足、腰、手、全身が激痛だったそうだ。


更に、肺結核をわずらう。


肺がんに侵される。


病気のオンパレード。


肉体的損傷はもちろん、その度の精神的な苦痛は想像を絶する。


決定的だったのは間質性肺炎。


自分の肺で酸素を取り入れられなくなった。



日に日に弱くなってゆく母の身体。


血行が悪い為、足が冷える。


信じられないくらいに細く弱弱しい足くびからすねをさする。


こんなに小さくなっちゃって・・。


「あ~、気持ちいいよ。」と母。



こんな状態になりながらも母はいつも気丈に笑っていた。


俺達の前では決して弱音を吐かなかった。


そればかりか、俺をはじめとする自分の近しい人達の心配までしていた母だった。


気遣いだって忘れない。


本当に関心力の高い母だった。



13年にわたる闘病生活。


余命をやんわり聞かされてからの2年間。


じわじわ身体が蝕まれていく状況の中で


決して自分を見失っていない母はすごいと思う。


最後の最後までだ。



先週、意識のあるときに話した母の最後の会話だ。


「あんた、後はお願いね。おとうさんをよろしくね。」


「あ~、○○(俺の子の名)がもう少し大きくなるのを見たかったなぁ。」


「新しい本社は見れそうもないね。」


そんな言葉に「何言ってんだよ。」としか答えられなかった。



母は静かに逝った。



親孝行とは何ぞや。


後悔ばかりが心に残る。



最後に母がよく口にしていた言葉を紹介する。



『夫婦仲良く、親子仲良く、兄弟仲良く、何か決めるときは一本道で。』



『感謝の気持ちを忘れるな。』



『お父さんに寂しい思いをさせんなよ。』




亡き母の意志を継ぎ、母のかなわなかった事柄を俺なりに実践し、


精一杯、生きてゆきます。